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まくすうぇる
思考に重きを置いていると、現実的な今この場という感覚が剥がれていくようだ
現実的な良さ(快適さ)は求めることができるのに、それを作るための
現実的な苦しさ(不快さ)への改善努力の能力が低く、また改善感覚が鈍い
感覚的に遠いものだから、したくないというより見えにくいや触れられないに近い
掃除された空間は心地よく感じるけれど、掃除は苦手だし
汚れた部屋を掃除しても心地よくなったぞって感覚が薄く、汚れている事実も気にならない
みたいな感じ
さて話は変わりますが
こういう現実感覚と優しさという言葉の関係性を考えてみた
優しいの気持ちをもっていることとその優しさを受ける相手が優しさを感じることの間には言葉と行動があり
その言動は現実感覚に影響を受ける、と思う
イメージでいうと
傍からみても優しいひとは、常に大きめの現実感覚の土台が先にあって、ふんわり優しさパウダーを振っている感じ
気持ちはあるのに優しくしてよと言われてしまうひとは「優しくしよう」が先にあってその瞬間だけの現実感覚が申し訳程度あるか、もしくはない
のではないかな
本質を取り違えている的な問題なんだけど、
この優しさに関しては
優しくしたい優しくしてほしいと思うどちら側の人間も
優しさというふわふわした言葉に包まれた本質が実際何なのかよく分からないまま
形式的伝統的に言われている「優しさの気持ち」にウエイトを寄せすぎているから取り違えやすいような気もする
優しくされたい、だから現実的にコレをやってください。と指示されると助かるし
それを続けていると現実感覚が育っていって、あたかも優しく出来るようになったように見えるケースもありそう
でもそれだと
優しくされる側の負担が大きいから、やっぱり自分で現実から離れすぎないようにする努力ができたらいいなとおもう
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