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suna
#千葉#中高生#友達募集
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はると


サネ
みんなこういうのが好きでしょ?^ ̳ට ̫ ට ̳^
#5周年宣伝隊 #女装男子 #女子高生 #男の娘 #コスプレ




すずぅーき
🥺👈これキモイですか

りり

なお
新しい出会いには前向きです。
落ち着いた年上の方と、
友達としてお話できたら嬉しいです。
❤️は外していますが、入れたければ🙂や☕️にも変えられます。
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ちろ概

雨降り
スコの位置は基本的に同期してるのに見えてる名前が違ってもいいのか……?
名前つけられるの図鑑内だけのほうがいいか……?

かまぼ
フルヤとひろみつくんのバッテリーも良いなぁ マウンドに駆け寄るひろみつくん
ナイスファイトだよ!ゼロ!!!とか言うて160キロストレートで三振取るんや たまらんで

なすび
今使ってるのjuliaなのにPythonを先に習ったせいで似てるけどちょっと違うのをpythonの方の関数で書いちゃってすごい心残り、、
まあ!数日後イベントあるので!!何でもいいけど!!

ロロ|@

ゆきみ
①25-26ファンクラブの募集は6月中に始まる?
②会員グレードによって金額が違う
③グリーンアリーナかエフピコが計6試合
④でも25-26シーズンは別会場の時は優先販売をするとは言わないよ
⑤26-27シーズンはシーチケ対象者に優先販売するよ

える🍏
凄く難しいことだし、色々と言われることもあるだろうけど誰かの気持ちを動かせるようなものを創り上げたい。それだけでいい

さと🔥
ゆきぬ
母はそんな父を支え、静かに家庭を支え抜いた。
私は、その姿を間近で見ながら育った。
家庭は決して裕福ではなかったが、そこには誠実さと労苦が確かにあった。
しかし、そのような生活を「努力」や「美談」として消費する視点が、どれほど欺瞞に満ちたものであるか、私は社会に出て痛感することになる。
◆ “努力すれば報われる”という幻想
この国には、「努力すれば必ず報われる」という一種の信仰がある。
だがそれは、構造的に優位に立つ者にとってのみ有効なロジックだ。
障害を抱える者、性差別に晒される女性、家庭環境に恵まれない子どもたち──
こうした人々にとって、“努力”はしばしば、踏み台にすらならない。
報われるかどうかではない。
そもそもスタートラインに立たせてもらえるかどうか、その保証すらないのが現実だ。
◆ 社会構造の設計は「偶然」ではない
現在の日本社会における課税構造、政治的意思決定、ジェンダー規範、社会的包摂──
これらはどれも、「結果的にそうなった」わけではない。意図され、保守され、制度として再生産されてきたものである。
たとえば税制。
「財源確保」の名の下に国民の生活負担を強化する一方で、大企業への優遇措置や政治家の利権は温存される。
これは単なる経済政策ではない。
誰が負担を引き受け、誰が保護されるべき存在として扱われているかという、社会の“価値選別”そのものを意味している。
◆ 弱者とは「見えない存在」ではなく、「見えないふりをされている存在」である
障害者や女性といった、いわゆる“社会的弱者”は、見えにくい存在なのではない。
制度と文化のレンズを通すことで、意図的に可視性を剥奪されているのである。
メディアも教育も、表層的な“多様性”を掲げながら、その実、構造的な不平等や不正義について語ることを避けてきた。
結果として、国民の多くが「無知であること」を維持させられている。
知らされないことは、考えるきっかけを奪われることに等しい。
◆ 戦後日本の支配構造──GHQとグローバリズムの影
さらに深層に目を向ければ、日本という国家は戦後80年にわたり、政治的にも精神的にも外部に“管理”され続けてきたという側面がある。
GHQによって設計された統治フレームワーク、教育改革、報道統制。
それらは、戦後復興の名のもとに植えつけられた「従順な国民性」を形成し今日に至るまで影響を及ぼしている。
そして今、それはグローバル資本の手によって新たな形へと変容している。
支配者が「国内の官僚」から「国境を超えた資本と情報権力」へと移行していることに、多くの人は気づいていない。
◆ 若者と有権者へ──“考える力”こそが最大の抵抗になる
私はこの国の矛盾に怒りを覚えるが、同時に、諦めてもいない。
なぜなら、私たちにはまだ「思考する自由」が残されているからだ。
言葉を失った者に自由はない。
思考を停止した国民に、未来はない。
だが逆に言えば、思考を取り戻し、構造を疑うことさえできれば、変革の余地はある。
若者たちよ。
有権者たちよ。
「仕方ない」「どこも同じだ」などという思考停止から、自分を救ってほしい。
社会を変えるとは、
まず「“見えない力”に名前を与えること」から始まる。
そうしなければ、この国は本当に、“静かに終わっていく”だろう。
国家は、国民のために存在すべきである。
だが現実には、国家が国民を“管理対象”としか見ていない瞬間が確実に存在している。
そのことに気づいた今、私たちはもう、見て見ぬふりをしてはならない。
これは怒りでも、哀しみでもなく
理性と倫理の問題である。

にぼし
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