人間には3種類いて、幸福な順に上から世間一般で悪とされることを善とする人悪とされる行動を行うために、所謂「偽善」現象が起こらず、自身は完全に善で自身のあるべき姿、そのままであると感じられ、幸せ世間一般で善とされることを善として、それを無意識で行うことが出来る人無意識下で善を行うために、「偽善」が起こらず、また、善を行う実感も無いために、幸せも不幸せも感じない世間一般で善とされることを善として、それを意識的に行おうとしてしまう人意識的に善を行おうとするために、「偽善」が発生し、何をしても自身が悪であると考えてしまい、不幸せ
ルクレティウスの槍を投げれば、槍視点での世界が無限であることがわかる。もし、世界が有界だとしたら、境界点に近づくにつれ、我々の自覚なしに、槍のより高次の速度のようなものが減少し、境界にたどり着けないってかんじなのかも。例えば、空間が境界に近づくにつれ無限に歪んでいくとか
否定が出来ないことと、それが正しいということは同値ではない訳で、我々の認識の曖昧さを再確認させる、よい仮説とは感じても、本気で信じようとは思えない。これまでの人生の積み重ねやそこにかけた時間に多少なりとも価値を感じているから。
ある主体があって、そのものの知覚可能な範囲(あくまで主体の知覚した事象や物体等)の中で行われるラベリング、それ自体に何か意味を持つ訳ではない。正直、価値について正確に議論するためには、我々の思考に絶対に必要なパーツである、全ての事象に価値をつけ、その存在を唯一の絶対とする。という部分を完全に排除した状態で議論しないといけないため、完璧には答えられない
我々が戦争を戦争として見てしまうからではないか。現代で行われている戦争は過去のものから考えればかなり道徳的だろう。過去の戦争では、勝利した国はその国から略奪するのが当たり前であったし、当時であれば、人間を肉の壁として使うこともあったはずだ、しかし、現代の戦争では、職業軍人のみが少数で戦い、条約に基づいて、占領地にも権利が保証されている。過去の人間から見れば、こんなものは戦争ではないと考えてもおかしくはない。であるならば、我々は現在の状況の改善を見ず、戦争行為の定義をより厳格で”人道的”なものとすることで、戦争はいつまでも存在するとして、悲観してしまっている。この改善のためには、我々が戦争の定義を如何に変えようとも、それらから外れるように、社会を変える必要があるが、そのような社会は絶対に存在しえないと簡単に分かるだろう。であるならば、我々の世界から戦争は無くなりえないのだ。
人間のジレンマですよね。私の持論として、人間の価値観は完全な相対評価だと考えるとほとんどの矛盾に説明がつきます。自由という感覚は、不自由な感覚からの落差によって生まれる感情だと考えれば、完全な自由を手にして、人間はその落差を感じられないが為に、自由を感じることも出来ないんでしょう
社会の主体が人間のみか、AIを含むかによって変わってきそう。人の場合は、もちろん、同族である人間が、苦心して作ったというそのプロセスに対し共感して価値を見出すが、AIを含む場合は、人という、AIからして未知のものの、心が表現された研究対象、つまり、我々からして象や猿が描いた絵のような価値を持つと思う。
善を定義する主体が何処にあるかによる。介入した者にとっては、それは善であり、介入されたものにとっては、それは悪である。もし、何か絶対的なものに敢えて主体を置こうとするならば、それは何でもないのではないか。我々が真の意味での他人の行動に対して全く関心を持たないように
この世界に存在するもの、存在しないもの全てが、あるものにとって生物であり、あるものにとってはそうではない。そのどれを本当の判断基準として選ぶのだろう。貴方の、言うなれば「他者の基準こそ正しい」という考えを採用するならば、そのどれを選んでも、それは本当にはならないと思う。
哲学とはそもそも、貴方が見出した、価値の存在の否定による完全な孤独を自覚してしまった過去の賢人達が、その孤独の存在を肯定しないために創り出したのではないでしょうか。つまり、自身を論理の迷宮の中に閉じ込め、論理の構築をあえて試みることで、自分自身が議論の対象(人間が議論するものとは、それ自体が人間の意味づけた虚構の価値を持つものですが)の存在を感覚的に信じられるようにしたのではないかと思っています。であるならば、哲学とはその孤独に気づかないためのもの、使い方次第では幸せにより近づけるものです。貴方がその孤独に気づく度にその原因を議論していけば、きっと孤独の存在を忘れ、幸せになることも出来るのではないでしょうか