アラサーの同窓会は、人生の中間決算である。そこでは努力や才能そのものではなく、「どの選択を積み上げてきたか」の結果が、収入・見た目・パートナーという形で一気に可視化される。既婚者はすでに次のステージに進んでいる。生活を回し、家庭を維持し、仕事の責任を背負うフェーズだ。他人と比較して一喜一憂する余地は少なく、良くも悪くも「自分の人生を前に進める」ことに集中している。一方、未婚者にとって同窓会は否応なく「人生の答え合わせ」を突きつけられる場になる。特に低収入の男性は厳しい。アラサー以降、男性の評価軸は「顔」や「ノリ」から「総合力(収入・安定性・将来性)」へと移行する。その結果、金がない=将来が見えない=選ばれにくいという構図が完成し、金がない・モテないの二重苦に陥りやすい。ただし、ここには逆転もある。20代で恋愛市場に適応できなかった理系・非モテ層は、30代に入って収入や専門性が可視化されることで、普通に「選択肢に入る側」へ移行することが珍しくない。一方で、イケメン一本槍で無双してきた男性は注意が必要だ。30代半ばあたりから、顔だけで付与されていたスター補正は徐々に解除される。中身や実績が伴っていない場合、失速は思っているより急である。女性は、構造がまったく違う。30歳前後までは、正直に言ってイージーゲームだ。一定の美容努力をしていれば、恋愛・結婚市場での需要は安定して存在する。しかし30歳を過ぎたあたりから、需給曲線ははっきりと逆転する。選ぶ側から、選ばれる側への移行が始まり、年齢という変数が一気に重くなる。このタイミングまでに結婚という形で「利確」できなかった場合、市場は男性以上にシビアになる。美容や愛嬌だけでは相殺できない現実が露出し、精神的にも社会的にも消耗が激しくなる。結局、アラサー同窓会が残酷に感じられる理由は単純だ。そこでは才能の差ではなく、選択と積み上げの差が示されるからだ。逃げたか、向き合ったか。先延ばしにしたか、準備したか。その答えが、誰に説明しなくても一瞬で伝わってしまう。だから、人生の中間決算なのだ。