『唯一』って心惹かれるみたい。それは「他とは違う」という意味。大人になるということは「同じ」を学ぶこと。「違う」は刺激が強すぎる。「同じ」に出来ると落ち着く。幼い頃の宝物も他と同じにしてしまえば楽。だって、もっと他に気を回さないといけないから。全力で遊んで違いに一喜一憂して帰って来ても、ご飯があって寝る場所がある。ヤングケアラーやきょうだい児の人は宝物なんて持てなかったんじゃないかな。子供の時に大人のように動いているから。
『matcher』なのではないでしょうか。与える「giver」、奪う「taker」相手と自身の損益を重視する『matcher』「この人は与えてくれる」と優しく接する。「この人は奪ってくる」と冷たい言葉を投げる。生育歴に良いも悪いも様々あったのでしょう。自身で選び取る習慣が付いたのだと思います。幼い頃に幸せに過ごせた方なら恩返しのように与えられ、家族に奪われ続けた人は奪ったり相手から与えられるのを待つ印象にあります。
自分の思い通りに出来ている時が一番幸せ。自分だけ幸せでいたいなら『他人の忠告を聞かないこと』相手と幸せにいたいなら『我を薄めること』それは相手や自然や街並みに溶け込むこと。街は規則正しく機能し、自然は滞りなく流れ、相手は思いのままに振る舞う。それらを自分のことのように感じた時、思い通りに出来ている感覚に近い体験をする。
『我思う故に我あり』意識は観測者である。だいたい人は2歳くらいで「これは何?」と人差し指で物を差して質問し出す。「物心がつく」と言われる。それまでは本能に従い生存を目指す。また睡眠の状態が生物としてニュートラルな状態だとされる。覚醒の状態がイレギュラーだと分かってきた。覚醒を獲得し、外界を観測でき始め、自身と他者を区別し始め我を手にした。例えば、植物に自身と他者の区別はなく観測できない世界では生も死もない。ただ形状が変わっていくのみで、それすら自身はおろか他の植物も観測できない。鏡で自身を理解できる生物は我があるのだろう。『思う』というのは特別な力のようだ。
『他人のためにしか使えない通貨』って、自分と他人とを切り離して考えよって意味になりそうで悩みました。社会が複雑になると目に見える利益以外、理解するのが難しくなる印象ですね。会社の中も何段階にもシステム化されブラックボックス化されて、目に見える作業と結果だけで貢献度が分かりづらいですし。たぶん、どう使っても自分の利益になっちゃうんじゃないかな。心底嫌いな人のために使っても、そのお金のお陰で大人しくなってくれたら自分の利益だし。何にも感謝出来ない人間にならないと使えないお金ってイメージかな。
努力できる人物は『好き』を持ち続けられた。努力が辛い人物は『好き』を捨てさせられた。本来、努力は辛くない。成功を信じて進む道を想像した時にどんな気持ちになるだろう。先が分からなくてもワクワクするんじゃないかな。「その先に成功があるよ」その成功は自分が望む成功じゃない。最初から決められ、何かを諦めて立たされた道なんだよ。『好き』を応援してよ。
『自分を知り、人のために動ける』人のために動けても、自分を知らなければ誰かの世話になり続ける。子供らしい幼少期を送れず、親のサポートを強制されて来た人物はそうなりがち。子供らしく育ち、社会との繋がりを徐々に学んだ人物は出来るみたい。自分をケアしながら相手への気遣いも可能な限り行える。自分を削って必要以上に相手に尽くさざるを得ない人物は、満たされない子供の部分が燻り続ける。思い切って、一回子供の自分を出せた経験がある人は大人に近づいているかな。
『禁止事項の答え合わせ』納得いかない禁止事項で縛られている。やっていいのは勉強だけ、仕事だけ。『誰か』に作られた禁止事項を大切に守っている。それは他人が作った人生を歩んでいるのと変わらない。どうしたいかは分からない。だが、明確に「嫌だ!」と感じる。その禁止事項をどんどん破っていく。また守るかどうかは、それから決めればいい。自分の枠を広げて、自分でつくる。
それは責任の所在。科学を信じる人物も、非科学を信じる人物も責任を自分の外に置きたい。共通しているのは責任感の強さ。幼い頃から言動に責任を問われて来たから。助けがない環境なら、科学的な思考に。誰かが助けてくれた環境なら、非科学的な思考に。でも、根っ子は一緒。「この世界は初めてなんだ」幼い子に責任を求めるのはどうかと思う。
それは「自分を否定しては生きていけない」からだと思います。子供の時ほど感覚は鋭いんですね。努力と言ってる大半が苦しそうなんです。違和感に気付いた人から努力に躊躇いを感じるんですよね。「やりたくない。自分には合わない」そう思っても様々な理由でせざるを得ない。「本当はあれがしたかった」なんて想いを持ちながら、ずっと生きられるほど人は強くないみたいです。「辛かった人生には意味がある!」「このまま続ければきっと!」そうしていないと自分で自分の人生を否定しちゃいそうなんです。頑張れなくなっちゃうんです。そんな先輩方がたくさんいる世の中ですから、研究で明らかになった事実をもとに自分に合った生き方をして、肯定できる人生を歩みたいですね。
すべては「納得」にある。科学と哲学はアプローチの種類。数学も突き詰めれば、式が美しいかどうかの議論になると聞いた。明確な基準が納得に繋がるのか、体験を通じた感覚が納得に繋がるのか。両者が合わさって皆んなを納得させられたら平和になるかもね。
僕は『良い人バイアス』って呼んでる。子供って可愛いんだよ。自分がどんなに良い行いをしたか競い合う。よしよししてあげたくなる。「ありがとう」って。たぶん当人同士は必死だよね。勝った方が認められると学習してるから。僕は二人とも抱きしめちゃう。
善い行いって『補う行い』かな。挨拶して無視されても自身で気持ちを補えれば求めなくて済む。持ち物を無くしても平穏で居られ、淡々と時間をかけて探し出せるなら求めなくて済む。行う方がその『補って欲しい気持ち』を知る人物であれば、見返りを期待せずにできるだろう。「『補う』って何?一度もねぇし、そんな気持ちになって気持ち悪いの自分じゃん?サッサと無視した方がいいに決まってる。で?見返りあんの?」そう思うくらい放置されて通り過ぎた人は見返りがないと辛いよね。
それは霞むほど小さな光。ヒトは2択で出来ている。片方に理想を持つと必ずもう片方に絶望が乗っかる。片方に耐えられる最悪を持っておくともう片方にまだマシな現実が乗る。そのまだマシな現実が小さな光。それを少しずつ大きくしていく。
みうらじゅんさんが最後の講義で言っていた。「崖の先に咲く花を取ってくる感じ」一つの道を行き過ぎると極端な考えになる。それは崖から落ちたようなもの。孤独は自分を磨いてくれる。ただ「みんなで居るのもいいね」そう思える感覚を残しておく。
養老孟司さんあいさつが出来ず、変人扱いされた養老さん。5歳の時にお父さんが亡くなる時に「さよならを言いなさい」と母親に言われて言えなかった養老さん。「さよなら」を含む挨拶を言うとお父さんが消えてしまうような感じがしていたんだろうと語っていた。40歳を過ぎてそれらに気づき、「その時、父親は死んだ」と感じたらしい。親近感がある。
『何に』感動したか。見た目に感動したなら、見た目の為に頑張れる。愛情深さに感動したなら、以下略持ってる金額に感動したなら、以下略性格の良さに感動したなら、以下略「そうそう!コレコレ!」と思える感動に定期的に触れられると人は頑張れる。推し活みたいな感じ。
辛い。辛いから、力になろうと知恵を振り絞る。大体は甘えられるように整えておく。自分のためは完全に捨てて、相手のために。一人は相手のお母さんが亡くなった後。もう一人は亡くなるお母さんとの接し方で相談された時。
手相で小指下から横に伸びる感情線。これが中指に向かって上に伸びると感情的だと聞いた。でも、他の手相の本で理性的ともあった。僕は理性的を推す。理性的に頑張っているのに、過度に甘えてくる相手に対して最終手段に出る感じ。感情線が真横の人は穏やかだけど、周りに合わせず好き嫌いを平気で言って、理性的な人にお世話されてるのに気付かず感謝を知らないもん。家庭の教えが無くなった現代ではってことだけど。頑張ってる人に負担かかり過ぎな現代だよ。理性的な人が感情的だって誤解されちゃう。
心理テストで「夜道を歩いていて後ろに気配を感じました。そこに立っていた人物は誰でしょう?」にお爺ちゃんって答えた。答えた人の精神年齢を表すらしい。お爺ちゃんだから、僕より上としか付き合った事がないんだって理解した。
暇つぶしと世間体になってるのかも。食品を廃棄するほど作ってるのに、評価されない人間には与えず捨てるだって。評価する側が曖昧なのに。豊かになったのは皆を等しく救うためじゃないらしい。豊かさをチラつかせて、苦しみに耐えさせるためらしい。その可笑しさに皆んな気づき始めた。だからヤル気出ないし、周りが一斉に辞めるまで様子伺って現状を続けている。