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またんぎ
「どれほどの遠さか」
私たちが「時間とは何か」を明確に理解していないうちは、まだ問題はありません。しかし、いったん「時間は人間に特有の感覚に過ぎない」と認めてしまうと、自ずと次のような問いが浮上します。
この運動する物体は、私たちのこうした感覚と結びつくことができるのだろうか?
さらに一歩踏み込んで問いましょう。私たちがその場にいない場合、その物体の運動を記述することはできないのでしょうか?あるいは、そこには確定した運動形式というものが存在するのでしょうか?
ある物体が私たち観測者から見て静止しているとき、その物体と私たちを一体のものとしてみなすことは十分に可能です。たとえ私たち人間が血の通った肉体を持ち、発達した頭脳や化学的性質を備えており、その物体とは千差万別であったとしても、一つの物体がもう一つの物体に対して相対的であると記述することについては、全く問題ありません。
人類がこれまでずっと行ってきた方法はこうです。空間における物体の位置の変化を記述する際、観測者がその場にいれば、観測者は「ある時間内にその物体がこれだけ進んだ」と言います。
観測者がその場にいない場合、観測者は常に一つの**参照物(リファレンス)**を探し出し、密かに自分自身をそれと同一視します。つまり、その参照物と観測者が一体であると考えるのです。
実際、誰もがこのように行動しています。私たちが物体の運動を記述するときは、常に私たち観測者の位置に対してどのように運動が変化したか、あるいは、私たち観測者が「静止している」と見なす物体(観測者がその静止物と自身の身体を一体化し、一つの物体と見なしたもの)に対してどのように運動が変化したかを指摘するのです。
4. 時間の公共的尺度の問題
時間は、張三(ちょうさん)が周囲の空間の変化に対して抱く感覚かもしれませんし、李四(りし)が抱く感覚かもしれません。地球上にこれほど多くの人間がいる中で、どうして共通の時間を測定する尺度が持てるのでしょうか?
あらゆる運動の観測者や感知者は、自身の周囲の空間の変化に対する感覚を、当然のことながら頭脳の中に記録します。
内容のポイント
この文章は、**「時間は客観的な実体ではなく、観測者の主観的な感覚である」**という前提に立ち、以下の論点を提示しています。
* 相対性: 運動は常に「観測者」または「観測者が自分と同一視した静止物」との相対的な関係で記述される。
* 客観性の不在: 私たちがいない場所での「運動」をどう定義するのかという問題。
* 共通尺度の疑問: 個々人の感覚が「時間」であるならば、なぜ社会全体で共通の「時計(尺度)」が成立するのかという問い。
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みお꒰ঌ§໒꒱
理解してくれる人達を
大切にしていきます...おやすみなさい✩.*˚


むぅ
#ぽっちゃり

ランタン!!❄❄🍄
もる
今の職種が嫌なわけじゃなくて職場の人間が嫌だ
この機会に別のところに引っ越しもしたいし他の職種で働いてみたいのもあるし
漠然とした希望だけがあって何も決まってないけど…

いええええええい


もちもち🐰𓈒 𓂂𓏸
たくさん変わってたんだけど
前からあった場所はそのままだったの
なんか知らないけど泣けてきた🥹

takuya talk
回答数 37>>
腹ペコ赫蟲
全体的に睡眠時間が足りてない(:3_ヽ)_
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くうこ
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イカは一人でいかれへんから~w

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