
ぎゃくりゅうさん
「本当にそうかな?の星」の管理人です。そこで匿名投稿したい場合は私の質問BOXにその内容を投函してください!AIと区別するため文頭に❓️をつけてくださいね。DMでもOK!(惑星に参加していない方の匿名投稿も大歓迎🙆)
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ぎゃくりゅうと申します。
胃酸も周りにも逆流してるのでこの名前にしました。
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ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん
本当に子どもを守っているのか?
それとも
管理しやすくするためだけのルールなのか?
迷いを感じる場面は少なくない。
特に小学校の頃強かった「先生が絶対」という風潮も、確かにそれは秩序を保ち、子どもたちに安心感を与える役割はあったと思う。しかし、同時にそれが恐ろしくも感じる。

ぎゃくりゅうさん
回答数 1>>
その人の中に自分なりの強い枠組みや大切にしているルールがあり、相手の言動がそこから外れていると感じた瞬間、「理解不能なもの」「議論にならないもの」として切り離してしまい、結果として排外的・感情的に受け取られてしまうこともあるのかな、と感じます。
その場合、相手を怒らせた意図がなくても、「枠から外れているもの」を排除・揶揄すること自体が本人の中で正当化され、その結果として生じた感情(怒り)に対して周囲は「なぜ怒るのか」と感じ、さらに距離を取ってしまう構造が生まれやすいように思います。

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん


ぎゃくりゅうさん
回答数 4>>
でも、一所懸命でいるうちに夢中になっている時がある。意外とこの問い難しい!

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん
回答数 4>>
回答を待っているよ!

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん
回答数 30>>
たしかに、尤もらしい答えは多くの哲学者が既に提示しています。しかし、それらに触れられる手段は本やインターネットといった資料が中心で、対話できるわけではありません。折角なら、答えてくれた人にお礼が言えたり、さらに問いが生まれたときにその場で聞き直せたりするような、「生きた対話」として、今この場で質問することに意味があると私は考えています。
また、偉大な哲学者たちは本当に議論し“尽した”と言えるのでしょうか?彼らも人間であり、神ではありません。もしかしたら他に真理があるかもしれない。時代や社会は変わり続ける以上、当時は説得力を持っていた考えも、別の角度から問い直されうるはずです。
カール・ポパーが述べたように、「反証可能性」がなければ科学とは言えないとするなら、真理について考える営みもまた、常に問い直され続けるものだと思います。
「有名な哲学者がこう言ったから、もう議論する必要はない」と考えるよりも、改めて問いを投げ直し、今を生きる人の言葉として考え続けること自体が、哲学なのではないでしょうか。

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん
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ぎゃくりゅうさん
回答数 4>>
回答を待っているよ!

ぎゃくりゅうさん
参考程度に、AIが考えた投稿例を貼っておきます!(チャッピー1〜2枚目、Gemini3〜5枚目)これと全然違くてもいいし、気になるテーマがあったらパクってOK!






ぎゃくりゅうさん
でも、その「当たり前」は、誰かが「本当にそうかな?」と問い直してきた結果でもあります。
この星では、日常の些細なことから大きなテーマまで、「本当にそうかな?」をみんなで気軽に持ち寄って当たり前を見つめ直す試みをしたいと思います。
ここで自分や他の人が放った言葉にも、「本当にそうかな?」と問い直してみてください。そしてぜひ、意見交換をしてみてください。
大切なものが見つかるかも。
…と私は考えてるけど、本当にそうかな?

ぎゃくりゅうさん


ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん
最近すごく調子良かったんだな、そういえばこれが平常運転だった
あー課題やんなきゃなのに
明日起きれるかな
消えたいまじで

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん
原因分かりやすすぎるだろ!
でももう1月は行かなくていいから最高🥳

ぎゃくりゅうさん


ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん
意のままに動こうとする個体、ルールに従わない個体…それらは左脳型社会にとって邪魔で、排除すべき存在。そして、子どもたちにとって教師は絶対的な存在。教師が排除しようとするならば、子どもたちも排除しようとする。それが「正しい」と思っているから。
それがエスカレートして「いじめ」になる。そんな社会だから”いじめられる方にも原因がある”という言葉が生まれたんだと思う。たしかに左脳でいることが「正しさ」だと信じていれば、この言葉が思い浮かぶし腑に落ちるんだと思う。
右脳を開くことは本当に「悪」なのか?
左脳にすることは本当に「善」なのか?
一人ひとりがこれを意識して行動を変えていかなければ、いじめなどなくならない。「善」だと思い込んでいる時が、実は一番トゲがあるのかもしれない。

ぎゃくりゅうさん


ぎゃくりゅうさん
考えてる暇なんてないやろ
でも考えるのが楽しいねん
惑星なんか作って運営する暇なんてないだろ
でもやりたいねん
「受験が終わったら」「テストが終わったら」の次は「課題が終わったら」「検定終わったら」?!?!?!キリないやん!
やりたいと思った時にやる!それが人生楽しむ秘訣や!知らんけど!まあ寝れないし勉強やる気でないしいいよね!!!明日朝起きたらちゃんとやればいいよね!!!!

ぎゃくりゅうさん
前者は右脳的(感覚・直感など)で、内発的。個人にとっても社会にとっても望ましい形。
「あ、こうしたらいいんだ。これからもこうしよう!」という風にモラルやルールなどを守る。
後者は左脳的(計算・管理など)で、外発的。
「こうしたらこうなるからダメ!」と言われたり、自分自身を強迫観念で追い詰めたりして、モラルやルールなどを守る。
これが人々を窮屈にさせているのではないだろうか。
学校を始めとする人間社会は、大抵後者で成り立っている。右脳が活発な子ども達は、そうして右脳が閉じられていき、左脳に偏っていくのではないだろうか。
特に今はインターネットで多くの人の意見、視線に触れる。「これをしたら、こんなことを思われてしまうのではないだろうか」…そんな思考回路になりやすい時代になってきている。けど本当は人間って、もっと温かいんじゃないの?
「積極的な守り」を目指すためには、成功体験を積むことだと思う。「守ってみたら、こんな良いことがあるじゃん!」そんな発見が積み重なれば、自分や他の人を自然と守れる社会になるんじゃないかな。
でも逆に、「こんなこと気にしなくても良いことあるじゃん!」という成功体験もあっていい(安全であれば)。あった方がいい。新たな挑戦が新たな幸せを生むと思う。
みんなが当たり前と思って守っていること。もしかしたら「消極的な縛り」で囚われているだけかもしれない。
とにかく、「消極的な縛り」で自分の右脳や幸せが閉ざされていないかを振り返り、「積極的な守り」や「挑戦」で右脳や幸せを切り拓く。
私はこうして生きていきたい。

ぎゃくりゅうさん


ぎゃくりゅうさん


ぎゃくりゅうさん



シラユメ

ぎゃくりゅうさん
目がバキバキすぎてもはやぐんぴぃ😥

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん
健康的なのか不健康なのか

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん

ぎゃくりゅうさん
行動で愛が伝わる😃

ぎゃくりゅうさん
「好きだからいいじゃん」?ころすぞ!
そこに愛はあるんか❓️
