皆様いつもありがとぅです…人ゎつい自分の価値観で「善いか悪いか」を選択してしまぃがちですがソレゎは幸せな人生を歩んでいく為に「効果的でゎない」方法なのかと、「効果的か否か」の判断基準を用いるとよぃのでゎなぃのかと。誰と接していても人の言動について「善いか悪いか」という選択になった時には「効果的である」「効果的でない」という言葉を使うようにするとよぃよぅですょ…
善悪の定義は、永遠のテーマです時代により、国により、地方により、性別により、自分の置かれた状況や、資産の状況とかにより善悪の定義はバラバラですが何が善で、何が悪なのか自問自答をする誰かと議論をする事が大切かと僕は思います
善悪の基準は明確で大切にされないといけませんよね。曖昧だったり軽んじられたりすると、感情で判断されることになります。そうなると重要人物の顔色を伺うことになり、お気に入りやヨイショ上手が許されたり、同じことをしても罰せられる時と罰せられない時があったりと、とても生きにくいです。質問が人の善悪の重要性を尋ねているので、こちらはちょっと訂正というか解説が必要と思いますす。善人でも悪事は行うし、悪人でも善きことを行います。善人とは善きことをよくしてる人、悪人は悪しきことをよくしてる人であって、人に善悪があるのではありません。善人悪人とわけたら、考えることが少なくてすむからそのようにしているだけで、善悪は行動ごとに判断されるものです。そうでないと、いったん悪人のレッテルを貼られたらどんなに善きことをしても評価されない認められないってことになり、そんな世の中は嫌だ…。少なくとも自分は、善人か悪人かというラベリングに頼りすぎないようにしたいと思います。
この質問はさすがにざっくり過ぎる。ただし、善悪を判断する必要のある場面は多くあると思っている。そして、それはケースバイケースだと思う。例えば、政府への反逆行為が必ずしも悪であるとは限らない。仮に、その行動の背景に 独裁政治がもたらした死にゆく多くの人達を救う という目的があったならば、僕はその行為を否定できないだろう。うん。改めて、この質問はさすがにざっくり過ぎる。
嫌なことって人のよって違うので、善悪を固定して善だと思い込んで相手が嫌なことしても本末転倒だし、悪だと思い込んで相手が欲しているものを阻害したりするのも不毛なので、臨機応変さが大切ではある。良かれと思ってされることが不快なことがよくあるし、自分として存在しているだけで相手が苦しくなることもある。自分にとって大切なのは合わない人間と関わらない自由。
人って元々性善説性悪説どっちなのかな、ってよく考えたりする。とんでもなく良い人もいれば、とんでもなくヤクザみたいに悪い人間もゴロゴロいる。私は日々スーパーで働いてるけど、万引きカゴ抜けしていく犯罪者とスタッフにカスハラしていく輩とばかり対峙していると心が荒む。こちらの想像を超えた性悪な人間は生まれた時からそうなんだと思う。育てかたじゃないと思う。善悪は私の中では重要。
嫌なことって人のよって違うので、善悪を固定して善だと思い込んで相手が嫌なことしても本末転倒だし、悪だと思い込んで相手が欲しているものを阻害したりするのも不毛なので、臨機応変さが大切ではある。良かれと思ってされることが不快なことがよくあるし、自分として存在しているだけで相手が苦しくなることもある。自分にとって大切なのは合わない人間と関わらない自由。
自分がする行動としては、相手にされて嫌なことをしない、または自分がされて嫌だったことを人にしない、これを意識していれば大丈夫かな、と思う。関わる相手としては、嫌なことをしてこない、法に触れない人であれば、色々な人と関わった方が面白い人生になるかな、と思う。善悪を見極めるのではなくて、これがわかれば十分だと思う。