体は何のためにある?
私はよく、身体的疲労、体調不良、寝不足などによって心が落ち込んだり、精神的に不安定になったりします。また、ルッキズム社会に嫌気が差しています。それでも見た目を良くしたくて努力する自分がいて、そのことに苦しさを感じることもよくあります。その中で「体なんてなければもっと幸せだったんじゃないか」と考えてしまうことがあります。希死念慮も、「心と体を切り離したい」という気持ちから生まれます。
今私にとって体は、苦しみや制約の原因としか捉えることができません。たしかに、お風呂に入ったら気持ちが良いし、ハグをしたら安心するし、笑顔は素晴らしいものです。だけどそういった「体があるとこんな良いことがある」という話ではなく、そもそも私たちが体を持つ存在として生まれていることに、どのような意味があるのかを一緒に考えてほしいです。それが分かれば、もう少し楽に生きられるような気がするんです。
私たちはなぜ、「心」だけではなく「体」を持つ存在なのでしょうか。

あぽりあ
ただ、肉体の存在理由を考えたとき、神的な視点から「逃れられない有限性を与えるため」という見方はできるのかなと思いました笑
肉体は物質である以上、時間や空間の制約を受けます。疲れもするし、老いもするし、やがて死にも至ります。
一見すると不自由で理不尽な仕組みに見えますが、もしそうした制約がなかったら、人は何かを選ぶ必要も、今この瞬間を大切にする必要もなくなるのかもしれません。
私たちが誰かを知ろうとしたり、何かを成し遂げようとしたり、人生に意味を見出そうとするのは、限られた時間しか与えられていないからとも言えます。
なので私は、肉体とは快適に生きるための器というより、人生に輪郭や意味を与えるための制約なのかなと思うようにしてます^_^

山田
心だけがあっても、それは「私」として成り立ちません。
疲れる、眠い、寒い、恥ずかしい、誰かの視線が痛い、全部しんどいです。ですが、それらは存在の境界でもあります。
体があるからこそ、心はただの思考ではなく、この世界に触れている「私」になるのだと思います。
美術館に行くと分かりやすいです。
多くの人は、絵を一瞬だけ見て通り過ぎます。名画であっても、そんなものです。細部まで本気で見る人は少ないです。
しかし、だからといってその絵に価値がないわけではありません。
絵は、画家の心がこの世界に出てきた身体のようなものです。
誰かに深く見られなくても、雑に見られても、評価されてもされなくても、そこに形として存在していること自体に意味があります。
人間の体も、それに近いのではないでしょうか。
他人から見られる為だけのものではなく、心がこの世界に出てくる為の形です。
体は、見た目を評価される為にあるのでは無く、心が世界と接触するために在ります。
その接触が痛い日も、重い日も、消えてしまいたくなる日も有ります。
ですが、体をなくせば、苦しみだけが消えるのではなく、世界と繋がる為の入口ごと消えてしまいます。
今ある苦しみは、もしかしたら、体にかかっている負荷が大きすぎるからかもしれません。
ですので、必要なのは、体を否定することではなく、体を評価の対象から少しずつ取り戻すことかもしれませんね。

ぐるぐる
そのなかであえてこんな苦痛と困難の多い低次元の物理空間のなかで不自由な身体を持つに至ったのは、魂を磨き、鍛えるためではないでしょうか。
苦しいからこそもっと長く生きること。
立派なことなど何一つしなくて良いので与えられた課題としてのこの生に精一杯向き合うことがミッションなのだと思います

憂い顔の騎士

よん
まず体の不調について、これは自己統制または習慣改善によってかなりマシになります。意思ではなく仕組み化が重要と考えていて、例えば◯時になったら眠剤を飲めば強制的に眠りにつけます。もちろん眠剤を飲んでも眠れない時もありますが、それでも「◯時になったら眠剤を飲む」ことを死守すれば、幾分かは仕組み化され生活習慣ができます。本当に小さなことで良くて、どれだけ死にたくてもベッドメイクはする。など、日々のルーティンがあれば「これだけはやれてる」と言う自信がつきます。小さな自信が無意識に浸透します。「風呂に入らなくてもメイクは落とす」でも良いと思います。疲労についても「これをやると疲労する」ことを明確に挙げ、それは避けるようにすると楽になります。私は在宅ワークを選んでいます。
ルッキズムについて。昔はSuicaなどのICカードがなく切符の時代がありました。発達障害の私はしょっちゅう切符を無くしていました。駅員さんに「無くしちゃいました」と言うと、「いいですよー」と通してもらっていました。ある日、すっぴんでメガネの日に同じ駅員さんに同じことを伝えると「だめです。買ってください」と言われました。見た目でこうも違うとは…ショックでした。でも、「美しい方が利便性が良い」と言うことに気づきました。「楽に生きる為」「得をする為」に毎日メイクをすることにしました。そして社会人になるとメイクはマナーになりました。
お水の世界にいたことがあります。周りは半分芸能人やモデルの子もいました。美しさでは到底敵いません。当時はルッキズムの時代ではありませんでしたが、そう言う世界に身を置いていました。自分がどの程度可愛いかそうでないかより「こうした方がこの世界では生きやすい」「売り上げにつながる」その為に美容に取り組みました。「美しい女」としての自分に価値を感じていただき、それを提供する。それに対して店側に支払いがあり給与を受けるという構造です。これで成立していたと思います。
つづく…

〆さば
身も蓋もない事ですが、肉体は遺伝子の乗り物である側面もある。乗ってる遺伝子の情報が一部反映される乗り物ってところが厄介ですよねえ。
なのでルッキズム自体を完全否定も出来ないんだけど、個体同士には相性があって個体の絶対値が高い順にカップリングしていくものでもないだろうから、そういうのを雑に「ご縁」と呼んだりしています。

コーユー
私は、「何のために体があるか(目的)」よりも、「なぜ体があるのか(起因)」という視点で考えました。
結論から言うと、私たちは心だけで存在しているのではなく、五感を通して世界や自分自身を認識しています。生まれたばかりの赤ちゃんは、自分と世界をまだ区別していません。成長の中で身体を認識し、「私」と「世界」が分かれていきます。
そう考えると、体とは単なる入れ物ではなく、心が世界とつながるための境界のようなものなのかもしれません。
また、体が苦しみの原因になること自体は事実だと思います。だから「苦しむのは考え方の問題だ」と単純には言えません。
ただ一方で、その苦しみの大きさを決めているのは、体そのものだけではなく、体にどんな意味や価値を与えているかという心の側面もあるように感じます。
同じ言葉や同じ体型でも、深く傷つく人もいれば気にしない人もいます。現実を変えることが難しいときでも、その現実との向き合い方は少しずつ変えられるかもしれません。
体は確かに私たちを苦しめることがあります。でも同時に、世界や誰かとつながるための窓でもある。私はそんなふうに考えています。

ゆめじはるか

仁
もし魂があるとしたらそれは体から発生する。
個性も感情も体の機能の延長にあり、否定すべきではない唯一無二の自分自身、自死まで含めて世界の全てを感じるためにあると思います。

ふきふき
考えました。
結論 「質問者の都合」のため
もともとは、情報(原子や感情みたいなもの)がものすごく均一(無に近い感じ)にあって、ほんの小さな揺らぎから、偏りが発生していくことで、いろいろな情報(原子や感情みたいなもの)の種類が生まれ増える。それが延々と、水面の波紋の様に繰り返していってる状況だと思う。
心や体もその情報(原子や感情みたいなもの)処理の中で、わかりやすく処理する目的として「心」と「体」に処理した結果と言える。言い換えれば、そうゆう事にしておこうという「ご都合」から生まれた。
だから、個々の体にはさまざまなな情報処理が可能となる。感情と同じものを入れたり、原子のような科学を入れたりできる。各々の都合のために体が存在しており、体の目的はどんな設定も可能。
例えば、受け入れられやすいのは、他者との繋がりを感じるためとか、感情を形作る目的などがあると思う。今回は質問者の感情を合理的に説明するためにあった様に思う。
すごくチープだけど、愛を感じたり他者と繋がりやすくするために体があると思ってます。笑
もっとみる 




