人は、人に強制することは出来ない親でさえ、子どもの選択を決められない。けれど、自分の手から離れた後もかれらの仏心に火が灯されているように願う。どうか、この子が誠実に生きることを望めますよう感謝の守りに気付きながら人生を歩めますよう未熟な私たちであったけれど人としての心を伝えていく親としてあなたの人生に役目をもらえて嬉しかった。私たち自身も一緒に成長できる機会を与えてくれてありがとう。
心を病んだブランクがある腕に傷がある。この人は何か問題があると見られる。さらに結婚してないとなれば、人間的に問題があると見極められ、そうではないと言い切れる証拠を何も持っていない事実に突き当たる。人間性だよ、そんな非力な根拠なき解釈は手のひら返しの餌でしかない。それでいいのか、いいわけない。
アスペルガーはマルチタスクが苦手=視野が狭い=心の視野が狭い自分のことを中心に、見てしまう協力したいのに周りを見ての仕事が見えない悔しさ。親切でありたいのに相手の立場の対応がうまく思いつけない残念感。人一倍やる気あるのに明後日に飛んでいく結果。ただ、本当に修正したいから確実に変われる方法を見つけた。それは、反復•継続。失敗しても反復•継続。これさえあれば、私は大丈夫かと。飽きるとかの、レベルじゃない反復•継続。でもだって、といいながらも反復•継続私にはそれが、特効薬。
バイトで、グラスをよく割ってしまう。昨日は、グラスをのせたお盆を、社員さんが「持つよ」という感じで手を差し出して渡したときに暖簾に引っかかって割れた。そこに行くまでは慎重に親指でグラスの台を押さえながら運んだのに、お盆を渡したときに責任を放棄してしまったのだ。そこまで予測できなかった。「グラスあるので注意してください」まで気持ちが回らなかった。これで割ったのは4度目だ。大将が「何で割れるんだよ」ってキレていて、私もさすがに頭弱いし、割らないようにすることがキャパオーバーってどんなアホなんだろうって情けなかった。
私は、母に対する「怒り」だった。私は、母に対する「憤り」だった。後悔であり不安であり、寂しさだった。母無しには存在しない、母に対する「感情」だった。母がどういう人なのか私と違う人格を持った、どういう人なのか故に私とは、母無しでどう存在している人なのか。一人になった私。私として立つことは不安だったけどやっと息が吸えたのだ。
普通は、美味しいものを食べて幸せ、で満足。でも依存症の人は、美味しいものを食べ続けても、満足しない。美味しい物以外の楽しみがない。普通のそれ以外の日常にある幸せを感じられない、見えない、わからない。それはいくら自分が悪い、治さなきゃと自分を責めたり、自分で答えを見つけようとしても、できない。わからない、ないから。大なり小なり、普通は持っている人と話して居場所を感じたり共感や息抜き、私は居ていい、という落ち着き場所を知らない。
今日保育園で、「勤めている人は、用務、事務、送迎、関係なく保育士でなくても皆、先生です」って言われて違和感だった。清掃アルバイトで数時間入って、先生?まじ、先生だから、大人だからそんなのに惑わされず、自らの心で判断して真の先生を選べ。そして選べないうちは、求道する専門職が、その子の人格形成に心を砕き導く、それがプロではないのかぁ!!