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のしがもす
【解説】
伊勢の山々が見える場所を駆け、馬を降りているので館(度会氏の館と思われます)に到着したのでしょう。出迎えたのは顕家の弟の顕信でした。
⚪︎顕信の作画について
逃げ若でまさかの一コマしか出てこなかったので、もうどうしようもなくて、ほぼほぼ顕家卿な見た目ですw顕信について続きは、パート3の人物紹介で。
⚪︎伊勢での滞在場所
顕家たちの今回の滞在場所…
そこを考えるのに必要なのは、まず逃げ若17巻…
時行が極楽と間違えた梅の花が咲き乱れる顕家卿の館の場所はどこかの特定…いや、どこなんだ…w
候補は、玉丸城(※田丸城のこと)、霧山城(多気城たげじょう)&多芸御所(北畠神社)…
あ、地理的に玉丸城っぽそうw
さて、17巻は1338年でまだまだ未来のお話なので、今回の滞在場所をどこにするか…
とりあえず、史実を見てみましょう。
延元元年(1336年)10月、伊勢に下向した親房、顕信らは、外宮の渡会家行に迎えられ、度会郡の玉丸山に砦を築く。これが玉丸城となり、天正3年(1575年)に信長の次男信雄が改修を行い田丸城となります。
多気城は、興国3年/康永元年(1342年)または興国4年/康永2年(1343年)に北畠顕能によって築かれる山城です。その割と近くにあるのが多芸御所、北畠氏は平時の居館として過ごしていたのだそう。ただ、御所と呼ぶようになるのは顕信が鎮守府将軍に叙されてからのことだとか。ふむー??
もっと詳しく見てみましょう。
前回の【第五弾の読まなくても良い解説22⚪︎親房の体調】にも同じことを書いていますが、『北畠准后傳』(多少写し間違いがある)によると、1336年の4月?5月?27日親房は病に罹っていて宇治にいて、その後6月には伊勢に赴いてはじめは多芸の山荘に滞在した、とある。多芸の山荘とは、おそらく多芸御所の前身の館ではないでしょうか?ここから目をつけるのが現在の玉城町は玉丸城のあたりなのは間違いない。度会氏のお膝元なので、度会氏の居館などもありそう。どうでもいい疑問ですが、度会家行は禰宜(ねぎ)だったそうなので、外宮に住んでいた可能性はもしかして低いんでしょうか??
話を戻します。
多芸にはもともと館があったっぽいが、ここで問題なのが、だいぶ山の中である。標高506m?!伊勢神宮までも10㎞以上離れている!!今回は、話の流れ的にも外宮の近くにいてもらわないとちょっと困る…
そして、お気づきでしょうか?そうなんです。このあきーえとかあびいの親房は、京に行く前に、先に伊勢にいたんです。しかも、親房は伊勢神宮を重視し、家行より伊勢神道を学んでいたので、もっと便利の良い場所に進出し居館を構えていた可能性…(新たに建てるわけではなく、間借りする的なイメージ)
というわけで、今回は玉丸山周辺の度会氏の居館を借りて過ごしているということにしてください。
⭐️カービィを探せ!は、1箇所(コマ含め3箇所)。
#カービィ #逃げ若
#のしがもすのらくがき #あきーえとかあびい ←前作などはこちらのタグ、もしくは、pixivからも読めます〜



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