「信仰」についてどう考えていますか?
私は信仰を「思考停止」と一括りにはしたくないのですが、人がそれを持つ理由や意味を、ちゃんと知りたいと思っています。ただ、「信じる」ことと同時に「問い続ける」ことも大切なんじゃないか、とも考えています。それは本当にそうなのかな?と思い質問しました。

正宗(ろー)
敬虔な信徒にとっての信仰は青の部分。
後者の場合はアイデンティティと一体化ないし、信仰がアイデンティティを超越していると考えられるので、後者の人は「信仰」を考えることはできないと思いました。
➜漫画の中の登場人物達が、自分達の作品を超えて、他の漫画の世界観を知覚するような難しさ。
「信仰」を考えられる人は前者だと思います。
そして、問の射程は後者を含んでいるように感じました。
この場合は、政治家が考える貧困政策とか、富裕層の考える貧困対策と同様に、『その地面』に立っていない人が『シュミレーション的にイメージしているもの』で論じることになると思います。
ここに、シュミレーションの限界、視点取得の限界があるように感じます。
---
上記を踏まえた上で、私の考えは、
洗脳と精神的理念の柱という両方の性質があって、紫のように捉えている人と、青のように捉えている人が居ると思います。
➜モダリティの違い
この問に対しては、自己がイメージしたもので回答する人が多数派でしょうから、この場合は日本人が回答者になることから、紫のような「信仰」が語られることが多くなり、回答する母集団に偏りが生まれる状況になると思います。
裏を返すと、日本人が扱いづらいテーマの1つだと思います。
故に、問の価値も大きいと思いました。
その一方で日本人には扱いづらいテーマ…とループですね。
ただ、ご飯粒を残さない倫理観の背景にあるのは信仰だと思います。
また、サンタクロースを肯定するのも信仰の一形態だと思います。
そのように考えると、敬虔性が伴う信仰と、その人の価値観や倫理観の背景に薄く広く広がっている信仰とがあるのかもしれません。
まとめると、価値観や人生観に深く影響を与えるものと、浅く影響を与えるものがあって、それがアイデンティティの中核になる場合や、価値観に影響を及ぼす因子にもなる。
ここからの『核』は…??なんだろう


てす人
多くの信仰は生や死に理由を求めるから生じるものと思います。人生にさして意味がないことに気がつくと、無意味の中ではどんな喜びもその後の虚しさに打ち消されてしまいます。
人生に仮初でも答えを求め、それが正しいと信じることが信仰なのかなと。結局ある種の思考停止ではあると思いますが、間違いではないと思います。

パピコ
ここでは善悪の区別と信仰は類似したものと考えますが
行動には判断基準が必要です。
それ判断基準となりうるものの一種が信仰
ではないかなと思います

〆さば
信仰って宗教と結ばれがちだけど他のものでも成り立ちますよね。問い続けることを信仰だとしても違和感はない。なので「価値判断のよるべ」としての信仰であればそこらじゅうにある。宗教と結ぶならある意味思考停止(思考を一部愚問化することで苦痛や疑問をピークカットする)とみてもいいんじゃないかな。そんなふうに見えますね。

〆さば
信仰は確かに思考停止の装置にもなる、これも事実だと思います。
その上で、信仰のベースを掘っていくとやっぱり祖霊信仰みたいなものに行き着くんですよね。爺ちゃんの墓を大事にしたいと思うならそれは信仰であって、大仰に構えず其々の信仰の形があっても良いとみんなが思えたら…でも戦争とか見てるとなんか相当に厳しそうだし、その為に殺し合う人達の気持ちを生で聞いてみたいですです。
回答になってなくてすみません。

はかり
宗教における私が思う不快な点は『超越者』と『報酬』です。
説明しがたいことを超越者にゆだねて、規律を守る理由を超自然的な報酬の為とすることが許せないのです。
『教え』には背景とそれによって得られる合理性があるはずです。それは時代によって取捨選択されればより合理的だし、その規律自体が素晴らしい事だと思うのです。
人が人の為に人を導くことをそろそろ互いに信じて良いのではないかと思います。
ユダヤがユダヤの尊厳を高め、且つ規律を守らせるために作ったのがユダヤ教。
ヨハネによってユダヤの尊厳が薄れ、それを利用し、それいいね!ってパクったのがキリスト教。そのキリストすらも預言者扱いしてパクったのがイスラム教。
と、解釈していますが、総じて法であり、
近代的な法には及ばない。

サト
目指す姿、こうありたいと目標とする信仰
あとは拠り所としての信仰
崇め信じ従う対象としての信仰、推し活みたいな
という二軸はありそうな気がしてる
他にもあるかもだけどとりあえずこんなとこかな

