
哀小出 翔

トランス
よしだ
下巻において著者の筆致は、分析対象から一歩距離を取るのではなく、むしろ読者自身をその射程に組み込みながら進行する点に特徴がある。
本書が主題とするのは、権力を直接行使する主体ではなく、権力の周縁に位置しつつ、その作動を円滑化する媒介的存在である。
すなわち、暴力や抑圧を自らの行為として引き受けることなく、それを観察し、評価し、時に揶揄することで、結果的に既存の力関係を再生産する主体である。
著者はこの主体を「純粋」であるがゆえに批判の対象とする。なぜなら、その純粋性は自己反省の欠如と不可分だからである。
下巻の議論が鋭いのは、いわゆる「加害/被害」という二項対立を拒否する点にある。本書においてスネオ的主体は、加害者でもなければ単なる被害者でもない。
むしろ、自らの相対的弱さを倫理的免罪符として利用しつつ、状況に応じて優位な側に同調する存在として描かれる。
この曖昧な立ち位置こそが、現代社会における支配構造を最も安定的に支える、という著者の指摘は説得力をもつ。
また、下巻では「ではいかなる態度が要請されるのか」という問いが暗黙のうちに浮上するが、著者は明確な規範や理想像を提示しない。
その代わりに示されるのは、沈黙や距離化による安全な立場への退却を拒むこと、すなわち不利益を被る可能性を含んだ関与を引き受ける姿勢である。
この消極的とも言える結論は、読者に安易な救済を与えない。
総じて『純粋スネオ批判(下)』は、読後に爽快感をもたらす書ではない。
むしろ、日常的な振る舞いや言説の中に潜む自己の姿を、繰り返し想起させる不穏さを残す。
その意味において本書は、思想書というよりも、倫理的態度そのものを持続的に問い続ける装置として機能していると言えるだろう。
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こうじ

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ともひろ

土土
ノグレー

ペニーさん
やはり親ガチャこれしかわからなかった。

優
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