「信仰」についてどう考えていますか?
私は信仰を「思考停止」と一括りにはしたくないのですが、人がそれを持つ理由や意味を、ちゃんと知りたいと思っています。ただ、「信じる」ことと同時に「問い続ける」ことも大切なんじゃないか、とも考えています。それは本当にそうなのかな?と思い質問しました。

てす人
多くの信仰は生や死に理由を求めるから生じるものと思います。人生にさして意味がないことに気がつくと、無意味の中ではどんな喜びもその後の虚しさに打ち消されてしまいます。
人生に仮初でも答えを求め、それが正しいと信じることが信仰なのかなと。結局ある種の思考停止ではあると思いますが、間違いではないと思います。

ニドラン押忍
ここでは善悪の区別と信仰は類似したものと考えますが
行動には判断基準が必要です。
それ判断基準となりうるものの一種が信仰
ではないかなと思います

〆さば
信仰って宗教と結ばれがちだけど他のものでも成り立ちますよね。問い続けることを信仰だとしても違和感はない。なので「価値判断のよるべ」としての信仰であればそこらじゅうにある。宗教と結ぶならある意味思考停止(思考を一部愚問化することで苦痛や疑問をピークカットする)とみてもいいんじゃないかな。そんなふうに見えますね。

伯爵
「宗教」は、そもそもは「哲学」です。
人が何のために生まれ、どうして生き、何をなすべきか?の疑問に対する思想です。
今では原始的に聞こえるかもしれませんが、古代ギリシャでは
「脳内に響く言葉は、神の声だ」という認識もありました。
もちろんこれは、自身の「思考」なのですが、これを「自分の思考だ」と認知できているのは、多くの先人の思考の上に、現在の我々が甘んじていられることが正体です。
宗教には「道徳」という大きな役割があります。
誰も見ていないと思っても、誰かが必ず行いを見ている。
という認識は、大きな道徳観を育みました。
江戸時代のヤクザ者を「忘八」などと言いますが、「人の8つの徳を忘れた者」という意味です。
「横ばいに歩くあの蟹でさえ、よしとあしとは分けて出る」の言葉のように、ヤクザ者といえど「禁忌を犯している(道徳を知った上で、反していることを承知している)」という裏返しでもあります。
宗教の影響はすっかり薄れた世の中ですが、それでも現代人の道徳観に強く根ざしているものでもあります。
「巡り巡って自分に返ってくる」というのも、一種の信仰である(そして大切な道徳観である)と私には思えます。
であればこそ「問い直す」という行いこそは、現代にむしろ求められる、大切な意識であると言えるでしょう。

〆さば
信仰は確かに思考停止の装置にもなる、これも事実だと思います。
その上で、信仰のベースを掘っていくとやっぱり祖霊信仰みたいなものに行き着くんですよね。爺ちゃんの墓を大事にしたいと思うならそれは信仰であって、大仰に構えず其々の信仰の形があっても良いとみんなが思えたら…でも戦争とか見てるとなんか相当に厳しそうだし、その為に殺し合う人達の気持ちを生で聞いてみたいですです。
回答になってなくてすみません。

款冬

はかり
宗教における私が思う不快な点は『超越者』と『報酬』です。
説明しがたいことを超越者にゆだねて、規律を守る理由を超自然的な報酬の為とすることが許せないのです。
『教え』には背景とそれによって得られる合理性があるはずです。それは時代によって取捨選択されればより合理的だし、その規律自体が素晴らしい事だと思うのです。
人が人の為に人を導くことをそろそろ互いに信じて良いのではないかと思います。
ユダヤがユダヤの尊厳を高め、且つ規律を守らせるために作ったのがユダヤ教。
ヨハネによってユダヤの尊厳が薄れ、それを利用し、それいいね!ってパクったのがキリスト教。そのキリストすらも預言者扱いしてパクったのがイスラム教。
と、解釈していますが、総じて法であり、
近代的な法には及ばない。

サト
目指す姿、こうありたいと目標とする信仰
あとは拠り所としての信仰
崇め信じ従う対象としての信仰、推し活みたいな
という二軸はありそうな気がしてる
他にもあるかもだけどとりあえずこんなとこかな

