共感で繋がるSNS
GRAVITY(グラビティ) SNS

投稿

予定は未定の密偵

予定は未定の密偵

GRAVITY
GRAVITY3
関連する投稿をみつける
🚐神楽 遊磨

🚐神楽 遊磨

政治家になったらやりたい事政治家になったらやりたい事

回答数 59>>

・国会議員の定年制度、55歳で定年
・マニフェストを守らなかったら国会議員退職制度、それと国民に嘘を付いたので詐欺罪
・賄賂、使途不明金、帳簿記載ミスなどは刑事罰
・領収書の無いお金を経費として使った場合は横領罪で逮捕
・税金を使っての赤字経営などした議員は自腹弁済
・内閣議員になるには全員、国民投票制度!
GRAVITY
GRAVITY2
鮟鱇

鮟鱇

🟥まあその辺の議論は切りが無いと思うけど『共産主義の最大の害悪は、インチキな労働価値説に基づく搾取論によって暴力を正当化した点にある』と言うのが私の主要な論点です。一応リンクを貼っておくので、もしよろしければ参照してください。
threads.net/@yamiyo_no_ankou/post/C7fz2tpPRxS
249🌙1766977911
GRAVITY
GRAVITY
臼井優

臼井優

「前九年の役」と「後三年の役」は、11世紀後半に東北地方(奥羽)で起きた源氏と安倍氏・清原氏の争いを指し、「前九年合戦」と「後三年合戦」とも呼ばれますが、前九年の役は安倍氏との戦い(約12年)、後三年の役は清原氏の内紛に源義家が介入した戦い(約3年)で、前九年役の約20年後に発生し、勝利した藤原清衡が奥州藤原氏の基礎を築いた歴史的な出来事です。
前九年の役(ぜんくねんのえき)
時期: 1051年(永承6年)~1062年(康平5年)頃(約12年間)。
概要: 陸奥国司(朝廷の役人)と、東北の豪族である安倍氏(安倍頼時・貞任親子)が対立し、源頼義(源義家の父)が清原氏と結んで安倍氏を滅ぼした戦い。
結果: 安倍氏滅亡後、清原氏が奥羽の実権を握り、源氏の武名が高まりました。
後三年の役(ごさんねんのえき)
時期: 1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)頃(約3年間)。
概要: 前九年の役で活躍した清原氏の内紛(清原真衡、清衡、家衡の兄弟争い)に、源義家が清衡側について介入し、最終的に清原氏を滅ぼした戦い。
結果: 清原氏が滅び、清衡が旧安倍氏の領土と清原氏の領土を合わせて平泉に拠点を移し、後の奥州藤原氏の繁栄の基礎を築きました。
呼び名の由来
前九年・後三年: 元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれていましたが、前九年役(約9年)と後三年役(約3年)を合わせて12年と誤認され、「前九年」「後三年」と呼ばれるようになった、または源義家が本格的に参戦した期間から名付けられた、などの説があります。
「役」と「合戦」: 「役」は朝廷側と反抗する側(前九年役)、「合戦」は対等な立場同士の争い(後三年役)というニュアンスがありますが、現在では「合戦」の呼び方が一般的になりつつあります。
GRAVITY
GRAVITY
臼井優

臼井優

北面の武士とは、平安時代後期に白河上皇が創設した、上皇の身辺警護を主な任務とする院の直属武士団です。院御所の「北面」という詰所に詰め、警備や外出時の供奉を行い、寺社の強訴鎮圧にも動員され、院政の軍事基盤となりましたが、承久の乱以降はその軍事性を失い、院司として存続しました。
特徴と役割
創設と目的:11世紀末、白河上皇が院の警備を強化し、寺社勢力に対抗するため設置。
構成:下級の廷臣や衛府の官人、地方の小武士団の首長などが含まれ、上北面(高位者)と下北面(五位・六位の侍)に分かれました。
主な任務:上皇の身辺警護、御所(院)の警備、外出(御幸)への供奉、僧兵の鎮圧など。
院政の軍事力:院直属の軍事力として、院政を支える重要な存在でした(例:伊勢平氏の平正盛)。
西面の武士との関係:後鳥羽上皇はさらに西面の武士を新設し軍事力強化を図りましたが、承久の乱後に西面は廃絶。
名前の由来
院御所の北側の部屋(北面)に詰め、詰所があったことに由来します。
後世への影響
承久の乱以降は軍事的な役割は低下しましたが、鎌倉時代末期まで院司として存続し、江戸時代末期まで続きました。
GRAVITY
GRAVITY
ホッパーMK2

ホッパーMK2

反ワクチン集会に参加した記者が「どこにも居場所がない人達の集会」と書いていたのは印象に残ったな。
GRAVITY
GRAVITY2
もっとみる
話題の投稿をみつける
関連検索ワード

関西圏の鳥インフルエンザ情報なら僕に聞いてください!