差別はしないが個性は認めるというのは非常に相反する作用な気はする。みんな違ってみんないいというのは、嫌悪や危機感や選り好みなどの否定でもあるので、それはやり方によっては、思考放棄したり、自分に嘘を吐いたり、無理をしたりしているのと同じでもある。その反動で独善の免罪符で批判してもいい悪者を仕立て上げることもある。その際に自分の感覚を疑うのは大事だ。何故拒否するのか、何故嫌悪するのか、その感覚の源泉はどこか?他者の背景や原体験を丁寧に追うのと同時に、自己を掘り下げて知るという対話も大切である。この両立がバランス良くできれば、互いに加害を少なくして生きていくことはできると思うが、そこには多大なる我慢と努力が必要であると想像する。