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げり
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びまりり
(*☻-☻*)
1月:猊鼻渓(岩手)
2月:西大山駅(鹿児島)
3月:善光寺(長野)
4月:秋田
6月:ファーム富田(北海道)
7月:雨晴海岸(富山)
8月:大曲の花火(秋田)
10月:伊根の舟屋(京都)
12月:道後温泉(愛媛)
今年もたくさんいろんなとこ行けました[照れる]
来年は日本最南端制覇するぞ!(もちろん他のところも行く予定)
#旅行









ゴトー(と🐱)
例えば、車も、ガソリンも、プロパンガスも危険です。これらが危険ではないなどと、誰も言っていません。過去には多くの事故があり、犠牲もありました。それでも人類は、それらを手放すのではなく、事故を分析し、制度を整え、設計を改め、運用を洗練させることで、安全性を積み上げてきました。今それらが比較的安全に見えるのは、危険が消えたからではありません。危険を前提にした管理と努力が、長い時間をかけて重ねられてきた結果です。完璧だから使われているのではなく、不完全であることを承知のうえで、使い続けているのです。
特定の科学技術についても、構図は同じだと私は感じています。危険性があること自体は、関わる側ほど理解している。だからこそ、設計や制度、運用の面で安全対策が講じられ、更新され続けている。「危険ではない」と言い張るというより、「危険であることを前提に、どう扱うか」が問われているのだと思います。
それでも、「危険だから」という一言で技術そのものから距離を取ろうとする姿勢に触れると、私はどうしても…落ち着かない気持ちになるのです。それは慎重さというより、危険と向き合い、理解し、制御しようとする思考を、最初から閉じてしまっているのではないかと、そう見えるからです。
「危険だから反対だ」という言葉は、分かりやすく、安心感があるのかもしれません。ただ、私にはその言葉が、自然科学に対する人類の科学技術的敗北宣言、あるいは投降勧告のように聞こえてしまいます。未知や不確実性を前にして、理解し、手を伸ばすことをやめる。その態度は、どこか宗教的ですらあります。
危険を直視し、扱い方を考え、失敗を引き受けながら前に進む。少なくとも私が信じてきた人類の営みは、そういうものだったはずです。だからこそ、「危険だから」という言葉が思考の終点として使われる場面に出会うと、私はどうしてもその考えが受け入れがたく感じてしまうのです。
ちんねん





水曜日
私が昔傍聴したのは違法AVを高齢者に販売して捕まったおじさん2人の刑事裁判で、被告人供述で余計なことばかり言うので弁護士に「あなたもう黙っててください」と3回止められてました。
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