
pepper⭐️ゲル
4歳の子供と妻と3人家族。
職場の女性は、みんな彼女。
フォロー大歓迎です。
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pepper⭐️ゲル
義理母「建て替えちゃえば❓」
僕「いやぁ〜立て替えるのは頭にないですねぇ〜」
CEO「一緒に住む❓」
義理母「良いの❓」
僕「僕は構わないですけどもw」
じゃあそのように動いた場合どうなるか考えてみましょうか?
となりまして、あれよあれよと二世帯住宅の話が進み、銀行の仮審査も通りまして。
今年の5月ですね。
いわくつきの元嫁との家をぶっ壊してやりましたw
壊した時は、元嫁との微かな思い出と、EちゃんやKちゃんを連れ込んでイチャコラしたな。とか
色々な思い出がありましたが、かなり清々した部分は大きかったです。
更地になって、盛大に地鎮祭を行なって。
土地をもう一度清めてもらいました。
そして上棟式を行い、来年の2月には完成予定です。
簡単な間取りは、1階2階は僕たち夫婦。
3階は、両親になります。
3階を両親❓と思いますが、エレベーターをつけたのでご安心を。
元嫁との家の残債ローンや、ぶっ壊し費用など色々計算して8000万です。
両親の実家も売るので最終的には5000万くらいになってくれると良いな😌
だから、CEOには最高のプレゼントになったのでは無いでしょうか❓
以上で私の元嫁から今に至るまでを話させていただきました。
お付き合いありがとうございました。

pepper⭐️ゲル
当時は、コロナウィルスが蔓延して職場の病院でもコロナ患者と接触したらCEO妻に連絡した。
どういう意味かというとまだ乳飲み子だった息子にうつしてはいけないので、コロナ患者を治療した日は我が家のルールでビジネスホテルに泊まる決まりになっていた。
だから駐車場に帰宅すると玄関の外に下着やら着替えが入った袋を置いてもらって、窓越しにCEOと息子にバイバイしてホテルに行く生活をしていた。
翌年は、保育園が始まり保育園の洗礼を受けて何度も休んだがそれ以前にコロナの集団感染で閉園することもよくあった。
非常事態宣言中も、会社は休みだろうが病院は休みになるわけにはいかなかった。
本当に大変だったな😅
まぁ〜そんなこんなで我が家はCEOの決断力と徹底した感染対策で誰一人コロナウィルスにかからずに今日まで来たのはCEOの功績だと思っている。
さて、CEOは育休中に目覚めた趣味がありまして。
編み物でございます。
CEOは、OPE看護師でございまして針と糸は目を瞑っても扱えるくらい長けており、似たような編み物にどっぷりハマったのでございます。
そして、物欲の塊のような看護師さんは、それはそれは大量に毛糸をご購入されました。
6畳の部屋には収まりません。
さてと、困ったものだ。
この家は、元嫁と建てた家。
CEOは、沢山稼いできているのに毛糸を置く場所もない。
よし‼️増築しよう‼️
CEOへのプレゼントだ☺️
そう思い、家を建てた建築会社に☎️
全然相手にされませんでした。
ちょっと現実的ではないことであしらわれてしまったんだと思います。

pepper⭐️ゲル
そして、親父は食糧難民になっていた。
料理をしたことがない親父。
でも、お母さんが居る時のクオリティーを求める親父。
そして便秘だと。
お母さんが元気な時はモリモリ💩が出てたのに、今は毎日でない。
そりゃ食べて無いからね。と言っても理解ができない。
自分で胃腸科に受診して、下剤と浣腸をもらってきていた。
毎晩、下剤を3包飲み浣腸をするのだと。
医療人じゃ無くても、ヤバさを感じるかもしれない。
浣腸は、痔や直腸がんになりやすいよ?
とか言っても理解が出来ない。
もう今の考えることは💩だけだった。
今思えば、親父は定年退職をしてすぐお母さんの癌が発覚し。看病を経て今に至っていた。
親父は友達を作らない人で趣味はお母さんみたいな人。
仕事も引退して、さぁお母さんと遊ぼうと思っていた矢先だったから完全に目標を失っている感じだった。
唯一の趣味は、毎日1万歩歩く散歩。
でもこれも、趣味というか仕事だった。
義務感が強く、散歩して気になるカフェに入るって感じじゃ無く。
一度心配だから同行したが、
朝10時に出て、この階段を登り。まっすぐ行ってエスカレーターに乗って。
ここらへんまで来ると3000歩で。
みたいな。。。
途中にコメダ珈琲があったので寄りたいと言うと自分のペースを乱されたのかとても嫌な顔をされ。
コメダも急いで済ませて、帰宅。
30分ロスしたとなり。
これは散歩じゃ無く仕事だと確信と不安に駆られた。
そんな日々が続いた時、親父から電話が来た。
散歩中、眼前暗黒感と不整脈が出て失神して救急車で運ばれたと。
精密検査の結果は、問題なし。
ただ僕の見解は脱水だった。
親父は散歩中一滴も水を飲まずにひたすらに歩き、夜は下剤を飲み。
水分を吸収する術が無かった。
そして運ばれた季節は真夏だった。
それから毎晩のように電話がかかるようになる。
今日は何歩歩いたとか。今日の不整脈は出なかったとか。
1週間も電話が来るとこっちもめんどくさくなったと言うか。まだ息子は、2歳で寝かしつけの時間と被りちょっと迷惑だった。
不整脈の心配を取り除こうと一緒にApple Watchを買いに行き、不整脈が出た時に心電図を僕に送るように設定してあげた。
今でも毎朝・晩送られてきている。
そして親父と一緒にメンタルクリニックに行った。
診断結果は、不安症だった。
処方された漢方を飲み続けると少し安定したのか毎晩の電話は無くなり日報のLINEに変化した。
そんなこんなで今年の夏の話になる。
今年の夏は暑かった。
暑かったので、親父は散歩が危険と自己判断し朝の10時に30度を超えたら散歩を中止する基準を設けた。
そしたら、7月8月と散歩に行けなくなった。
8月の20日辺りに遊びに行った。
親父と話しても、会話にならないほど言葉が出てこなくなっていた。
目を見開いても言葉が出ない。
同じ話をする。
実は親父は俺に心配かけたく無かったみたいでメンタルクリニックを自己中断していることを隠していた。
その日に電話をしたら15分なら時間が取れると言われ急いでタクシーに乗った。
なぜか親父は「嫌だ嫌だ」と泣いていた。
親父の涙は、僕の人生で何度目だろうか。
診断結果は、軽度の鬱病だった。
引きこもりと💩のことばかり考えているのが原因だった。
そして鬱病の薬を飲んだ。
すると、頭の霧が晴れた‼️とか言い絶好調になった。
ちょっとハイテンションで不安になる時もあるがボーッと言葉が出ない時よりはだいぶマシで連れて行って良かった。
そして今は、親父の一人暮らしも限界に近いと思い僕の家の近くの賃貸に引っ越してくる計画を立てている。
僕の家からチャリで10分と妹の家のから電車で15分の駅前の賃貸。
もうお父さんは大丈夫‼️
と薬ガンギマリで話してくるが、薬が切れる前に連れてこようと思う。
それが、お母さんが亡くなってからの親父の変化です。
世の男たちよ。
趣味は見つけておけ。
ただ老人になっても続けられて何なら杖を付いてでもできる趣味。
釣りでもダーツでもカラオケでもいい。
バイクや車だっていい。
外に出る趣味は、とても大切だ。
それは親父から教えてもらった教訓である。
次回は我が家のことをまとめて終わろうと思います。

pepper⭐️ゲル
確かそれが、2021年の5月ごろだったと思う。
ちなみに、もう胃がんが発覚してから一緒にお宮参りもして良い思い出になった。
手術当日は、僕も医療従事者ということで面会は不可だったためお父さん一人でお願いした。
朝に手術開始して夕方には病棟に行く予定だった。
そしてお昼にお父さんから電話があった。
急いで来てくれ。
もうお父さんはわからない。
テンパった親父からの電話。
急いで病院に着くと、お母さんが手術室から出てくるところだった。
麻酔が覚めてベットに横たわるお母さん。
「あらっ、来てくれたの?嬉しいわ☺️」
そして、お母さんと別れ手術の説明を。
胃がんが思ったより癒着し、膵臓まで転移していました。
なので、開けて確認して閉めてきました。
これからは、抗がん剤治療に移ります。
お父さんと僕で説明を受けた。
お母さんにも翌日伝えて抗がん剤治療がスタートした。
日に日に辛い辛いと痩せ細るお母さん。
髪も抜け、白髪になったお母さん。
そして、一緒になって痩せ細っていく親父。
親父には、食べないとお父さんまで倒れるよ。と言ってもお母さんの前でご飯は食べられないだろ。と。。。
そして、お母さんの意向で抗がん剤治療をやめました。
お母さんのしたいことや会いたい人を聞きできる限りのことはしました。
箱根に旅行に行く。
孫に会う。
そして、お母さんの母に会う。
僕のおばあちゃんですね。
あれが一番辛かった。
子供を自分も持って子供に先逝かれる辛さは壮絶だった。
おばあちゃんは、私が丈夫に産まなかったせいだと。
お母さんは、親不孝でごめんなさいと。
壮絶でした。
そして、2022年5月6日自宅で旅立ちました。

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👨🏻あー、最近お母さんが調子悪くてさ。行けるかわからないけどその日の体調次第でいいかな❓
👦🏻えっ❓調子悪いって❓
👨🏻んー全然ご飯食べても吐いちゃうのよ。
👦🏻いつから❓
👨🏻1ヶ月前くらいかなぁー❓ゼリーとか柔らかいものなら食べれてる感じだね〜
👦🏻えっ❓なんで言ってくれなかったの❓
👨🏻孫も生まれて病院もコロナで大変だと思って心配かけたく無かったからさ。
👦🏻いやぁ〜一応医療人だから症状が出た時に言って欲しかったなぁ〜(笑)今度一緒に病院に行こう。
👨🏻お前も着いてくれたら心強いな。ちょっとお父さんじゃどうしようもできなくて困っていたんだよ。じゃあ予定を立てよう。
後日一緒に検診に行き
母は、ステージ4の末期癌(胃)でした。

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今嫁のことを話す。
年は1つ下で、可愛らしい女の子だが
弁護士になるか看護師になるかで悩み看護師の道へ
慶應大学も受かったが、通うのがだるいという事で地方の大学へ行く
ちょっとずれてるが、かなりの秀才。
お金にはルーズで、さすが看護師って感じ。
夜勤明けのデパートは感覚が麻痺をするみたい。
趣味が理詰めで。
一度口喧嘩で泣かされたことがある強くてたくましい今嫁である。
家では別名CEOと呼ばれ、私は別名総務課と呼ばれている。
企画や運営は総務課の私の役だが、決定権はCEOの今嫁にある。
今嫁と呼ぶのは、元嫁と比較して申し訳ないので今後はCEO妻と呼ばせてもらう。
そんなCEO妻である。
職場は一緒だが職種は違い、CEO妻の指示のもと働いてる部分はある。

pepper⭐️ゲル
2018年元嫁と離婚して職場にもお伝えした。
職場のみんなは驚いたが、僕の幸せを祝福してくれた。
家族も「良かった。良かった。」と祝福されちょっと洗脳されていたのかと思うほどだった。
よし!これからはバツイチ家持ち!
独身を謳歌しよう!!と元嫁からの慰謝料200万円を持ち、ジムニーを買いに行った。
2018年は、新型ジムニーが発売して間もなくほとんど発売日に注文した。
半年ほど納期がかかると言われバイク生活だった。
そんな中、今嫁の登場である。
元嫁と偽装結婚している中、お互い惹かれあっていた今嫁。
同じ職場なので情報も早く、今嫁の車で色々とご飯たら買い物やら行くことが多くなり自然と付き合うことになった。
まずは、お付き合いして初めてのディナーは数年前にお別れ会をした恵比寿のディナーだった。
それから程なくして、ダイヤモンドだけを買い、ダイヤモンドプロポーズをした。
ダイヤモンドは、30万円ほど。
今嫁は、とても喜んでいたな。
そのダイヤモンドを持って、婚約指輪の台座を決めて2個目の結婚指輪を買った。
なんだか総額120万ほどして、ダイヤモンドの値段は今嫁は知らないのでダイヤモンドプロポーズはいいと思うが値段は覚悟したほうが良い。
1年お付き合いして、両家に挨拶も行き結婚のお許しを得た。
今嫁の両親には、バツイチというレッテルはあったが家を持っているという付加価値で社会的に信用があるということで特にお義母さんに気に入られた。
結婚式場も、職場から逃げるように沖縄にして30人くらいの小規模で行いフルオプションでも400万くらいだったので予約した。
2019年夏頃、両家顔合わせになるが、
うちの親からの要望で
「2回目は、ちゃんと結納してしっかり誓いなさい」
とのこと。
横浜のホテルで、結納をした。
今思えばやって良かったと思っている。
そんなこんなで、2019年12月
沖縄で結婚式を行った。
ちなみに結婚式は初めてだったのでとっても楽しく、神の前で誓うことの大切さを学んだ。
当日は、めずらしく雨でスーパー雨男の力を発揮させていただいた。
そして、2019年の幕を閉じる。
2020年のアレが迫っていることはその時まだ知らない。

pepper⭐️ゲル
元嫁が日中来てたんだ。
手紙を探したが、無かった。
離婚届は、理由が結局わからないため書けずにいた。
綺麗に封筒に納められている現金を触ると離婚を了解しましたという意味になりそうで触れなかった。
そのタイミングで元嫁から電話が来た。
📞にでた。
元嫁の第一声が「生きてる?」だった。
生きてるわ。
それから離婚理由を聞いた。
・稼ぎが少ないところ
・家事をしない
だけだった。
誰かに相談したのか?の問いには。
Twitterの友達
Twitterの友達ってさぁー会ったこともないんだよね?…もういいや。
手取りで30万はもらっている方だと思ったがお嬢様には桁が足りなかったのかもしれない。
でも、よくよく考えると多分だが好きな人が出来たんだと思う。
好きな人が居たからあんなに強くいられたんだろうなと思う。
それから離婚届を書いた。
知ってた?離婚するにも証人が2人必要でお母さんとお姉さんの名前が書いてあったよ。
翌日封筒を買って送ろうと食卓に置き200万円は金庫にしまった。
ってかこの家のローンは?って感じだったが、私あんまり住んでないし笑
っていう解答で、金金言っても見苦しいと思っていい勉強だった事にした。
翌日封筒を買って帰宅すると、ポストに鍵が入っていた。
元嫁の荷物はもぬけの殻だった。
僕が出勤中に引っ越したらしい。
離婚届もなくなり、それっきり一切連絡が取れなくなった。
そこから7年が経過するがおよそ今も連絡が取れないのであろう。
それがちょっとレアキャラな元嫁でした。
お付き合いありがとうございました。
続編としてとして、現在までの波瀾万丈もお伝えできればと思うのでまた時間がある時に。。。

pepper⭐️ゲル
メールの内容は、気づいたら段ボールを送れ。
離婚届は、こっちで準備する。
みたいな事務的な内容で
ごめんね。
ありがとう。
考えなおなさい?
とか感情的な話しは一切無かった。
職場に出勤するとそりゃぁみんな「学会お疲れ様‼︎」って祝ってくれて、昨日振られましたなんか言える訳もなく元気で明るい自分を演出しなければならず、辛かった。
その日は、なんとなく一軒家に帰りたくなくて実家に帰った。
両親に事を話すと大喜び笑
それが唯一の救いだったな笑
「あの疫病神‼️」ってお母さんは叫び祝杯をあげていた。
あの日のお母さんのビーフストロガノフの味は今でも忘れられない。
実家から出勤して、一軒家に帰宅した。
少し元気が出てきたので段ボールを送り家事は待ってくれないので洗濯物などをした。
その間も一切元嫁とは連絡しなかった。
まだ羽田から3日しか経っていなく、ちょっと現実逃避と少し引き伸ばせば元嫁も考えが変わるんじゃないか?とも思ってた。
でも現実は、薄情よ。

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本当に成田離婚。羽田離婚ってあるんだなぁ〜と思いビールも飲む気になれずボーッと外を見ていた。
これは余談だが僕はいつもJALを使っているので第1ターミナルなのだがその日はは病院が支給してくれた飛行機だったため第2ターミナルのANAだった。
なので、僕はその日以来第2ターミナルに足を踏み入れていない。
もう第2ターミナルの展望デッキに行った日にはあの日がフラッシュバックしてきそうで恐ろしい。穴は好きなのにANAは行けなくなりました。
それでも翌日は仕事なので帰らなきゃならず。
高速バスの窓の外をボーッと眺めて泣きました。
なんか止まらない涙ってあるんですね。
なんかただただ、出る涙。
感情もない涙は初めてでした。
晩御飯なんて食べる気もなれず、また誰もいない一軒家に帰りつきました。
玄関を開けてリビングに行くとリビングの真ん中に段ボールが3つ。
僕の予想は、きっととりあえずの荷造りしたんだな。と、でも触りたくもない。
元嫁に連絡も取りたくもない。
何もかもが嫌になって、一人で大泣きしました。
何がいけなかったのか?
俺は、今までどんだけ待ったと思っているんだ。
愛しさと切なさと心強さは全くなく。
悲しさと虚しさと心の弱さしか無かった。
これからどうすれば良いのか?
わからなかった。
そして、新築で建てた家とともに僕ももう5年経過していた。
元嫁から連絡がきても今日は出たくなかった。
メールが来てたが読みなくもなかった。
その日は、寝たのかもわからず積み上げられた段ボールを見ながらソファで横になった。

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福岡から帰る飛行機内で
・この2ヶ月家のこと元嫁に任せっきりで申し訳無かったな。
・帰ったら無事に成功した事とありがとうを言わないとな
・今日はパーっと良い肉でも食べに行きたいな
など思って羽田空港に着いた。
元嫁に連絡するとなんと‼︎羽田空港にお迎えに来てくれたみたい。
急いで手荷物を取りトレンディードラマのように颯爽と出口で待つ元嫁を探した。
すると少し奥の方に誰かと電話している元嫁が居た。
急いで駆け寄ると電話はやめてくれずに片手だけちょっと上げて電話していた。
やっぱりトレンディードラマのようには普通いかないものなんだな。
この後の会話は、今でも鮮明に覚えている。
元嫁「📞ごめん、お疲れ様」
僕「お迎えに来てくれるなんてびっくりした‼️学会、学会と色々言い訳して全て家事を丸投げしてごめんね。明日からは、改心します。いやぁ〜でも終わって良かった‼️今日はパーっと良い肉でも食べにいかない❓」
元嫁「んー、私話があるんだよね。食べ終わってからにする?」
僕「えっ、話って大事な話?(まさか❤️👶🏻が出来たのか❓)」
元嫁「大事な話し。」
僕「えっ、もう今すぐ教えてよ❤️お酒も飲めない感じ❓」
元嫁「ここ(羽田空港)で良いの❓ご飯食べた後にしない❓」
僕「早く聞かせてもらって、ご飯に行こう‼️」
元嫁「・・・・離婚してください。」
僕 (΄◉◞౪◟◉`)
元嫁「聞いてる?離婚してください。」
僕「なんで?」
元嫁「今ここで言いたくないし顔も見たくないから、後で電話する。正直今も車で待たせてるから私実家に帰るね。」
僕「えっ❓誰を待たせてるの❓」
元嫁「あんたには関係ないでしょ。そういう事で私もう決めたから。元気でね。」
これが本当に元嫁の最後の姿になるとはその時には思ってもいなかった。

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元嫁の実家は、千葉の駅前の土地転がしで寝てても不労所得がある家だった。家自体は豪邸では無かったが、駅前の土地持ちでいかに資産を守ろうと税金対策をするような家だった。
お父さんは、別居して上野のタワマンに一人で住み、お母さんと元嫁とお姉さんの3人で毎月お父さんからもらう多額のお金で豪遊していた。
熱海の網代というところに、別荘があった。
まぁ〜別荘といってもただの一軒家だったが、温泉が出る感じで親戚のおじさんが、お父さんに雇われて管理をしていた。
まぁ〜あんまり身近には居ないような家族だった。
僕の家は、一般のサラリーマン家庭でお母さんは専業主婦だった。4つ下に妹も居て石でも投げれば当たるような普通の家だった。
僕のお母さんと妹は、元嫁のことが大嫌いでお兄ちゃんを置いて出ていくなんて[怒る]
と怒り正直実家に近づきたく無かった。
僕はというと、おかしいなと思っていても無理矢理連れてくるのは出来なかったし、正直夫婦の問題で口を出してくるなとますます実家との溝が深くなって行った。
職場の人たちも「犬の方が大事なんだね」とか「犬の死に待ち」とかいじられた。
元嫁とは、また遠距離になり週末会う感じで新婚生活は幕を開けた。
そんな感じで、時が過ぎて結婚して2年目の2015年の春を迎えた。

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元嫁は、実家を出ての生活をしたことがなかったのでとても喜んでいた。
けども、新婚生活が始まって2週間ほどして気づいたことがあった。
元嫁は、何も家事をしない。
料理洗濯掃除等々全くやらず、一日中パソコンの前に居て誰かとマイクでずっと喋っていた。
僕が、仕事で帰ってきても全く景色は変わらなかった。
基本的には、自分が出来るので少し疑問を持ちながらも生活を維持するには僕がやるしかなかった。
2ヶ月もすると僕も体力が続かず、料理という家事が継続困難となり毎晩外食をするようになった。
当時は、収入としては住宅ローンなどの固定費を引くとあまりが10万あるか無いかで、そこから外食費を出すことをしていた。
まぁ〜その月暮らしってやつですね。
ボーナスを12ヶ月で割って少し贅沢などをした。
元嫁の実家を出たい理由が色々言われなくて済むと思ったからであったのだと理解をした。
そんな中、犬のベルちゃんの具合が悪くなった。
診断結果は、新しい環境のストレスだった。
それを聞いた元嫁は、ベルちゃんが亡くなるまで実家に帰ります。という決断だった。
僕の意見など聞かずに勝手に決めて勝手に引越し業者を呼んで引っ越して行った。
そして、新生活がスタートして4ヶ月くらいした2月に突然僕の一軒家別居生活が始まった。

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合格したら、7月8月は病院実習。
9月から国家試験対策が始まり3月に国家試験という集大成の年であった。
学校側も合格率を上げるために、国家試験に受からなそうなやつはバシバシ落としていくシステムだった。
3年生は、国家試験対策と猛勉強であまり思い出がない。
元嫁は、元々頭が弱く最初の中間テストで落とされ2度目の留年が決まった。
そこからは、全く連絡を取らずに8人くらいの野郎たちで毎日国家試験対策。
忘れられないのが、国家試験前日に学校でみんなで勉強していて、
「もう新しい情報入れても意味ないし、もうここまで過去問の合格点だったら来れば余裕じゃない?」となりみんなで川崎の風俗嬢に景気付けしてもらおうとなった。
野郎グループの中に元嫁ストーカーのW君もいたがW君だけはチキって行かなかった。
国家試験は自己採点しても余裕で受かったと確信できたが、風俗に行かなかったW君だけは落ちてしまった。
もし、みんなも国家試験が余裕だなと思ったらアルコールはよくないと思うが前日にスッキリして爆睡して国家試験に臨んだ方が良いと思う。
そして、4月から神奈川県の病院に就職した。
今もそこで働いてもう15年目だ。

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蒲田には沢山の飲食店があったので色々と食べ歩いた。
半年ほど過ぎた時、僕の彼女はNからKに変わった。
このKって子も当時はJKで、まぁ僕が車を持っていたから大人のデートが出来るとなって付き合っていた感じかな。
そんな中、クラスメイトにW君という当時のペ・ヨンジュンのようなスラッとした王子様系男子がいて、元嫁が急に発情期だ‼️と言って外見だけでそのW君をお誘いしてW君はまんまと元嫁にハマりストーカーをするようになった。
そして、全く関係ない僕にまでも矛先が来た。
僕は、W君に嫉妬されて嫌がらせされたけども所詮は1つ歳下ということもあって全く相手にしていなかった。
だが、元嫁は学校が終わると待ち伏せされたりしてしょうがないから一緒に帰ることにした。
ただ、僕は蒲田駅から横浜方面。
元嫁は、千葉県だったため全く逆の方向で東京駅まで毎日送る日が続いた。
なぜ東京駅かというと東海道線は当時東京駅始発であったため都合が良かった。
ただ、これはキセル行為なので絶対にやってはいけない。
そうこうしているうちに、元嫁がオタクの聖地秋葉原に一緒に行こうと誘ってくれた。
僕は何度も秋葉原に行ったが純粋に電気製品を見たり秋月電子という抵抗やらセンサーやらガチものの秋葉原が好きだったが元嫁に初めてオタクという世界を教えてもらいBLというものに触れた。
全くそこには染まりもしなかったが、なんと無くW君を誘った理由がわかった気がした。
僕は、秋葉原の高架下のアダルトグッツのお店に行き色々買い漁り、JKの彼女と楽しんでいたりした。
元嫁も僕に彼女がいることは知っているためただの友達だった。
それで、順調に学校も頑張って進級し、W君は誤解と嫉妬も晴れて。
2年生の夏まで女友達、男友達として元嫁とは過ごした。

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今でも忘れない毎週金曜日の1-2限の実習授業である。
医療系の専門だったので、病院に就職してから遅延しましたは通用しない世界。
なので実習は絶対に行かなきゃ行けなかった。
なのに、電車の遅延と一回の寝坊で入学して3ヶ月の7月に出席日数が足りず留年が決まった笑
そして、元嫁はというと元嫁のオタクのグループの中にひとりおじさんが居たのだが、いわゆるロリコン大好きなおじさんで元嫁を軟禁。
元嫁も初めての彼氏で、普通にDVをしていたみたい。
ロリコンおじさんは、すぐに中退。
元嫁も、留年が決まった。

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僕は、七夕で有名な平塚市というところから通学していた。平塚駅から東海道線で川崎駅。乗り換えて京浜東北線で蒲田駅だった。
なので、平塚駅は余裕を見て7:30の電車がベストだったため家を出るのが6:45だった。
ただし、20 年以上前の東海道線はすし詰め。
連結部分ではまだタバコを吸っている人もいれば、駅に着いたら窓から降りる人も居るくらいカオスな電車だった。
定刻通りなんて週1あるかないか。
今は東海道線を乗らないから今もそうなのであれば申し訳ない。
なので1限目の遅刻が多く遅延証明書を紋所のように納めた。

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元嫁は、かなりのオタク。
BL好きってやつでちょっと僕が理解が出来ない感じだった。
次第に、学校にも慣れて僕は普通に野郎のグループ。
元嫁は、ちょっとオタクのグループに所属していた。
まぁ〜その時は彼女もいたし全く気にもしていなかったかな。
基礎情報を伝えます。
自分
普通科高校を卒業して大学も行けたけども将来の夢も決まったし手っ取り早く専門学校で医療系の資格を取ることにした。
当時は、犯罪だが4つ下の14歳の彼女がいた。
元嫁
女子校育ちで専門学校が初めての共学。いわゆるお嬢様育ちでお姉さんが資格を持っていたからそのままの道を着いてきた感じ。
彼氏は居ない。男経験なし。清楚というよりも女子高上がりな感じでボーイッシュな感じ。

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自分は文章を書くのがあまり得意ではないので、コメントで気になること、深掘りして欲しいことがあったら教えて欲しい。

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専門学校って結構年が離れている人が多く現役生は30人、社会人経験者は10人といった感じだった。
当時は、高校から付き合っている彼女が居て正直女の子には困ってなかった。
毎日通学していたら元嫁ともう一人の青森から来ている女の子と同じ授業のグループになったのが出会いの始まりだったな。

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離婚して7年?
そろそろまとめようかと思うんだが、興味ある人いるのかな?
インスタやFacebookには書けないけども、ここなら良いかなと思っている。

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回答数 136>>

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アメリカは、まだ昼よ

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奥さんは謝る

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叶えるためのルールを決める

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回答数 14641>>

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じゃあ、イオンの立体駐車場で待ってるね❤️

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回答数 992>>
結婚したら彼女はいなくなりますので

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腹の肉豊。

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#夏季休暇 #家族旅行 #温泉



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浮気とか疑いが出来ると一瞬で失うもの。

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回答数 184>>
