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あまねくあまね
第二章
鍋は共同作業の顔をしている
12月14日。二回目の対面。外食。鍋。
鍋、という言葉には不思議な効能がある。
まだ二回目なのに、関係が一段進んだ気になる。
鍋は「温かいものを一緒に食べる」という名目で、
距離と境界を同時に溶かす。
しかも外食なら、なお良い。
家じゃない。生活じゃない。
だから人は油断する。
——今日は安全なはず。
そう思える舞台で、人は一番試される。
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じゃんく
回答数 3>>
''押し付けるもの''とする傾向が強いように感じます
これは日本語の構造的問題だと思うんです。
これはこうだ、と断定する能力や現象に意味を持たせる能力が高いがゆえに起こる問題だと考えています。
だから、
・私はこうしていた
・相手はこうしていた
・しかしこれはこんな環境でやっていたことだった
・この環境をつくったのは○○だ
・しかしこの環境が必要になったのは○○にある
これらの情報を同時に保持するということが言語の特性上難しく
「つまり、誰が悪いの?」
という問いを生んでしまっているように感じます。
しかし、私としては責任というのは「直接的、間接的に触れたもの全てに発生するもの」だと考えています。
そして一番大きな責任、問題を抱えているのは、
問題を、間接的につくっているものを間接的につくっているものをさらに間接的につくっているものにあるかもしれません。
だからこそ
責任が誰にあるかを決めることよりも先に
どんな原因によって起きていることなのかを考えることが問題の根本的解決に繋がるのだと思います。
誰が責任かを第一優先で決めることは本質から目を背けて、簡単な結論に逃げているだけのように感じます。
つまり、問題の表面的解決、いわゆる「やってる感」しか生んでいないと思うんです。
これが私の責任に対する考え方です。
まあ、そう考えることが日本で需要があるかどうかは別としますが…🙄

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