投稿

かるぽ
地元では俺は浮ついた子供だった。少年期、それぞれの自我が芽生える頃、俺には友達と言える者はほとんどいなかった。その要因は俺自身の社会的相互交流能力の不良さに拠るところも大きいが、なかんずく価値観の違いであったろう。
当時、俺の中で自身の指向性というものは確立されていなかった。うっすらと歴史、文芸、正義というものを好んでいたに過ぎぬ。しかしそれらは未だ心の奥底に種として眠っており、表面的には蒙昧の徒の如く日々を虚飾の中に生きていた。が、萌芽ながら俺の中の指向性は虚飾の中に生きることもまた良しとはしなかった。人を馬鹿にしたり、仲間外れにしたり、揶揄ったり。そういうことは良くないことだと、俺の中の俺は知っていたらしい。
真実唾棄すべきことに、どうやら俺は内心では当時友と呼んでいた者たちのことさえ軽蔑していたらしい。甚だ失礼なことだ。もっとも軽蔑されるべきは誰かなど自明であったろうに!
もし俺がもっと早く真実というものに気づいていたのであれば、真心をもって他者と相対することの大切さを体得できていれば、その者と共有し得る価値(文芸とか楽器とかスポーツとか)をもって専心の業と定め、互いを磨いていくことができていただろうか。いいや、そうでもあるまい。畢竟俺は、嘗て軽侮してきた者共と同じく軽佻浮薄の輩なのだ。
時を経た今、よく分かる。俺は弱い。何事かに専心し自分を磨くことができぬ。苦しいことがあればすぐに逃げる。人間関係だってそうだ。相容れぬと見極めた相手に対して、容易くその者との縁を断ちきってしまうような弱さがある。ひとつ縁が切れたとて他の者がいると嘯いて。まるで蜘蛛の巣のように。その弱さが、不誠実さが、根性のなさが、今の浮ついた愚者としての俺を構築している。
それを一面を切り取って、別の角度でみれば大人びた振舞いだと言うのは欺瞞だ。何者にも専心せず、囚われず、心は凪いだ状態を保っていると宣えど、己の真実の心は欺けぬ。それは木枯らしが風に吹かれてあてどもなく彷徨っているに過ぎぬ。
まずは認めるのだ。己の惰弱な本性を。謝り続けるのだ。これまでの人々に。誓うのだ。今と、これからの人々に。真心をもって貴方がたと相対しますと。弱くとも、いつか矜持と呼べる程の芯を己の中に育むことを目指して。
コメント
話題の投稿をみつける

らびせ

ぬこ氏

総長(車
R6がまだ販売されていた頃に始動試験で-20℃だったかな?でやるための下準備の暖気運転でシャーシで一回ブチ回してから冷凍シャーシに運んでたな。

まる

りんぼ

まこ

碧依 瑠
ゾンビデダンスの踊り動画が公開されたから覚えなきゃ…

砂糖菓
#めぐみのラジオ

オリハ

shinsuの
もっとみる 
関連検索ワード

兆しィ
コレクトした
じゃむむ
古井由吉っぽさも感じるかも。
#朗読会るぴなす💠
宮沢賢治と中島敦を足して2で割ったような印象を受けました。真摯ですね。お人柄は皆さんによく伝わっていると思いますよ。