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#tanka #短歌


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(以下,私の言語化につき…)
「心の老化を防ぎたい」と彼は頑なに豪語する。感性は身体能力と同様の衰えがあると仮定している様は過去に対して固執しているようにも見えたが、その言い分を聞くに、ある種の不可逆に対して抗う姿勢は切実さそのものである。
(ここで私はこの話を数学的に一般化してみることにした。あるグラフがあるとする、任意の値を最大化させるには微分係数が0の点である。)
私からしたら彼の話は二次元軸の視点に過ぎないと思っていた。二次元軸に加えて、深みとして三次元軸があってもいいのではないか、と。感性もとい人生の最大化について抽象化させながら語り合うときは楽しい。しかし不可逆を認めつつも任意の取りうる三次元軸の値を模索して体積を最大化させる私の主張には欠点があった。それはあまりにもその変数が膨大であることであり、最大化させるプロセスにおけるアプローチが定まらないまま最大化をしようとしているに過ぎないのだ。逆説的に彼の生き方は、方法論こそあれ最大化する点がすでに定まっている。私はこれに連想して、ムスリムの友人を思い出すした。その友人の最大化を取りうる定点とはアッラーである。「真理は多神教的な考えの中にはない」と言われた過去をふと思い出す。今日の彼とあの友人に共通するのは何かを鑑みてみたとき、それは自分なりのゴール、すなわち任意の値を最大化する術がわかっているということ。この生き方に迷いはなく、誰も介在する余地はない、といった『強く厳しい』生き方である。言ってみれば芯がある。のらりくらりと生きている自分はなんて悩みの多いことだろうと、比較してみても、あのような生き方が体に受け付けないのは自分でもわかる。つまるところ、私の本質とは他者の中で寂しさを埋めようとしている。今日の彼と話した内容は楽しかった。彼は読書の中で、私は他者との対話の中で、自問自答するのが好きと言った具合に対照的なのである。
「おまえ壁打ちは好きか」
「嫌いではないが誰かとやった方が客観性があるだろう」
「おれの卑屈さは俺のやり方ではたしかに肥大がしているかもしれない。けれど忠告がある。三次元軸の任意の点には他者を置き過ぎるな」
と言い残して彼はその場を後にした。なんだか見透かされたような気がする、私は『よわくやさしい』生き方を自分なりに認められるのだろうか、多神教的な考えの末に幸せはあるのか、とまたしても軸はぶれていくのであった。
「今回の正しさは私のほうね」というある小説のセリフについて好きだと言って、さりげなくその文脈を語ってくるあたり、婉曲ではあるがとても彼らしい。かくも賢者は語りき。

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