大衆に対しては理性よりも感性に強く影響するメッセージがより影響力を持つからだと思います。淡々と理路整然に話されるのは納得はできるけど話者と聴衆の心理的な距離感がある。対して、情熱的で感情的なメッセージは単純で伝わりやすく、共感しやすいのかもしれません。そうすると話者と聴衆の心理的な距離感は縮まり、一体感が生まれたり、共同体的な意識が生まれる。アドルフ・ヒトラーの演説はそれらがかなり意識されていると思います。かなり質問からはそれましたが、人は重要な情報を切り分ける際に一部、話者との心理的な距離感を意識してるのではないかと考えます。
共感しちゃうからね〜。目や耳や感触で感じた感情は脳が勝手に自分の感情だと勘違いしたり、その感情が自分に向けられていると感じるからかなぁ。怒号や映画の泣いてるシーンや戦争で残された人々の表情やお笑いやバラエティ番組とか。
自分に制限時間があるからじゃないかな。だから、強い感情は焦りを煽るというか。誰かがめちゃくちゃギャン泣きしてたら「え?💦大丈夫かな?💦」ってなるけど、それは「うわぁ、電車来ちゃうしな💦」とか「待ち合わせの時間まで何分あるかな💦」とか背景があって、その背景はざっくり言えば制限時間だと思う。制限時間を延長して考えれば寿命とかね。だから、感情的に好き❗️ってなったら、焦るし、自分の寿命と逆算を勝手にする、あと何年居られる!みたいなね。自分の予定よりも優先したくなる。「自分の予定に割り込もうとする」それが重要視してしまう原因というか。計画にない事だから何とかしようとしてしまう。
重要視してる訳ではなく影響され易いだけで、免疫がないから「重要視」してる様に錯覚する。まず基本として人間は「感情」を持って居て、「情報」は「文章」で表されて居る。「強い感情が含まれた情報」と言う時点で「扇動的」な何かなんだ。読んでいると「理解」と「認識」が始まる。そこから「反動」「受容」「追及」「放棄」の大まかに四種類の反応をする。この過程を経て「重要視」してしまう人は煽動され易く暇がある人間なんだと理解出来る。法律や社会形態で反応や認識は個々の性格に殆ど依るのだが扇動しようとする文や絵は「重要度」を高めて短略的に要点を(曲解したりもするが)表して居るので「強い感情+重要性」を乗せる扇動術が高度なのだと思う。何のせ、我々は第二次世界大戦と冷戦後の世界に生きて居る。人心掌握する為の色んな正当性を訴える方法が当たり前になって居る。我々は情報を得る場合、(その時点で都合の良いデータや確実性と言う隠れた権威を求め)取り分け一般人はマスメディアを使う。この時点で情報を信頼して選択して居る。一人一人が研究者では無いので「扇動」されやすいのが現実的な答えなのでは無いか。