
シス
悟りの境地目指して生きてます。哲学的な思考なので何でも話して下さい。大体はお答え出来ると思います。
ショーペンハウアー、老子、ブッダの思想に傾倒していますので、理解出来る方は絡んで下さい。
あ、あと大喜利で言葉を育てていますので良かったら見て下さい。
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シス
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人は恋に落ちます。若い時は特に顕著に。
哲学はこの世の全てを考察する学問であり、恋愛もその中の一部です。
一つ結論を言うと、私は哲学を深く考察するようになってからは恋愛をしていません。
それは寂しくもあり、必然でもありました。
私の持論により快く思わない人もいると思いますがあくまでも持論ですのでご了承下さい。
私の中で恋愛とは精神的な病いであり、正常な判断ができなくなる状態だと考えます。それは人間の本能による作用であり、生物としては正常な病いとも言えます。
むしろ繁殖をしない生物が異常なのかどうかは別として、恋愛によっての行動と思考は普段の生活からは異常状態だと見えます。
こう考えてみると、哲学が恋愛に役立つ事は基本的にはないと言えるでしょう。
理由としては、哲学を多く装備することによって精神的に鍛錬され、恋愛と言う病いに抵抗力がついてしまうからです。
わかりやすく言うと、恋愛は自己が愚かでなければならないという事です。
自己の精神が満たされている場合、他者に求める要素は少なく、そして、相手を理性的に見てしまうからです。恋愛においての障害は理性であり、自己の感情を前に出さなければ何も始まりません。
逆に言えば、恋愛は感情に素直な人程頻繁に起きる現象なのではないでしょうか。
あなたが今恋をしたいのであれば、哲学という事を頭に入れず、本能的感情で行動すれば良いのではないでしょうか。
偉そう事は言えませんが、恋愛は思考するものでなく、感じるものでないといけない気がします。そして、哲学が役に立つのはその恋愛が終わった時ではないかと思います。
その時、哲学はあなたの心を癒やしてくれると私は思います。

シス
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まず、結論から言って私は電子的存在と考えます。
私達生物とは、たゆみない電子の流れによって成立する存在である以上、電子を無視する事は難しいでしょう。

シス
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それではこの二つの言葉の持つ意味から考察していきたいと思います。
感情たは自己意識の中で誕生するものであり、自己起因で生まれるモノと他者起因で生まれるモノと大きく二つに別れると思います。
一方、理性とは何でしょう。
これは他者起因がほぼ全てだと私は考えます。
理由としては、この世に生まれ出でて学んだ生きる術とは正に理性の塊の事ではないでしょうか。
それは親から学び、友から学び、教師から学び、上司から学び、後輩から学び、恋人から学び、社会から学んだのではないでしょうか。
全てでは無いでしょうが、本能的理性と言いながら他者から、または外界から与えられた理性は我々のこの社会で生きる大きい知恵となっています。
そして、そのおかげで我々はこの世界で生を謳歌出来ているのだと思います。
つまり、社会性ありきの人間にとって理性は基本装備であり、単体の人間にとっては不要なものであるでしょう。
ここで感情と理性は共存出来るのか?という事ですが、私は自分と社会を繋ぎ合わせるモノこそが感情と理性ではないのかと感じます。
自己存在としての感情、社会存在としての理性、二つの存在無くして社会性ある人間とはなり得ないのではないかと思います。
そしてこれは補足ではありますが、人間が感情的に犯罪や間違いを犯す事を私は社会性における罪であると考えます。社会に存在するモノのみが罪として扱われるという事です。
彼らはこの理性的社会構造の中で感情を優先した罪とされますが、自己のみ存在出来る世界の中では大した罪とは言えないでしょう。
されど人は一人では生きられない、だから我々は理性を発達させたのかもしれません。

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納得するかどうかは40くらいにならないとわからないかもしれませんが丁寧に論じたいと思います。
まず、中高生である事は若いという事です。それと同時に未来の選択肢が多いという事実があります。
大人になればなるほど選択肢は減っていき、厳選しなければなりませんし、困難も降りかかってくるでしょう。
そこで勉強を何故するのかという事ですが、簡単に言うと学生の価値は学歴ないし、運動能力で判断するしか要素が無いからだと感じます。
人間性を判断するにはまだ若く、人生経験が少なく、責任能力が無いからだと思います。
ここで重要なのは、社会は人間を区別するという事です。その判断材料に手っ取り早いのが学業なのでしょう。
あなた方中高生を判断する基本は学業しかないと言っても過言ではないのです。
若者の中身なんて社会は見てくれません。結局は自分で付加価値をつけていくしか中高生にはないのです。
大人は自由と代償に責任が求められます。それは自分の人生においても、社会においてでもです。
そして、社会は残酷に人を区別し、格差が生まれます。そう感じるのは大抵大人になってからなんです。
人生は大人になってからの時間が非常に長いです。中高生の時間は少なく限られています。それなのに判断されるのは学業と運動だけなのです。
その貴重な時間をどう使うかはあなた達次第です、
学ぶも遊ぶも大人になってからでも出来ますが意味合いが違うと思います。
最後に後悔しない様に勉強しなさいと人は言うかもしれません。
でも、後悔する人生もまた人間らしくあり、悪くないとは私は思います。
そう感じるのも大人にならないとわからないからかもしれません。

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キリスト教とイスラム教に限らず、宗教とは人の精神の拠り所であり、日々生きていく上で規範となるモノてす。
その規範を必要としなかったり、周りに伝承者が少なければあまり浸透はしないですし、現在の生活、人生において不満が少なければ、また、必要としないでしょう。
そして、宗教において重要な点は伝承する事、布教する事であり、その地域に、深く根付いている場合普及率は高くなります。
この様に宗教は布教し、信者の数を増やし、地域を増やし拡大していきます。これによって当然他宗教との接触が生じます。これは宗教を広める上では非常に厄介な点です。どちらが正しいのか、間違っているのかを人間は判断したがるからです。
そして、一旦自分の宗教を否定されると自分や地域、親族、国家を否定されていると認識します。
故に争いも生じてしまうのです。
逆に国家として独裁政治を行いたいのであれば宗教を禁止する事で内乱を防ぐ事が出来るかもしれません。ある国では基本的に宗教は禁止されています。
そして、衝突を解決する為の対話は難しいと私は考えます。何故なら、両者とも正しい答えを持っているからで、これを証明できる概念がないからです。
一つ可能性があるとすればこの二つの巨大宗教を超えるカリスマの誕生しかないと思います。
それはきっと人間ではないモノかもしれません。

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しかし、この答えはズバリNOですね。
私は性格、思想により、誰と話していても疑問が湧いてきます。
これは相手が考えを明らかにしてくれた事に対して私はまるでパズルを提示された気持ちになるからです。
つまり、ワクワクするんですよね。
ここで大切な事はその疑問に対してどう接するかだと考えます。
ただ感情任せに反論するのでは無く、相手の考えの中の賛辞する部分を見つけた上で発言する事が大事です。これはしっかりと相手の思考を自分の中におとしてみないといけないでしょう。
それによって、相手の感情や思考を組み立てていく。ここに面白さがあるんだと思います。
そして、尊重についてですが。
私は生物なり、人間なり、存在している事に尊重を置くべきだと考えているので自分と会話できる環境に相手が存在するというだけで非常に尊重すべきものだと考えます。

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考察しがいがあります。
結論として、人間関係のない世界においてこそ自身の哲学が発揮されると私は思います。
さて、問題は島の環境と自分自身がそこで生活していくのか、または島から脱出すべきなのかという事になると思います。
島の環境が豊かであればまずは生活のレベル上げに従事出来るだろうし、何も無ければ脱出という選択になるでしょう。
ここで大切な事は自身の思考が適切であるかどうかです。他者からの手助けや励ましもありません。
己が今まで培ってきた哲学という思考だけが自分を助ける事になります。
そして、思考だけでなく行動に移さなくてはなりません。
この時こそ哲学と自分自身が一体となる瞬間なのかもしれません。
現代の社会では完全なる孤立を実現するのは難しいと思います。孤立だと感じているのはその本人の考えのみで社会的には孤立はありえません。
そして、無人島の様な孤立した社会においてはルールも法律もモラルも自分自身が決める事であり、哲学無くしては自分を確立させる事は難しいでしょう。
まあ、確かにキャストアウェイの様な状態は例えの世界ですが一度は体験したいと思ってしまう自分がいます。

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ついつい、警察の口車に乗せられて逮捕。

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実際は鬼ヶ島に連れて行かれたので、この後、団子を餌に拉致されたと訴えたらしい。

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罰則として小学校の国語をやり直し。

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まず始めに質問者の指す障害者のレベルに関してですが、軽度重度全てを含んで考えて行きます。
自分が障害者でないという事は私にもはっきりとは言えないでしょう。ある意味障害を持っていない人間などいるのでしょうか。
はっきりと表面に出ている障害でさえ、肉体的のみの方や、精神的のみの方もいるし、両方持っている方もいる。
ここで言いたい事はあくまでも現在の人間社会においての基準としての障害であり、人間が障害と認定している事でしかない。
つまり、障害というモノを知らない動物にしてみれば、彼らから見てどちらも人間である事に代わりはない。
そして、この我々が使う障害者というモノはあくまでも現代までに科学、医学などが発達し、知を得て発見したものである。
そして、人間はそこに線を引き、健常者と障害者を分けた。
だがどうだろうか、人間社会において最も害悪な事をしているのは健常者の方が多いのではなかろうか。
そして、人間は歴史的にみても区別と差別を好む。
私はそれが人間の本質だとは言いたくはないが、科学、医学などの発展は人間の次の段階への一歩としてほしい。
近年、AIなどの進化により、こういった線引きの無い世界を作れる未来が来るのではないだろうか。それこそが人間の本当の意味での進化と言える。
私が言いたい事は生物には線引きは必要ではなく、自己の意識によって欲するのであれば生殖行動をとればいいし、そこに何かしか疑問が残るようであれば自分の遺伝子を残す必要はないだろう。
そもそも、自分の遺伝子と他人の遺伝子に違いなんてほぼないと私は考えているし、もし、違っていれば人間がチンパンジーになってしまうようなものだ。

シス
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夢の世界は眠っている時に自分だけが認識できる世界と言えるでしょう。
そしてまだまだ、科学的見地からみても夢ははっきりとは解明されていませんが非常に面白い現象です。
それでは対する現実の世界ですがこれは自己だけでなく他者とも共有している世界とも言えるでしょう。そして、私達は覚醒中であるという事です。
この二つの世界の違いを判断しているのは自分の意識、または脳だけです。
五感の中枢である脳が私達に感じさせている世界です。
我々はこれを現実と認識しているのだけれども、本当に存在しているかどうかは自分では確認できないのではないかと思います。
このリアルな世界と夢の世界の共通点は正に脳からの認識であるという事。脳使わずに認識できる人間がいない以上、どちらがリアルでどちらが夢かは実は判断できないのではないだろうか。
他者の存在があるというリアルの世界でさえ、その他者が存在しているかどうかはあくまでも自己の認識において成されるものであるし、夢を見たという概念も脳が私達に送っている電気信号の一つに過ぎない。
これは私達生物がたゆまない電子の流れによって存在しているように、私達が認識、想像する世界も
実は存在しているのではないだろうか。
この世はミクロの世界によってマクロな世界を成立させているが、ミクロの世界とマクロの世界とは全く違った世界や法則があるという。
この様に私達の現在の知識や能力では確認できない世界がまだ存在する気がする。
夢の世界というのはそういったレベルの世界ではなかろうか。

シス
回答数 48>>
質問者の「孤独でも〜」という表現から考察するに、孤独とはネガティブなワードとして捉えられているみたいですね。
私はそうは思いません。
こらはショーペンハウアーの影響も大きいのですが、孤独こそ幸福であると私は考えます。
この発言には多数のアンチテーゼが述べられると思いますが、これは事実です。
お金も、名誉も、全て他人があっての存在であり、それを多く得たとしても実際自分には何も身に付いていません。
私達が持っているものはこの肉体と自己認識だけであり、孤独な状態でなければ感じ得ないものです。
結局、愚者が求める幸福とは一時的な快楽であり、それはほとんどが他者と比較して初めて存在があるといったもの(金、名誉、国家、フォロワー数、などなど)であり、幻に過ぎないと私は考える。
誰とも比較せず、己の精神と肉体を鍛える事こそが誰とも共有する必要のない幸福であり、長い人生を生きていく上で必要なものだと思う。
つまりは健常な肉体を維持し、精神を鍛錬していけば人は充分に幸せであるし、わざわざ他人と物事を共有して不幸な賭けにでる必要はないでしょう。
ここで言う精神とは他者からの影響を少なくし、自己意識の影響を強くすべきだということである。瞑想とは正にこれである。

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奥の男「フンフン〜♪」

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回答数 39>>
まず、善には自己認識と他者認識が存在すると私は考えています。
そこで大切な事は両者は必ずしも一致しないという点です。
同じ善であるにもかかわらずです。
そして、人間はこうして長い間争い歴史を作ってきました。
そうなんです、歴史は教えてくれています。
自分で善く生きようとしても、十字架に貼り付けられたり、ギロチンを落とされたり、ガス室で虐殺されたりしてしまいます。
きっと、彼らは悪く生きようとはしてないはずです。
これはあまりにも悲劇としか言えないでしょう。
私は善とはその時代、その世界、その環境で生きる人の価値によって変化すると考えます。
つまり、絶対的な事ではなく、いつでも相対的な事であるといえます。
これは人間が常に相対的な存在だからだと思います。
しかし、絶対的なものは自分の中にのみ存在します。
私達は自己認識した善に対して絶対的な善として捉えるのか、または相対的な善として捉えるのか選択しなければならないでしょう。
自分の心は自分だけのものです。それに準ずるか反するかあなた次第ですが、この選択は自分の中にある最も中枢の部分であるが故にその人間の尊厳や規範が決まる瞬間とも言えるでしょう。
これはとても大切な選択になります。

シス
回答数 24>>
私はこれに対してはいくつかアンチテーゼを述べさせて頂きます。
歴史を見てもインフルエンサーはどの時代にも存在し、その影響をもって大衆心理を利用し成功と失敗を繰り返してきました。
人間は自己の決定だけでは人生を生きていくのは困難であり、こういったインフルエンサーの言葉や行動、思想を頼りに繁栄してきたと言えます。
インフルエンサーの影響は単に成功だけでなく、その失敗から学べる点もあり、我々大衆はそれを多いに利用してきました。
代表的なインフルエンサーはズバリ親であり、先祖であります。誰もがこのインフルエンサーの影響を受け生きています。
つまり、インフルエンサーを害悪と定義付けてしまうと人間は全ての行動模範を失う事になり、ギャンブル的な、または確率的な人生を歩まなければなりません。
実際、現代のインフルエンサーはテクノロジーの発達により、それを利用した模倣者達がほとんどですが、彼らを自分のインフルエンサーと認めるのは自分であり、その判断力が最も重要なのではないでしょうか。
真の害悪とはそのインフルエンサーを利用し、模倣しようとする自尊心の無い己の心であり、早く取り除かなければならないでしょう。

シス
回答数 26>>
生物において平和な状態という事は非常に稀な状態であると私は考える。
なぜなら、生物は争い、得た報酬によって生存する宿命にあるからである。
人間はもとりより、動物、昆虫、植物さえもこの生存競争という日々を毎日生きている。
我々人間が近年こうも平和という言葉を正義的に扱うのは食料が安定し、貨幣経済という世界の土台にのっているからである。
しかし、我々人間は本質的には何も変わってはおらず、動物や昆虫、植物と同じように基本的には常に争いを求められている。
ただ大きく後者と違うのは争いと争いの期間を大きく間延びさせることができたという点にある。
これは貨幣経済が構築した成果ともいえる。
その稀な期間を我々は平和と言っているだけに過ぎない。
なぜなら、世界のどこかでは必ずと言っていいほど戦争や紛争が継続され、平和という文字は存在しない。
では、それが絶対的悪かというとそう言う訳でもない。
争う者同士の言い分や理由があり、それが人間足らしめるものだと私は思う。
よって、私は「平和とは世界生物の異常な状態」と言わざるを得ない。

シス
回答数 29>>
そして、人間というものは時代が変われどもその性格は変わらず同じ事を繰り返しているという点を重視して考察します。
一般に自己犠牲とは自分の利を顧みず自分を犠牲にするという事ですが、果たしてそんな人間はいるのでしょうか?と私は思う事があります。
親は子を守る為ならどんな犠牲も受けると言いますがこれは自己犠牲とは言えないと考えます。そこには明らかに利が存在しますし、殉教者となった人物達もこの後に続く者達に残す影響を踏まえての利が存在します。
つまり、私が考えるに自己犠牲とは歴史を後年に語るものがそのものを美化する為の言葉であり、犠牲を負ったもの達への美化や賛辞に聞こえます。
果たして、実際犠牲にあった人達は本当にそんな事を考えていたのか。
人間は自己の生存を第一に考え、子孫を増やしていく生物です。利無くして人は行動を出来るとは考えにくい。
利を求めない人間はもはや死んでおり、生きる気性が欠けてしまっているとも言える。
自己犠牲という言葉はそんな残酷な言葉だと私は感じています。

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回答数 37>>
世の中には実用的でないモノが溢れているのも事実。それを踏まえて回答します。
哲学それに類似している宗教、思想、こういったモノは歴史を見ればわかりますが、これが無くては人間は社会、組織作りをできなかった事実があります。
では、実用的かというとそうでも無い側面も持ち合わせており、心の表側には見せる事が出来ない哲学もあります。
心の内面のみにしか存在出来ない哲学も存在しています。それは他とは共有する必要の無い哲学であり、他者の了解も賛美も、理解し合う必要が無いものです。
一般的に哲学が実用的に使われる場合はその時代の為政者の都合にあったものが選別されており、使われている人間はそれを正しいものだと思わされています。
一方、内面のみに存在する哲学はその人間のみにとっての哲学、他人と共有する必要は無いのです。それは時に他者からの批判、罵声を浴びる事にはなるのですが、それも哲学なのです。
私達人間は哲学無しには歴史を作る事が出来なかったとも言えます。
私は実用的な哲学というものは他者あっての学問であり、実用的ではない哲学とは心の内面にのみ存在する学問と考えています。

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愛とはその対象にたいして存在を認める欲望であり、それは生物に限らず無機質なもの、想像して実在がないもの、あらゆるものに通ずる。
つまり、人は意識していなくても愛を振りまき、愛を感じているのだと思う。
死が人に訪れたとしても愛は存在するだろうし、生まれていない子供さえも愛することができる。さらに、普段何気なく通っているアスファルトの道でさえ愛しているのではなかろうか。
唯一、愛さないというものはその存在自体を認めないからであろう。
これを考えると現代の人間はほぼ愛のある日常に存在出来ているといえる。
ただし、戦争中はどうだろうか?そこに愛はあるだろうか?

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