
たくひら
42歳、東京でのんびりやってる人です〜
とりあえず、のんびりお話ししながら仲良くやっていきましょう。
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恋愛トラブルみたいな相談はいつも死ぬほど受けているのですが…その上で絶対的な原理原則があります。それは恋愛のトラブルはどちらかが悪いということは根本的になく、だいたいがどちらも同程度悪いという結論になりがちです。その上で、破綻するかしないかは、破綻させたいかさせたくないかという話にしかなりません。何故なら、恋愛はどこまで行ってもお互いのわがままの擦り合わせでしかないからです。
こういうことを言うと、浮気不倫やDV・モラハラはどうなんだ!?みたいなことを言われるんですが、それを言ったら「あなたにとっての絶対的倫理協定違反であれば早々に別れや離婚で終わり。相談にもならねぇ」と言うのが第三者的な回答なんですよ。でも、そうじゃないですよね?浮気不倫されてもDV・モラハラされても、「別れたくない」というわがままが発生しているから問題なんですよね?違いますかね。
だから私からすれば、「浮気不倫やDV・モラハラをされているのに、まだ続けたいとあなたが思っているそのわがままが、そのままその構造に加害者が甘えてしまっている」という点で、あなたにも責任があるんです。
こういうことを言うと、子どもがとか世間の目がとかありますが、離婚率についてはとっくの昔に3割を超えています。1/3が離婚してるんです。そして子どもについては間違えてはいけない。確かに子どもにとって「仲の良い夫婦」は良い影響を与えますが、次に大事な関係は「仲の良いシングル」です。「仲の悪い夫婦」は絶対的にその下です。どれだけ関係の再構築を求めたとしても、「仲の悪い夫婦」は「仲の良いシングル」の上にはならない。だから、私からすると「子どものために離婚しない」のは、「離婚しない理由を探しに行った結果」だと思っています。し、実際そうだった関係性をいくつもみています。
恋愛はどこまでいっても、お互いのわがままの延長線上にあります。なので、何か問題があったらどちらも悪い。それは本当に頭に入れて恋愛した方がいいです。

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ちなみに遊び人なので言ってしまうと、3日帰ってこなかったらですね。私が良いなと思う女性が魅力的でないはずもなく、幾つになっても異性からのアプローチは全然あるでしょ?と思ったらまぁそれ以上私から何か言ってもいろいろあるわいなという話。だからとやかく言わないけど!でも、3日帰ってこなかったら、そりゃさすがに知らんわなwにはなりますよねぇ(´・ω・)

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昨今、インフルエンサーやYoutuber、vtuberへの誹謗中傷がめちゃくちゃ酷くなっており、結果として「開示請求」から最悪刑事事件にまで発展している事案が急激に増えていると言われています。これは結構人との距離感がよくわからないからと言われていますが、もうひとつ非常に大事なことがあります。
今回私のようなよくわからない人間が、これが例示ですと挙げるには少々非才が過ぎる身ではありますが、しかし完全に今回の話はそれと類似する話になっています。私は時々このように長めに哲学や思想、思索について投稿していますが、それに対してコメントを残してくるというのは大歓迎です。質問・反論大歓迎。ただ、「全然わかってない」「何も理解していない」と吐き捨て、「自分がどのように考えているのか」を論じない態度は危険です。それを人は「腐す」と呼びます。では、なぜ人を腐したくなるのか。この感情は自分自身で向き合った方が絶対にいいです。
他人を腐したくなる瞬間はいろいろあると思います。だいたい、自分の人生がうまく行っていないからがスタートラインではありますが、なぜこの人はこんなに語れるのだろう、なぜこの人はこんなに人気があるのだろう、なぜこの人はこんなに堂々としているのだろう。だいたいこんな感じですね。そして、自分が得意或いは自分が努力した・勉強した分野に近ければ近いほど、そのなんで!という感情は強くなります。そして、どうしてでしょうか。その感情があるラインを超えると「この人に構って欲しい!!」になるんですね。なぜなら、「この人に構われた」瞬間、「この人と同格になった!」という感覚になるからです。よく、アンチコメントに返信すること自体がアンチにとってはご褒美という言葉が配信者あるあるにありますが、まさにこれです。一種の同化現象なのかもしれませんね。
そもそも、その人が嫌いならブロックすればいい。自分の意見と合わないなら、何言ってんだこいつ?とスルーすればいい。なんなら「こいつの言ってることは違った気がする。原本はなんで書いてあったっけ??おお、やっぱり違う!おお、私の知識が強固になったぞ!!」と自己強化に使えば良い。少なくとも私はチャッピーと一緒に、この人なんでこんなこと言ってんだろー??裏側にはどんな理由があると思う??と考えるネタにしています。そう考えたら、その人に「お前は間違っている!」とか「お前は自分より下だ!雑魚が!」みたいなことを伝える必要はない。だから、私は今回の件でも「なぜ私に伝わるところで私に伝わるように言ったの?」と聞いています。
しかも、この「構って欲しい」ではないのであれば、私の返しには反応せずにブロックすれば良い。でもブロックせずに返してくる。しかも反応しやすいように煽りを入れて。これは明確に「他人に反抗期をしている」のと一緒です。ちなみに反抗期は甘えのひとつの形です。赤の他人との会話に煽りなんか1ミリも必要ありません。
果たして、どうして自分が「これは間違っている!」「これはおかしい!!」と感じた人に甘えるのでしょうか。これは本当に一度真面目に向き合って考えた方がいいと思っています。私は明確な答えを出すことを避けますが、なんにせよ私にすらこのようなことをしてくるということが、開示請求への片道切符にならないことを心より祈っています。

たくひら
回答数 9>>
多くの哲学者の主義主張は細かく砕いていくととても素朴な「これはなんだろな?」から始まっているように見えます。確かに、表現が抽象的過ぎていまいち現実の実践が見えてこないものもあるのも事実ですが、それは多くの場合、ある大きな命題に対する対抗言論になっていることが多く、大きな命題はかなり実践が見えてくる。カントやハイデガー、ラカンあたりは言ってることは難解に見えますが意外と素朴です。私にとってアーレントやニーチェ、メルロ=ポンティやダガマーの理論は、私の生きている世界に対する疑問に直結するような理論だったと理解しています。またレヴィナスやブーバー、デリダやバルトの言っていることは実に実践しやすいと思っています。
なので、「哲学は現実と接続する必要がある」のではなく、そもそも接続しているのではないかと思うのです。

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このような形で呼ぶにしてもカントは最後に召喚しないといけない。でないと議論が空転する。なので、最初の段階で、道徳は義務なのか?という問い自体が非常に危険であるというのが、私の最終結論です。道徳の中には、義務やら契約やら規範やらいっぱい詰まっていることがわかりました。なので、私の最初に置いた「道徳=規範」はロジックを進めるための仮置きで、実際はこれはこれで決めつけだったということになってしまいましたがw 一方で、道徳=義務とおいてしまった瞬間にカントとともに哲学史300年分の議論をもう一回する羽目になるので、少なくとも私はしないというそういう話なんです。めちゃくちゃ長くなりましたが、いやまさにこれが哲学ですねぇ。
(終)

たくひら
アリストテレス・アダムスミス・ルソー・デュルケムを召喚して初めて、道徳というものはどうやら、「誰かが実践したもの」「みんなで守ろうと決めたもの」「そしてそれをみんな(≒社会)が良いと信じているもの」の総合体として考えたほうがよさそうだなというところまで来ました。なんですが、ここでめんどくさいことが起こります。みんなが守るということが当たり前になりすぎていると、それを破るほうが効用が上がる場合が出てきます。例えば、仕事で「納品後1カ月以内の支払い」をみんなが守っている世界においては、ある地点で、「支払いを破り続けるほうが得」の場面が出てくるのです。この時に初めて「お前それはよくないだろ!道徳的ではない!」という言い方で初めて「他者を縛る」つまり、「道徳的義務」の必要性が出てきます。ここまで来て初めてカントが出てくるんですね。ここで重要なのは法律ではありません。他者を縛る、というだけでは実は足りません。本当に必要なのは、自らに道徳的人間であると課すこと、つまり内側からの拘束です。約束は守られなければならない。約束を破ってはいけないではない。守られなければならないのが道徳で、破ってはいけないは法律です。「約束を破ったら罰せられる」ではなく、「罰せられなくても、そもそも約束を破ってはいけないのではないか?」という話ですね。ちなみに破ってはいけないだと別の人が召喚されてしまいます。(おそらくホッブス)
(続⑦)

たくひら
一方で、倫理のほうはどうでしょうか。「自身の人生や生き方を通じて得た、善い人生・善い生き方とは何か?という問いから導き出されるもの」、ここではアリストテレスを召喚しています。善き人生とは何か?どのように生きることが自分の満足や他者からの賞賛を浴びるのか。社会的な成功だけが善い人生なのか?と様々な話題が尽きないと思いますが、ひとつ気になることがあります。善き人生というものは机上の空論ではなく、実践が必要なのではないか?自分があるいは誰かがそのように生きることができるような何かそういうあり方としての議論でなければ、誰も実践できない善き人生を語ることにどんな意味があるのだろうか?ということは、逆説的に道徳も一緒なのではないか?つまり、誰も守れないような「社会的に良しとされている枠組み」にどんな価値があるのだろうか?こう考えた時に、道徳は「抽象的な概念の前に、誰かが実践してくれた行為をみんなが共有して初めて成り立つ」ということを以て道徳足りえるのではないか?と。つまり、道徳は一種の「実践集」や「事例集」みたいなものも含まれているんじゃないだろうか?と。道徳は事実の記述が含まれる。ここに到達してようやく、ある一人の社会哲学者を召喚できます。それがデュルケムです!
(続⑥)

たくひら
そのうえで、この道徳と倫理の定義は2人の哲学者を召喚することになります。道徳側はアダムスミスを、倫理側はアリストテレスの召喚です。今回は道徳の話が中心だったので、アダムスミス側からさらにひとり哲学者を召喚しましょう。「社会的に良しとされている枠組み」というのは、どうやって決めるかイメージできますでしょうか?現代社会で、社会全体について『みんなで決める』仕組みを考えるなら、民主制がひとつの代表例になります。社会の中で話し合ってみんなでこれと決める。つまり、社会を穏やかに進めるためにみんなで守るものっていう感覚ですよね。社会を維持するために共有される約束事もまた道徳と呼んでみるとどうなるか。とここまで話を進めると召喚できる社会哲学者がいます!ルソーです。社会契約そしてみんなで考えて作られた憲法というのは、まさに道徳の言語化のひとつの形といえます。穏やかな笑みを携えてこの議論にルソーが参加します。
(続⑤)

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再度書きますが、規範というものは大きく社会的規範と個人的規範に分かれており、社会的規範を「道徳」といい、この定義は「社会的に良しとされている枠組み」とし、一方で個人的規範を「倫理」と呼び、「自身の人生や生き方を通じて得た、善い人生・善い生き方とは何か?という問いから導き出されるもの」と定義しています。どこにも義務や強制力という言葉あるいはそれに類似する言葉がないのは明らかですね。これは意識してカントを召喚させないためです。正確に言うと、社会規範の話をする際には、社会的義務という視点は避けては通れないんですが、私の感覚では、カントを召喚する前に召喚しておきたい社会哲学者が二人いるんです。ただ、この二人の哲学者の召喚条件が結構めんどくさい。なので、いったんまず、この定義から始めます。
(続④)

たくひら
なぜなら、義務という言葉にはA→Bという、何かが何かを拘束する力のベクトルが含まれているように感じられる言葉であるため、必ずこう聞き返したくなるはずです。「それは誰が義務としているのか?」そして「誰かを拘束したり強制したりするその考え方や振る舞いは、本当に道徳的なことなのだろうか?」と。この問いこそカントが生み出した「定言命法」を召喚する問いです。定言命法の詳しい解説は、各自チャッピーにでも聞いてみてください。んで、私はカントを召喚したくないんですね。とんでもなくめんどくさい。カントを黙らせて封印する方法はおそらく4つぐらいあって、1つは私の得意分野からのツッコミになるんですが、それでも最低フッサールとガダマーとメルロポンティとニーチェの4人の召喚が必要になるんです。道徳の話をしているのに、義務って言葉を使っただけで、道徳という話をする前に5人も哲学者を召喚したいと思いますか?私はしたくないねぇ!ということで、私の定義に戻ります。
(続③)

たくひら
とりあえず、私は道徳を基本的に規範の一種だと捉えています。そのうえで、規範というものは大きく社会的規範と個人的規範に分かれており、社会的規範を「道徳」といい、この定義は「社会的に良しとされている枠組み」とし、一方で個人的規範を「倫理」と呼び、「自身の人生や生き方を通じて得た、善い人生・善い生き方とは何か?という問いから導き出されるもの」と定義しています。ここで、質問のやり取りの中では「道徳は義務ではないか?」という話が出てきました。そのうえで少し話を進めたところ「自己義務」という概念が提示されましたが、道徳と義務が交わると非常にめんどくさい哲学者が自動召喚されます。カントです。
(続②)

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まず、「なぜそれをリンゴと知っている?」でソクラテスとプラトンとアリストテレスが召喚され、「私は認識した」で、デカルトを召喚しつつ、「それは経験的に知っているのか?それとも明示的に知っているのか?」でカントが召喚され。「りんごとほかの果物は違う」のであればフーコーが、「ほかにも赤い果物があるがとりあえずリンゴにした」であればソシュールが。「私が認識しているというのは適切なのか?」でヘーゲルが召喚される。
一方で「この私とは誰なのか?」でハイデガーが召喚され、「私はそう言葉を発した」のであれば、アーレントとリクールが。「私は赤いを知っていて果物を知っていてリンゴを知っていた。図鑑や教科書で見る前からね!」でフッサールとダガマーが。「リンゴを食べたことがあるからな!」でニーチェとメルロ=ポンティが召喚される。そして最後に「今言葉を使ったな?言葉を使ったんだな???」って後期ヴィトゲンシュタインが全速力で走ってくる。
ひとつのお題に対して、どこに引っ掛かるか・どこを中心に言語化するかで、全然違う哲学者が表れるのが面白いんですよねぇ。

たくひら


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回答数 21>>
ここまで話してきていて、ひとつだけすごく気になることがあります。どうして、道徳の話をする際に功利的選択や倫理、社会的眼差しなどの個人的選択の話を飛び越えて「義務」と言い出したのでしょうか。例えばアダム・スミスの「道徳感情論」はまさに「道徳」の話ですが、一気に義務の話にはなっていません。これはカントの「義務論」に影響を強く受けた問いのような気がします。なので、ここから発展するための概念をひとつ紹介しておきます。近年の倫理学の議論に「moral luck」という概念が議論されています。これの中身については、興味がある人はぜひチャッピーやClaude君にその内容とカントの義務論の関係性について聞いてみてください。

たくひら
回答数 17>>
その上で、この質問者が幾つの方なのかわかりませんが、もし20代前半でここにたどり着いたのであれば、創作者系の性質が強いと思います。一方で30前半で辿り着いたのであれば、自分と世界の距離感を間違えてしまったのだと思います。40前半で辿り着いたのであれば、おそらく休んで自分の中にある声に耳を傾けるべきです。
その上で「他者から与えられるモノだけを受け取る生き方」は「退屈」です。「自分で切り拓く生き方」は「波瀾万丈」「刺激が強すぎ」ます。つまり、このバランスを取るべきという話になります。しかし、悲しいことにこの話を他人に聞いてしまうということは、おそらくアナタは今までの人生で自ら何かをし続けたということをしてなかったのでしょう。スポーツ・勉強・創作・恋愛。どんなに小さなことでも構いません。ただ、これは別に恥じることではありません。ほとんどの人間はそれが当たり前なのです。
これを抜け出すヒントは「毎日ほんの少しだけコンフォートゾーンを抜ける時間を作る」ことです。毎日15分で構いません。資格でも純粋な勉強でも筋トレでも構いません。或いは異性を口説きに毎日街に出るでも良いでしょう。今まで読んだことのない本を読むでも良いでしょうし、古い名作と呼ばれる映画を見るでも良いかもしれません。小説を書いても良いし音楽を作っても良いしダンスを踊っても良い。とにかく出来ることはいっぱいあります。1日15分からですね。
それでも何もわからないのであれば、他人と話すが良いかもしれません。なんなら、私の哲学の星の投稿全部に誠実にコメントするでも良いですよ。全部読んで全部返しますよ。同じような気持ちでいる人もコメントいただいて構いません。全部返します。ただ、ちゃんと誠実にコメントしてくださいね。

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変な時間に起きて寝てを繰り返して、眩暈がする中で仕事をしております…多分1時前にお布団に入って、3時半ごろ一回目が覚めて30分ぐらいしたらまた寝て、次に5時半ごろ目が覚めて…んで7時ごろまた寝ていつも起きる8時半過ぎに起き出した…全然寝た気がしないのよー(´・ω・)

たくひら
回答数 20>>
私は世界は豊かである。全ての解釈の基盤である。基本的に全てを受け入れてくれる。と考えています。というよりも、そういう前提でないと、自由も意志も感情も祈りも全て「定型なものしか受け入れられない」ことになってしまう。であれば、私たちはどうして「生み出された」のか、その上で「生み出すことができるのか」を説明できない。
その上で、私たちは、世界を複雑にもシンプルにも受け取ることができるということです。複雑であるという記述も、シンプルであるという記述も、どちらも世界が豊かであるという前提の上に成り立っている意識感覚かと思います。でなければ、私たちはシンプルに「生きる」ことが出来ないし、複雑に「生活する」ことが出来ませんからね。
スマートフォンのある生活は複雑な世界だと思います。一方で愛している人に愛していると言えるのはとてもシンプルな世界だとも思いますよ。

たくひら
回答数 7>>
② 考えれば考えるほど、思った以上に私たちは無意識に置いてあるものが多いし、言語は不完全だし、受動的な認識や身体的な認識ばかりで理解に結びつく言語化まで至っているか甚だ疑問なので。しかもその言語化は間違っていたり解釈不一致になっていたり勘違いしていたり、何なら自分の記憶ですら意識と無意識の狭間で改変されてしまったりすると。加えて、今の私の世界認識から5年後10年後の私が演繹的に導けるわけでもないと。
ということは、過去・現在・未来、全ての時間軸における理解って何だろう?ってなりませんか?そこまで考えていくと、私が私であることを記述できて、しかもそれが相応にまぁ一応正しいものとしておくかと取り出せる(≒理解)ものって10のうち3も無いですよね。1ぐらいかもしれない。とりあえず、3あれば良い方でしょうよ。

たくひら

たくひら
回答数 24>>
おそらく、私たちは他人を「理解」出来ていません。「評価」しているだけです。或いは「言語化」しているだけです。そしてこれを二方向で説明して、さらに実践まで落とし込みます。
まずひとつ目ですが、よく考えると当たり前のことなんですが、ひとりの人間に内在している情報量がとにかく多すぎます。今まで生きてきたこと・思考の癖・インプットやアウトプットの量や質。おそらく20歳の私たちひとりひとりは1000万字あっても語り尽くせないのではないでしょうか。そのような他人を私たちは5万字とか10万字ぐらいしか読み込めていない。しかも相手の情報量は年々増え続けかつその情報編纂回路も変化し増え続けます。おそらく私たちの言っている「理解」はその瞬間瞬間のその人を、1万字ぐらいで「自分が表現しやすいように言葉にしている」程度のことしかしてないと思っています。
ふたつ目はさらに厄介な話になります。私たち人間という存在は時間的・経験的な存在です。一方で言葉には時間軸がありません。過去形・未来形という時制は存在しますが、時間性を持ち合わせていないんです。これはベルクソンのシネマトグラフ的認識やゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」からも説明されていることで、とにかく私たちは「理解」という形で「言語」に「固定化」した瞬間に、パラパラ漫画の一枚が出来上がってしまう。だから、「理解」が時間的な「理解」にならず、結果目の前の彼・彼女にその「理解」が追いつくことはないのです。
その上で私たちが気をつけなければならないことは、「理解」することで、「他者を評価」して「満足」してはならないということです。私たちは目の前の人を理解「し続ける」必要があります。評価「し続ける」必要があります。そして対話「し続ける」必要があります。もし、「理解」を「固定化」したら「評価」に堕ちます。
つまり、私たちは更新「し続けない」といけないのです。そしておそらくこの「更新し続けよう」とする意思と自覚が、「理解する」上での倫理的態度なのです。

たくひら
回答数 35>>
私はこの「難しい」は3つの解釈が出来ると思います。
ひとつ目が「難しいことを考える」という難しさ。私はこれを深化とか「思考に深く潜る」と表現しています。「難しい」という表現はこういう意味なんじゃないか?と今考えていますが、まさにこれが「難しいことを考えているな」という感覚を生み出すと思います。
ふたつ目が「言葉を正しく理解させる」ということ。言葉には他者性がありかつ他人はその言葉を自由に解釈できる。だからなんとなくその言葉や書かれていることの文意を理解できた気になります。しかし、哲学ではそれは困るんです。何故なら「誤解されてしまうと哲学として失敗だから」です。なので、できる限り「限られた解釈」しか許されない言説が出てくる。これは人によっては「解釈不能」や「なんでこのように理解すべきかわからない」という「難しさ」につながります。
3つ目が「新しい言葉を生み出す」からです。哲学をやって色んなことを考えていくと、どうにも今ある言語帯の中でカチッとハマらない言葉や、「この言葉は私はこういう風に使いたい。そうするとうまく説明できる」というものがあります。例えばハイデガーのSEINや「大文字の他者」のような言い方はまさに言葉の発明ですね。或いはアーレントの「物語」とリクールの「物語」と後期ヴィトゲンシュタインの「物語」は全部含意しているものが違います。なので、もしリクールののいう「物語」を使いたければ「リクールのいうところの物語」と正確に使わなければなりません。これはつまり日本語の中に突然見たことのない横文字が出てくるのと一緒なので「難しい」と感じるのは当たり前だと思います。
難しいという言葉から哲学的思索を、できる限り平易な言葉で説明してみましたがいかがですか?やっぱり難しいですかね??(´・ω・)

たくひら
今日は炭酸水とBQQのチーズデザート。ショートケーキ味。満足度が高い!本当なら、ハイボールとかにすべきなんだろうけど、酒無しでも楽しめるからなぁ。


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