気をゆるめるト、15分おきに熱を出すハイハイ、ソウデスネ ワカッテマスッテヴァ ア、チョトマチガエチャイマシタ ワカリマシタッテバ、アレ? ワタクシハ サーバー デスヨ サーバー デスッタラ サーバーデス ア ヨイショ
眺めているだけで吐き気がするような手にしたものたちや記憶や記録を、ずっと抱えて持っていなきゃいけないものだと思って今まで生きていたが、もしかしてそういうようなトラウマの引き金になるような、吐き気のするようなものって死ぬまで抱え込んで、選択肢として残しておくみたいな選択を、してもよいみたいな選択肢を自ら選択したとしてもまたそういったものに苛まれ続けるというのなら、また自身という存在がないものとして扱う・扱われる・扱うというような、もののような初めから人権のない人間に対して今更救うみたいな処置的な態度を取られても俄かに信じられる道理がないし、普通に他人は私を救えない。私自身すら私自身を救済できるほど甘くない。……ということはわざわざ言葉にしなくても自明なのだが、(チッ)吐き気のするような記憶や記録や習慣などといったものは果たして捨てていいのか? 仮に捨てていいとして、私は果たして本当に「捨てた・捨てた事にするような気持ち」また、事実として捨てることと同時に、私自身にそれは捨てたことだと自分を信じ込ませることができるのか?ここで私自身が捨てたとして、私ではない他の誰かが拾うに過ぎないのであれば、一切合切を「ないもの」にするわけではなく、在るということを引き受けながら少なくともあと50年間ほど、また同時に一日のうちに幾度となく訪れる、時間のどの最中にいるかも自分自身で見失うような倒錯、あるいは時間の中に存在していないような感覚、そういった、常識的に考え得る人間では認識できないあきらかに異常な情報量の大系処理を自分自身で行いながら、感情を動力源にして意志伝達に努めれば良いのか? きっと死ぬまで結局筆を取らざるを得ないのだろう。何ひとつほしいものはないが、「必要」というそれには一体、どこからどこまでが含まれており、私に必要なものはないのだとしたら、私自身もまた存在しているということも「過剰」であるように私は直感的に捉えられる。本当に必要なものはないし、ほしいものもないし生命力が強すぎる私のような(人間としての)存在を、普通に私自身が生かして置けない。ストレスがかかるたびに更に逞しくなっていくのも、自分で許せない。何度死のうとしても結局助かり、一方で自分自身が搾取・悪意に晒されていると思うと一瞬にして動力に変換してしまう私が許せない。しかし、どうしたって私が私という人間である以上、何度精神を、自分自身を自罰的に破壊しようと試みても、保護策を過剰だとしか認められないことや、自由を奪われ続けることに服従しなければならないと思うと、まったく身の毛がよだつね。それらをさらにエネルギーにして文筆に精を出すみたいな、みたいなこともまた、非常に、許し難い。本当にあり得ない。更に大きな愛情で包んでしまってそういった私自身を愛そうとする穏やかさみたいなものが与えられているのもまた許せない。さっさと適当に死にたい。
女の顔をしている方のアカウント,入れないことは無きにしも非ズンバだが、開かれたインター・ネット・平洋(ヘイオウ)に「アクセス」できなくなってしまった あのンディネという女は海の底で眠っているらしい.お友達よろぴこOKねがいます.