写真の話をしてしまうと、その言葉を自身で反芻して噛み砕いて、大事と思える事の純度を高めて考えて、考えて。考えた先にもイメージが沸々と湧いて興奮状態になり、何もできていないのに刻々と時間が過ぎてゆく。多分それは僕に必須な時間であり、ある種の幸福なのかもしれないが、‘一流は仕事をプライベートに持ち込まないメリハリを持っている’というようなコントロールができない現実は苦痛でもある。そのコントロールがいつの日かできるようになるのか?はたまた、いつの日か写真一本で生活できるようになって、考えることを仕事の一部だとして受け入れられる時間の余裕が出てくるのか?そう成れた頃にもまだ尚考え尽くせる技量が、はたして僕にはあるのか?そんな杞憂に行き着き、今日を大事に生きるしかないと言い聞かせて布団に潜る努力に至る
✖️✖️✖️「あれは何の印なの?」と知らない街に飛びこんだ僕は、アムステルダムの紋章と聞いて「なんてセンスのいい国なんだ!」と感激した。それは後に知るKarel Appelの作品やドデカいKAWS像を見るようなインパクトだった。単にシンプルで洗練されているというべきか大胆というか、敢えて悪く言えば稚拙な旗は、僕の心底の童心みたいな物を突いてくるものがあった。ただ、その感動のカタチを、当たり前に見てきた現地人への言葉にする術はなく秘めたものとなった。
未だ見ぬこの世の美しい景色をあげたとして。深さの推し量れぬ愛しい貴方をあげたとして。甘美な喜びを記す苺のケーキをあげたとして。読み手にはきっと無価値な写真であろうか。景色の隣には凄惨を貴方の隣には涙の決別をケーキの隣には啜った泥水をカタルシスなんて必要無いが、一枚に様々な感情が包含できれば嬉しくなり、物悲しくなり、嬉しいんです。
言葉って不思議ですよね。強く想えば想うほど次々と現れてくるのにさらに想えば想うほど口にする事が不適切に感じて無口になってしまう。それが何かを隠していたり何かを含ませているような不信感を与えてしまう一方、伝えたい事を鋭く明瞭にすればするほど受け入れられる間口は狭まってしまい補足の言葉がどんどん必要になってくる。結局、言葉なんてものは五感や第六感に在らず単なる手段でしかないので、歌や詩といった抽象性を与えた方が美しく感じるし、別のあるべき表現や行動に尽力すべきだと、言葉の責任に対して逃げ隠れしている
武士道とは死ぬこととみつけたり。なんて言うとりますけども。武士でなくとも、生きるということは超絶ゆっくり死に向かう事と同じな訳で。そんなイメージで歩くだけで多少の事には動揺せず日々やるべき事が見えてくる。気がする。僕の声も目が覚めた今朝に一つ老いたわけだが、心の眼は磨き続けられたらええなぁ…なんて。そのうち全てを捨て去って火葬される頃には超絶純粋な炭素となり、ダイヤモンドのように炭一つなく風となり、いろんな旅へ行けたらええなぁ…なんて。…は?なにゆうとんねん。