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戦後と同じことが起きてないか?

― 止められているのに、止めている相手が見えない社会

あたしは最近、ふと思った。
いまの日本って、戦後直後と似た構造が起きてないか、と。

戦後の記録にはこうある。

降伏直後、多くの工場は賠償指定を受け、生産を禁じられた。
生き残るために「平和産業」へ転換しても、生産制限を課せられ、生産量は落ちた。
失業と賃金低下が起き、労働者たちは全国で「生産管理闘争」「生産復興闘争」を起こした。
1946年には毎月平均30件も発生していた。
それでもストライキはほとんど行われなかった。

ここが重要だ。

労働者たちは止めるためではなく、動かすために闘っていた。
生活を守るには、工場を回すしかなかったからだ。

でも、そのとき同時に起きていた。

占領軍による厳しい言論統制。
「民主化のための占領」という前提をつくり、世論が誘導されていた。
その結果、多くの労働者は「経済復興が遅れているのは、資本家が民主化を妨害するために生産サボをしているせいだ」と信じていた。

つまり何が起きたかというと、

生産は制限されている。
でも制限している側が見えない。
だから怒りは国内に向かう。
労働者は資本家と戦う。
そして復興は遅れる。

この構造が、戦後直後の空気だった。



ここまで読むと、嫌な感覚が湧く。

いまも似たことが起きてないか?

もちろん今は、当時みたいに露骨に「生産禁止」なんてしない。
でも、形が変わっただけで、同じ効果が出るやり方はある。

例えば、規制や許認可、監査、制度設計。
補助金や委託、予算配分。
プラットフォームの規約やアルゴリズム。
そして世論の「正義」や「炎上」や「分断」。

これらが重なると何が起きるか。

現場は頑張っている。
働いている。
回そうとしている。
なのに状況は良くならない。

そのとき人は、原因を探す。

でも本当のボトルネックが見えないと、
怒りは一番近くにいる相手へ向かう。

若者 vs 老人
男 vs 女
正社員 vs 非正規
都会 vs 地方
右 vs 左

同じ国の中で、殴り合う構図が生まれる。

そして本丸が見えなくなる。
「何が止めているのか」が見えなくなる。



ここで思う。

これは政治の話というより、
世界の立ち上がり方の話だ。

わたしたちは、世界の起点をいつのまにか
他人の言葉や社会の前提に預けてしまっている。

正しさ
評価
効率
安心

それらが悪いわけじゃない。
でもそれだけを初期条件にすると、
世界は窮屈な形で立ち上がる。

そして窮屈な世界では、
人はゼロに立てない。

ゼロとは、まだ定義されていない余白。
「本当に何が起きているのか」を一度保留できる空間。

ゼロがないと、左脳は暴走する。
すぐ結論がほしくなる。
敵を決めたくなる。
正義で固定したくなる。

そうやって「世界の説明」が完成してしまうと、
その時点で世界は固まる。

本当は別の原因があっても、見えなくなる。



戦後直後の構造で一番怖いのはここだ。

止められているのに、止めている相手が見えない。
その結果、内部で殴り合う。

もし今の社会でも、同じことが起きているなら、
必要なのは「誰が悪いか」を決めることではない。

一度、世界の立ち上がり方をゆるめることだ。

初期条件をずらす。
右脳を開く。
ゼロに立つ。
生成に任せる。

「正しい敵」を探す前に、
本当に制限されているのは何なのか。
どこが詰まっているのか。

そこを見直すだけで、
矛先の向きは変わる。



あたしが言いたいのは答えじゃない。
疑い方のほうだ。

戦後のあの文章は、過去の記録じゃなくて、
いまの社会にも刺さる鏡かもしれない。

もし息が詰まるなら、
もし努力しても前に進まないなら、
もし怒りが身近な誰かに向かいそうなら、

一回だけ立ち止まって考えてみてほしい。

「止められているのは、何だろう」
「止めているのは、誰だろう」
「その前提は、誰が置いたんだろう」

世界の起点を取り戻す。
それだけで、社会の見え方は変わる。
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