人は生まれてきてから沢山の贈り物がある。それは、最初の贈り物は命。そして次に、感情。体の発達。思考。自分への贈り物は思いつく限りは四つ。あとは、産みの親や周りの人からの愛情。礼儀、マナー、勉学、人としての権利や自由。あとから貰えるものも沢山ある。この贈り物の中にとある思考や感情がそれを否定して(面倒)という思考が浮かび上がる。人の当たり前はそれぞれ違う。違うから時にすれ違って怒ったり怒られたりしてしまう。これは人が成長できる近道なのだが、違った叱り方をする人も世の中には居る。自分の意見を持って伝えるのも大事なこと。他人の目を気にして生きるのも生きずらい。外からの刺激で病んでしまった時、助けが欲しいけど、思考が邪魔をする。実際行動に移しても、否定されてしまう。気づかれるまでは心配してくれない。または、倒れてから謝られる。今更謝られても過去の自分が惨めになるだけ。常に人からは他の人と比べられて苦しむ人が居続けてしまう。でも、病んでいる人が助けを求めている行動をしても、精神が安定している他人には病みアピだとか影でコソコソ言われてるかもしれない。本当に心配してくれる人は数少ないかもしれない。変わってしまったとか、変わった相手をそのまま受け入れるとか、外見だけじゃ健常者には分かりずらいもの。病んでる人と健常者とのこの微妙な間がストレスを溜め合う原因。人それぞれ贈り物をストレスによって汚されているような、そんな気持ちだ。ただ、癒しがあるから贈り物を磨いてこの世と向き合っていくことができる唯一の頼り。ここまで長い文章を読んでくださった貴方は、人の話を真剣に聞ける心優しい方達です。あなた方の時間を僕の投稿に使っていただけるのも、また僕の癒しとなります。生きるエネルギーをくれてありがとう
心身が疲れた状態で休むと言ったら人からはサボりって言われるのなんでだろうな、どうして本人にしか分からない疲れやストレスを見た目で判断されるのか、分かりづらかったなら仕方ないよ、だって本人が隠してるからね。でも、嫌な思考が頭をよぎって行動に出にくい、休みずらいのは逆にストレスだよね、疲れを人と比べられるのが嫌だな、
優しさという感情を他人に利用され続けた過去に後悔しても溢れ出てくる過去への思考や憎悪はすべで過去からの刺激が思いこみすぎへと変わっていく、傷ついているのを誰かに気づいて欲しかったって言う欲、助けてって心では叫んでるけどそれは声として相手の耳に伝わることは無い。有り難さよりも憎いっていう感情の方が強い、有り難さはここまで物事に対して冷静に考えられる事、当たり前が当たり前じゃないと気づかせてくれたことが今役に立ってる。でも過去の利用されて傷ついた心を思い出せば有難みなんて見向きもできない、この暗い過去が原因で時々目の前が暗く感じる。今健康で幸せな生活を送れている。これは当たり前じゃないこと、支えてくれる人がいるから、僕のために僕のことを考え行動して叱る時は叱ってくれて、ためになる叱りをしてくれる、恵まれてるけどひとつの感情がそれを邪魔する、過去への執着が僕の心を満たさない。毎年毎年どこかで僕は感謝を告げていると思う、今年もあと少し、17の歳ももう終わりが近い、日を重ねていけば過去の自分を忘れられるかな。