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涼

触れない恋

----第三章「揺らぎ」- 彼の声----------------

​今日も、通話を繋いだ。
彼女が向こうで何かを飲んでいる音。
カップを置く、小さな音。
ページをめくる音。

『...疲れてない?』
ふと、彼女が聞いてくる。

「ん、大丈夫」
嘘じゃない。
彼女の声を聞いていると、
一日の疲れが、するっと抜けていく。
画面の向こうに彼女がいる。
会ったことはない。
顔も、知らない。
でも、ここには確かに"場所"があった。
通話を繋ぐたびに、
見えないドアを開ける感覚。
そこには彼女の声があって、
笑いがあって、
ときどき沈黙があって。
物理的な座標はない。
でも俺たちには、ここがある。

だから、つい口にした。

「なんか...ただいま、って言いたくなるんだよね」

自然に、出た。
この関係への、満足。

ここが俺たちの"帰る場所"だという、確信。
会わなくても、
触れなくても、
ここは完結している。
そう思っていた。

『......』
彼女が、黙った。
少し、長い沈黙。

「どうした?」
俺は、まだ何も気づいていなかった。

『...ずるいよ、そういうの』

その声が、いつもと違った。
少し、震えていた。
「え?」


『ただいまって言われたら、
おかえりって......言いたくなっちゃうじゃない』


――ああ。
その瞬間、ようやく理解した。
俺が言った「ただいま」は、
この通話空間への帰還のつもりだった。
ネットの向こうにある、二人だけの部屋。
でも彼女は、
きっと違うものを想像した。
玄関があって、
灯りがついていて、
"おかえり"を実際に言える、
そういう場所を。
俺は、会わない関係を肯定したつもりだった。
この距離で完結していると、確信していた。
でも彼女には、
会いたい気持ちを喚起してしまった。

「......ごめん、そういう意味じゃ...」
『わかってる』
彼女が、遮る。
『わかってるんだけど、ね』
また、沈黙。
『でも私、今すごく思っちゃった』
彼女の声が、さらに細くなる。
「...何を?」
『会えたらいいのにって』
その言葉が、
俺の胸に、ズシンと落ちた。

会えたらいいのに。
彼女が、初めて言った。
"会いたい"という本音を。

そして俺は、
自分の中にあった何かと、
正面から向き合わされた。

俺も、本当は――
そう思っていたんじゃないか。
「ただいま」って言葉で、
会わない関係を肯定したかった。
この空間で完結していると、信じたかった。

でも本当は、
物理的に帰れる場所が欲しかった。
彼女の「おかえり」を、
画面越しじゃなく、
生の声で聞きたかった。
気づかないふりを、してきただけだった。

「...俺も」
声が、勝手に出ていた。
「会えたら、いいなって」

長い、長い沈黙。
彼女の息づかいだけが、聞こえる。

『...怖いね』
彼女が、小さく笑った。

「うん」
俺も、小さく笑った。

「怖い」
会ったら、壊れるかもしれない。
今の関係が、終わるかもしれない。
リアルに会った瞬間、
この心地よい距離感が、
嘘になるかもしれない。

でも、

会わなかったら、
この"足りない"感じが、ずっと続く。
「おやすみ」のあと、
いつも残る、この空白。
どちらを選んでも、
何かを失う気がした。

通話は、少しぎこちないまま続いた。
俺も、彼女も、
何を話せばいいのかわからなくなっていた。

『そろそろ、切る?』
彼女が、気を遣うように聞く。
「...そうだな」
でも、切りたくなかった。
今夜は、特に。
『じゃあ...』
彼女が言いかけて、止まる。
『ねえ』

「ん?」

『...考えよう。ふたりで』

その言葉に、
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
"ふたりで"。
彼女は、俺を一人にしなかった。
この怖さを、
この迷いを、
一緒に抱えてくれると言った。
「...うん」
俺は、ようやく笑えた。
「一緒に、考えよう」

『じゃあね』

「またね」

画面が、暗くなる。
​部屋に、静けさが戻ってくる。
でもその静けさは、
もう今までと同じじゃなかった。
俺は天井を見上げた。

会いたい。
でも怖い。
この矛盾を、
どう解決すればいいんだろう。

答えは、まだ出ない。
でも、ひとつだけわかったことがある。
彼女も、同じ気持ちだということ。
そして、
ふたりで考えられるということ。

それだけで、
少し、勇気が湧いてきた。

明日も、通話を繋ぐだろう。
でも明日の通話は、
今日までとは違うものになる。

"会いたい"を、
もう隠さない通話に。
俺たちは、
ゆっくりと、
新しい場所へ向かい始めていた。

​----第四章「温度」- 彼女の声-----------------

あの日から、
通話の空気が、少し変わった。

彼が「ただいま」と言った夜。
私が「会えたらいいのに」と言った夜。

それから、
私たちは、
何も決めていない。

でも、
何かが確実に動き始めていた。

今日も、通話を繋ぐ。
「...今、大丈夫?」
彼の声が、少しだけ遠慮がちだった。

『うん、大丈夫』
私も、少しだけ緊張していた。
以前なら、
すぐに何か話し始めたのに。
今日は、
お互いに言葉を探している。

「...天気、どう?」

彼が、ぎこちなく聞く。
『曇ってる。そっちは?』

「こっちも」

『そっか』


沈黙。


でも、切りたくない。
むしろ、
この沈黙の中にいたかった。

彼が、向こうで何かを飲んでいる音。
カップを置く、小さな音。
私も、お茶に手を伸ばす。

持ち上げる。
一口飲む。
置く。

その音を、
彼も聞いているんだろうか。
『...聞こえてる?』
思わず、聞いてしまう。

「ん?何が?」

『私が、お茶飲んでる音』

「...ああ、聞こえてる」
彼が、小さく笑う。
「聞こえてるよ」
なんでもない会話。

でも、
その声が、
すごく近くに感じた。

また、沈黙。

時計の秒針の音。
外を通る車の音。
彼の、かすかな息づかい。
全部、聞こえる気がした。

『ねえ』
私が、口を開く。

「ん?」

『...何も話さなくても、いい?』

「うん」
彼は、即答した。
「いいよ。俺も、そう思ってた」

通話は、繋がったまま。
でも、
誰も何も話さない。
5分。
10分。
15分。
時間だけが、静かに過ぎていく。

不思議と、
気まずくなかった。
むしろ、
この沈黙が、
何よりも雄弁だった。

彼が、そこにいる。
私も、ここにいる。

それだけで、
ちゃんと通じ合っている。

言葉じゃない何かが、
画面を越えて、
行き来していた。

彼がページをめくる音。
私も、本を開く。

二人とも、
同じ空間にいるみたいに、
それぞれのことをしている。

でも、
一人じゃない。
これが、
"一緒にいる"ということなのかもしれない。

顔も見えない。
手も触れられない。
ウェルカムな沈黙。

でも、
確かに彼は、そばにいた。
30分が過ぎた頃、
彼が、小さく咳払いをした。
「...あのさ」

『ん?』

「なんか、変なこと言うけど」

彼の声が、少し震えている。
「今、すごく...一緒にいる感じがする」
「......」

私も、思っていた。
『うん』
『すごく、そう』
また、沈黙。
でも今度の沈黙は、
温度があった。
あたたかくて、
優しくて、
少しだけ切なくて。

「ありがとう」
彼が、ぽつりと言う。

『何が?』

「...いてくれて」

その言葉に、
胸が、ぎゅっとなった。

『こちらこそ』
私も、小さく答える。
声じゃなくて、
音と気配と、
"黙って一緒にいる時間"で
愛を伝えてくれる人。
彼は、そういう人だった。

そして私も、
同じように伝えていた。

言葉にしなくても、
触れなくても、
会わなくても。
これは、愛だった。

沈黙を愛と呼んでいい。
私たちは、そう証明していた。

でも、
その確信と同時に、
もう一つの感情が湧いてきた。

この沈黙を、
画面越しじゃなく、
同じ部屋で感じられたら。

彼の息づかいを、
もっと近くで聞けたら。

この温度を、
本当に、肌で感じられたら。

『ねえ』
私が、震える声で言う。

「ん?」

『...このまま、でいい?』
私の問いかけに、

彼は少し黙った。
「...わかんない」

正直な答えだった。

「俺も、わかんない」
「でも」
彼が、続ける。
「このままじゃ、足りない気がしてる」
「......」
「君も、そう?」

私は、嘘をつけなかった。
『...うん』
小さく、答える。
『足りない』

その言葉を口にした瞬間、
何かが、決定的に変わった。
もう、引き返せない。

「どうする?」
彼が聞く。

『...わかんない』
私も、わからなかった。

「考えよう」
彼が、優しく言う。
「一緒に」
その言葉に、
また救われた。
一人じゃない。
彼も、同じ迷いの中にいる。
『うん』
私は、頷いた。
『一緒に、考えよう』
通話は、もう少し続いた。

でも、
もう以前のような
のんびりした空気じゃなかった。

何かに向かって、
二人とも歩き始めている。
その予感だけが、
確かにそこにあった。
「おやすみ」
『おやすみ』
画面が、暗くなる。

私は、暗闇の中で、
自分の鼓動を聞いた。

怖い。
会ったら、
この関係が壊れるかもしれない。

でも、
会わなかったら、
この"足りない"が、ずっと続く。

どちらも、
正解じゃない気がした。

でも、
どちらかを選ばなければいけない。
私は、布団を被った。
彼の声が、まだ耳に残っている。
「一緒に考えよう」
その言葉だけが、
私を支えてくれた。
明日も、通話するだろう。

でも明日は、
もう少し、答えに近づいているかもしれない。

私たちは、
ゆっくりと、
でも確実に、
新しい場所へ向かっていた。


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