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Hino

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お話しできるお友達をつくるために始めました。 話しかけるのは苦手なので、話しかけてくれたらうれしいです。
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​「人のために」という言葉を口にするとき、私たちは本当に純粋な思いやりだけで動くことが可能だろうか。その美名の下には、他者からの承認を渇望する自己愛や、罪悪感から逃れようとして行う自己満足、すなわち「利己的な動機」が不可避的に混在しているのではないか。

​道徳哲学の世界では、しばしば動機の純粋性が問われる。カント的な厳格主義の視点を採用するならば、自らの満足や評判を目的とした行為は、道徳的価値を欠いた「偽善」の範疇に組み込まれるだろう。
しかし、現実に目を向ければ、この世界はそうした「不純な優しさ」によって構造的に支えられていることに気づかざるを得ない。

​ここで重要なのは、個人の内面における「動機の不純さ」と、社会に表出する「行為の有用性」を切り分けて考える視点である。結果としての幸福を重視する「功利主義的」な観点から見れば、行為者の内的な動機が自己愛に基づいていたとしても、その結果として他者の苦痛が軽減され、幸福が総計的に増大するのであれば、その行為は社会的に正当化される。むしろ、実効性を伴わない純粋な善意よりも、他者の期待を計算に入れ、社会の要請に応えようとする「偽善」という名の機能的な配慮こそが、文明を維持するための高度な戦略であるとさえ言えるだろう。

​もし、すべての行為に純粋無垢な善意を求めるならば、人間社会の相互扶助は機能しなくなり、冷淡な無関心へ変化してしまうだろう。
結局のところ、世界は偽善という「利己性を利他性へと変換するシステム」によって成立している。

​偽善とは単なる欺瞞なのではなく、自己の欲望を他者の利益へと接続させるための一種の理性的な妥協、あるいは「洗練された生存戦略」なのかもしれない。
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Hino

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経験よりも価値のあるものは?経験よりも価値のあるものは?

回答数 130>>

私は知識だと考えます。
なぜなら、経験も大事だが、知識が伴わなければその経験の本質を見抜くことは難しく、ただの出来事の積み重ねで終わってしまい、その経験の価値を最大限に引き出すことができないためです。
同じ景色を見ていても、植物の知識がある人とない人では見えている世界が違うように、知識は経験を解釈するためのレンズになってくれます。知識があってこそ、一つの経験から十の学びを得る洞察力を養うことができるのだと考えるからです。
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Hino

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私たちの「存在」という確信は、いかにして成立しているのだろうか。
眼前に広がる現実は、果たして客観的な実在なのか、それとも意識というフィルターが投影した精緻な現象に過ぎないのだろうか。

​時に、自己という存在に対して根源的な違和感を抱くことがある。自らの肉体や思考を、あたかも外部から操作しているかのような感覚。乖離的な感覚。遊離した操作感。例えるならば、私たち自身の肉体をアバターとし、ゲームの駒のように操作しているような感覚に近い。

この感覚から、ある可能性がわかる。それは私という存在の正体は、「この肉体そのものではないのかもしれない」ということだ。
​もし、この世界すべてが「自分の意識が見せているもの」だとしたら、私たちが「現実」と呼んでいるものは、実は「終わらない夢」なのかもそらない。
​私たちが「これが自分だ」と思い込んでいるこの体は、本当は実体のない意識が、この世で活動するために一時的に着ている「着ぐるみ」や「道具」のような仮初めのものに過ぎないのではないか。
​自分の体をアバターを操作するようなあの奇妙な離人感こそが、肉体という檻の外側に存在する「本当の自分」の視線を、一瞬だけ垣間見た証なのかもしれない。
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Hino

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人間の善悪ってどのタイミングで決まるのだろうか。
みな初めは善悪の区別もつかない無垢なこどもであったはずだ。なのになぜ、大人へと成長する過程で、これほどまでに残酷な心を持つ者と、慈悲深い心を持つ者に分かれてしまうのだろうか。

そもそもとして、善悪の定義とはなんなのだろう。善も悪も表裏一体、見る視点を変えてみればどちらにもなり得るのだ。わたしたちはどのような点から善悪を判断しているのか、一度考えて、疑ってみる必要があるのではないか。
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