私たちは言葉を読んでいるのか、それとも解釈を読んでいるのか
言葉の単純さは、必ずしも思考の浅さを意味しない。
深く分解された末の圧縮なのか、未展開の省略なのかは、外形だけでは判別できない。ただし、攻撃性や整合性、防衛の混入といった要素には傾向として差がにじむことがある。さらに重要なのは、受け手は言葉そのものよりも「そこにどんな意図や思考があるか」を推測し、意味を補完しているという点である。
このように考えると、私たちが反応しているのは言葉そのものというより、自分の内部で生成された意味かもしれない。
そこで少し聞いてみたいのですが、皆さんは自分の思考がどのような前提の上で動いているかを意識したことはありますか。自分の中で意味がどのように形成され、採用されているのかを観察したことはありますか。
私たちは言葉を読んでいるのか、それとも自分の解釈を読んでいるのでしょうか。

GALVON
その厚みを判断しますので、
解釈を読んでいると思います
体験のない自分がミスリードするのは、
その為だと思います

うに
自分の思考がどのような前提の上で動いているか?←私の思考って結構懐疑的なところがありまして「人は幸せでいた方がいい」「優しくあったほうがいい」みたいな話に対して「なんで?」って問いかけがちだったりするのですが、考えていくと自分の敵になる事故・病気・孤独etcみたいなノイズ的存在を退ける為に王やシャーマン、長老的な立場の人たちが神話という絶対的真理を使って生み出したいわゆる“秩序”と呼ばれる概念から長い年月と培われてきた文化の差によって「厳密っぽい雰囲気」を取っ払った「聞こえのいい言葉」を基礎だとするべきだとされているだけにも感じるんですよね。ただ、この「ノイズを取っ払う」行動って邪魔だからというより結局理由はわからないのに避けようとする生命に本来ほぼ必ず備わっている「逃避本能」がある気がして、そう考えると私が行いがちな懐疑的な思考も結局は自分の経験則的にノイズだと扱いたい幸せや優しさという概念を神経レベルで恐れている部分があって、それでもそれらを敵と回すことは一般と称される人類の基礎的概念から外れてしまうという別レイヤーのノイズが発生する恐れがあり、結局それらのノイズを掻い潜るように作り上げられた私自身の“秩序”を基礎としているに過ぎない気もします。なので、懐疑的に疑うこともまた信仰ですし、一般という言葉は信仰という像をわかりにくく隠した信仰で、「自分の思考がどのような前提で動くか」という質問に対してはおそらく皆様それぞれが確実に見たくないノイズを置く事で「思考」を輪郭付けているだけなのでは?なんて思ったりしますね。言葉って不思議なもので、ただの鳴き声に意味を持たした瞬間必ず「内と外」「闇と光」「上と下」「ノイズと輪郭」と二極化され、人は必ず自分を優位な方に置いている気がします

VERITAS

憂い顔の騎士
思考し、行動している

夏休みの最終日

Noriko
どちらか片方ではないと思います

Ryuichi

K
読んでいて面白いなと思ったのは、皆さんが見ている場所がそれぞれ違うことです。
最終的な人生基準から考える方、二項対立そのものを疑う方、言葉の幅を指摘する方、自分の価値観を読むという視点。
同じ問いでも、焦点がこんなに分かれるのが興味深いです。
もしかすると私たちは言葉を読んでいるというより、自分の回路を通して再構成しているのかもしれませんね。

あらた
私個人の感想ですが、一概にどちらかを判断するには状況による、という曖昧な回答になってしまいそうです。
自身の行動を鑑みまして、例えばX等で言葉の羅列を読んでいる時はそこまで思考せず、言葉を流し見している様に感じます。
逆に好きな小説家さんの文章をら読んでいる時は、どの様な意味を込めてこの言葉を選んだのだろう、こなことばにある背景はなんなのだろうか、と解釈を読み解こうとします。
結局その解釈の合否は著者本人にしかわからないのですが、それはこの質問の回答の意図から外れると思いますので、最初の話に戻りますとこの場合は解釈を読んでいる、と言えるのではないかと考えました。
的外れな回答やもしれません。
ただ、この質問に対しても自分は解釈を読もうと、無い頭を回しては読んだつもりです笑
面白い質問をありがとう御座いました[笑う]

サト
言葉を読んで解釈を組んでるのだと思った
もっとみる 






