脱構築の「その後」が現れない言説はパロディを演ることに真剣になりすぎている。自分が何を思い、どう生きるのかを語るときにさえも、"真剣なパロディ"を背後に用意しなくては水も舌も得られないような思想は、是非はともかく、少なくとも私にはルサンチマンの思想にしか見えない。是非はともかく。