
k(CV:五ェ門)
エニアグラム:タイプ1
人柄:朴念仁
【最近見た物】
本:異人たちとの夏(山田太一)
【お気に入り】
わたしは、ダニエル・ブレイク(ケン・ローチ)
「学校」シリーズ(山田洋次)
男たちは北へ(風間一輝)
天国と地獄 地球8万キロ自転車の旅(森逸広)
空手道ビジネスマンクラス練馬支部(夢枕獏)
炎立つ(高橋克彦)
二十歳の原点(高野悦子)
山頭火句集
【口癖】
斬るのは未熟な我が心
写真撮影
読書
映画
ハイキング
温泉
バス旅
図書館
ミルクセーキ
NikonDf
合唱
茨木のり子
司法書士試験
漢詩
森田童子
サイクリング
高田リオン
山田洋次
十二国記
堀田善衞
3年B組金八先生
林檎ジュース
景王陽子
「ひとつ屋根の下」柏木達也
オスカル・フランソワ
王様のレストラン
ユージン・スミス
アンビエント
大喜利
日記
GRist
虎に翼
種田山頭火
インナーチャイルド
バウンダリー

k(CV:五ェ門)
昨年の今が、昨日のことのように思い出される。
母が亡くなるまでカウントダウンだ。
母と同世代の著名人の訃報をネットニュースで目にして、気がふさいだ。
その時にすぐ実家に電話していたら。
後日、そんなことも考えたものだ。
受験申請書に貼付するための証明写真を撮りに行かねば。
4月中は、冬の装いのまま過ごしてしまう私も、5月に写真を撮る際は、思い切って夏の装いに切り替える。私の衣替えだ。
しかし、現実の今日は、20度未満。昨日まで冬の装いであったのであれば、今日もそれで何らおかしくない。少なくとも、私にとっては今日もまだ肌寒い気候だ。
それでも無理をして半袖シャツで外に出かけるかどうか。
母が亡くなったとの連絡を受けた頃、私はまだ、自宅においてはフリースを着用していた。
翌朝、故郷に飛んで帰り、3週間実家に滞在した。前日までその家で暮らしていた母と入れ替わりに。
再びこの部屋に戻ってきた時、ベッドの上にフリースが脱ぎ捨ててあるのを見て、季節が変わったことを実感した。
母の訃報を受けた当日のまま、私の部屋は時間が止まっていた。
他人と会話していると、何となく気が付く。
目の前のこの人、あるいはこの人たちは、あまり喜んでいないと。
それは、単に私の勝手な思い込みなのかもしれないけれども、やっぱり感じるものはある。
私の話は求められていないと。
そういう空気、雰囲気を察知すると、私は口をつぐむ。
その場の誰かが「そろそろいいかな」といった感じで、全く違う話を切り出す。
ほら、やっぱり。
そこにはブリッジや繋ぎ言葉があるわけではない。
まるで、編集ポイントのようだ。それまでの私の話は全カットしても良いかのように。
片づけぬままにしておいた新聞を整理した。
そうやって残しておく新聞は、気になる記事が載っていたものだ。
再度新聞を読み直す。
最近では、新聞は努めて廃棄するようにしているが、少し取っておくことにした。
そのうちのひとつ。
ある作家の寄稿文。桜葬について書かれたもの。
続く

k(CV:五ェ門)
番組の中で、一本の小説作品が紹介されていた。
途中から聞き始めたため、小説の作品名が分からなかった。
断片的に知りえた情報、作品のキーワードを頼りに、検索をかけてみた。
作品が分かった。
『その本はまだルリユールされていない』
初めて聞く作品だった。
著者は、坂本葵。
こちらも同じく、初めて聞く名前だった。
調べてみると、私よりも若い。
しかし、もう何年も前から、そんなことは当たり前になっている。
ただ、私は、若干懸念も覚える。
年を重ねると、若かった頃に読めたものが読みづらくなる。
人生の先輩が書いたものを求めるようになる。
自分が生きてきた時間、過去よりも、今後待ち受けている時間、未来の方が遥かに長いうちは、背伸びをすることもできた。分からないなりに。
しかし、その時期を通り過ぎてしまうと、同じ作品を読んでも、感動が得られなくなる。
理解はできるが、感動できなくなる。
自分が住める世界が狭まり、社会の端に追いやられた。
そんな疎外感すら覚える。
世の中は、もっと若い人々が前面に出て動かしていけばいい。
今更自分が出しゃばろうとは思わない。
それでも、私は、私で自分のやれることをやっていきたい。細々とでも。
だから、そのための道標を求めている。
前述の作品。
おそらく主人公は、私よりも若い。
しかし、どうやら作中で挫折を経験するらしい。
どうやら、私が目下目指しているものを諦めるというのだ。
だからこそ、興味を覚えた。
私は今、身の回りの物を減らし続けている。
本も例外ではない。
おそらく、今、この小説を手に入れることはなかろう。
それでも、いつか折を見て読んでみたいと思う。
ついでに調べてみたら、著者は既婚者だった。
伴侶は小谷野敦。
こちらは既知の人物だった。
彼が既婚者だったことの方に驚いてしまった。
#坂本葵 #その本はまだルリユールされていない #小谷野敦 #図書館司書 #司法書士

k(CV:五ェ門)
私の日記を日々目にする人々の中には、考える人がいるかもしれない。
私の向かい側にいる彼らは、一体どのような人間であるのか。
彼らの内面を掘り下げた物語、弟、妹目線の手記も読んでみたいと。
それは、私自身の願望でもある。
カウンセリングでいう共感的理解というものなのかな。
他人は、驚くほど自分(私)のことが見えていない。
しかし、それは当然のことだ。
人の内実など目には見えないのだから。
それでも、その人なりに理解しようと努める。
分からない部分は、推量で補完する。
結果、相手(本人)の自己認識との間に乖離及び誤解が生じる。
噛み合わない。
だから、その埋め合わせと修正が必要となる。
それなのに、それは労多き面倒な作業でもあるから、往々にして、そこには手を付けたがらない。双方ともに。
コミュニケーションとは、途方もない作業だ。
伝える努力、聴く努力、どちらが欠けても成り立たない。
先日、私に腹を立てて去っていった人は、去り際に私を”オーナー”と呼んでいた。
私を名前で呼ぶような間柄ではなかったということだ。
それにも関わらず、彼は、私の姿勢を否定した上で、彼の考える”正解”の提言を図った。
私がそのやり取りを無反応でやりすごすと、私の日記を読みに来た挙句、善意が受け止められなかった、即ち、報われなかったと腹を立て、私に対する怨嗟の声を上げた。
黙って静かに去ることは出来なかった。
日常生活において、周囲の人に対しては、どんどん苦言を呈すればよい。
それが本当に必要な声掛けであるならば。
時と場合によっては、相手との信頼関係の有無にかかわらず、制止せねばならぬこともあろう。
それは、緊急避難的行為だ。
ラポールがない相手との間で、不用意に相手の中に踏み込むと大きな反発を食らいかねない。
その反発に対して、自身もまた反発するのは自由ではあるけれども、ならば、それはそもそも何のため、誰のための行為だったのですかとなる。
報われなかったから怒った。
そして、相手への恨み節を残して去っていった。
あなたは腹が立ったかもしれない。
しかし、私は私で、あなたの言葉に大いに傷ついた。
残念ながら、ファシリテーター役を買って出る人は現れなかった。
結果、あなたは去り、私は今も残っている。

k(CV:五ェ門)
「別れるのが辛いと思える出会いをたくさん経験しなさい」という助言を大学生に送ったのは。
送別会。
本当に名残惜しい仲間がいれば、たとえ閉会5分前になったとしても、何としてでも駆け付ける。
欠席をするというのは、そこまでの価値を感じていないということだ。
相手との関係、縁に対して。
むしろ、そのことが明確な意思表示であると思う。
「お前とは会いたくないのだ」という。
交代制勤務の職場で働いていた時、勤務の都合上、送別会に参加できぬ仲間がいた。
しかし、その人は、留守番電話にメッセージを吹き込んでおいてくれた。
お別れの挨拶ということで。これまでの感謝の言葉などを。
送別会でなくても同様だ。
昔、ある職場で働いていた頃、皆、人事異動でバラバラになった後も、声を掛け合って集まることがあった。
お互いに、そんなふうに集まりたいと思える仲間たちだった。
だからこそ、急に急ぎの仕事が入ってしまっても、
「何としてでも駆け付けるから、待っていて」
そんなふうに職場から懇親会の場に電話をかけてくる。
「行けたら行く」
という人は、来ない。
というより、来たくないのだ。本音では。
行けない理由を探している。断るための都合の良い言い訳を。
別のある職場で、同じ島で働いていた後輩にそんな経験則を語ったところ、
「行きましょう、これから。30分一本勝負で」
たとえどんなに僅かな時間でも良い。
この相手とならと思えれば、人は、その縁を大事にする。
だから、いざ自分が歓送迎会に招かれて、当日会場で、これまで共に働いた人の欠席を知らされると、
「ああ、やっぱり嫌われていたのだな」
と、乾いた笑いが浮かんでしまう。
無言の欠席というのが、一番の強烈なメッセージ。

k(CV:五ェ門)
誰が思いついたのかまではもはや分からない。
少年の嘘に妹、母、父、家族全員が口裏を合わせていた。
その場の全員、しきりに笑っていた。
対応した私だけでなく、百戦錬磨のベテラン上司も、彼らの嘘を見抜けなかった。
皆、よく笑う。
示し合わせたように、よく笑う。
その場にいる者が、ある時期を境に急に笑うようになったとき。
大抵、その裏で、大きな問題が進行している。
これは、私の経験則だ。
笑う一方で、極めて不寛容になる。耐性が低くなる。
過剰とも言えるほど、防衛機制を働かせ、大きく反発(威嚇と言っても良い)を示すことで、自身への追及を回避せんと努める。
思い出したように、にやにやと笑い、お互いに見やっては含み笑いをする。
秘密の悪事を共有する者たちの姿。
呼吸をするように嘘をつく者がいた。
彼が残念だったのは、騙したかった相手を騙しきれなかったことだ。
その環境から私が去る前に、一席設けていただいた。
気付く人は、気付いていた。
去った後、別の人々にも一席設けていただいた。
彼は現れなかった。

k(CV:五ェ門)
弟とやり合った妹に対し、一昨日、コメントを送った。
・彼と同じトーンで感情的に応酬をするなと。
・併せて、精神疾患の可能性について言及し、医療機関での診察治療を受けさせたいと考えていること。
・ラポールが失われている状態では、我々の言葉は相手の耳には届かない。
・彼の交友関係を知っていれば教えてほしい。
・自分が心を許す相手の言葉であれば、耳を傾けることもあるから。
といったようなことを投げかけた。
それに対する返事であった。
開口一番「知らない」と。
続けて「あの態度は、相手を挑発すべくわざと演じているのだろう」と。
その答えを聞いて、内心「またか」と思った。
わざとならわざとで構わないけれども、なぜそれを本人に尋ねもしないで、自己完結してしまうのか。
それでは、相手はどんどん敵になっていく。自分の中で。
推量が確信となり、一人歩きする。
「それならそれで構いません。本人が自分の意思でやっていることであれば、本人の生き方の問題ですから」
それならば、それまでだ。
その後は、再び「(私を)まだ許していない」と過去の私(と弟も同様だろう)への不満を展開し始めたので、
「その話であれば、まずはグループに戻ってください。そこで皆で話しましょう。今ここで、あなたとふたりきりでそれを話しても、あまり意味はない」
と応じた。
私は、当事者以外の中立的な第三者が同席する場でオープンに話した方が良いと思っている。
「きれいごとを言う人間は嫌いだ」
彼女はそのように言っていた。
偽善者、ナルシスト、きれいごと。
私に向けて放つ彼女の言葉は、いつも同じだ。

k(CV:五ェ門)
第1章25ページまで読み終えるまで、およそ1時間。
当時使われていた漢字で読めぬものを調べながら読んだ結果、それだけの時間を費やすこととなった。
字を見れば、それとなく意味の推測はできる。
けれども、そうしてやり過ごしたくはなかった。
義務教育を終えた私が読めないということは、それらは現在使われることのないものばかりだ。今更無理して覚える必要性は乏しいし、覚えたところで自ら書く機会もない。
とはいえ、かつてこの国で使われた言葉であれば、とりあえず知っておきたいと考えた。
一度知ってしまえば、今後は既知の情報となる。
この小説を入手したのは、かなり昔のことだ。
奥付を開くと、2007年8刷発行とある。
その中に、地獄が描かれていると分かっているが故に、なかなか開く気になれなかった。
20代前後の頃であれば、そのような地獄の描かれた作品であっても、すぐさま向き合うことができたように記憶している。
しかし、年を重ねるにつれ、心が耐え切れなくなってきた。
それでも、いつかは読まねばならぬ。
そう思って、ひと月ほど前に本棚から取り出し、目の前のファイルボックスに移しておいた。いつでも読めるように。
今朝、なぜだか読んでみたくなった。
これでなくても良いかなとも思った。
手元の他の既読本でも。
しかし、どうせ同じ時間を費やすのであれば、未読の作品をと思い、開かずの扉を開くことにした。
戦場、戦争の実相を描いた作品を読みたくなった。
だから、適当に読みたくなかった。
読めない言葉は全て確認した。
地名もその場所をできるかぎり確認した。
そうすることで、解像度が高まっていき、情景がリアルに思い浮かぶようになる。
まだ序章にすぎない。
それでも、この世界に足を踏み入れた。
今はこれだけでよい。
そこには戦争があった。

k(CV:五ェ門)
冷たいことを言うが、私は、被害者が身内でないことを真っ先に祈っている。当たり前のように。
たとえ、普段、本人たちがどんなに強がっていても、人の心など、そんなに強いものではない。
いつ、誰に何が起きても、不思議ではない。
だから、真っ先に祈るということは、そういうことが起こりうると心配していることの裏返しでもある。
人は、かように脆弱で繊細な生き物だ。
どうやら身内ではなさそうだ。
それが分かって、ようやく、次のステージに進める。
己が正気を保てるか否かの境目だ。
非情だ。
亡くなった人が身内ではないというだけで、悲しみの度合いが下がる。
その人にも、その人の喪失を嘆く身内がいるだろうに。
映画『評決のとき』を思い出した。

k(CV:五ェ門)
血液を採取された。
結果は明日電話確認。しかし、白血球は平常。おそらく胆のうの病気ではないと思うとのこと。
とりあえず、胃腸薬を出された。
もしも痛みが続くようであれば、エコー検査をしようということで、今日のところはとりあえず終わり。
想定の範囲内。
本当に痛くなってから初めて診せに行き、結果、手遅れとなるよりは良い。
注射の後、しばらく診察室の前で待っていた間も、2回ほど、ちくっちくっと痛みが走った。
グリーフワークについて補足。
前の記事を読みに来られた方が、「裏でぐちぐち言って」と恨み節を残して去ってゆかれた。
最後も、私への批判で締めくくられていた。
私の自分語りの場となっており、いる意味がないと。
生身の人間が実際に対面するオフラインの現場では、あらかじめ様々な注意事項を示している。
こういった衝突にまで発展せぬよう、コーディネーターも必要だろう。
テキストコミュニケーションでは、行間解釈が読み手に委ねられ、意図せぬ誤解を招きうるし、自らが発信する場合も、意図せぬ強さで相手の心を抉りうる。オフラインの場以上に、細心の注意が必要だ。
最後に大きく深呼吸しておこう。
他人が見れば、ため息だ。

k(CV:五ェ門)
尿管結石は尿管結石としてもちろん警戒せねばならない。
あの痛みは、本当に、二度と経験したくないものだから。
手遅れかもしれないが、一日コップ八杯の水。意識して飲むよう心に決めた。
そして、他の可能性。
胃潰瘍。
あ、また、ちくっちくっが来た。
その原因に、”ストレス”の文字が目に留まる。
日常生活で普通に使われ、誰もが見聞きする言葉。
ストレスがかかることにより交感神経が活性化し、血管の収縮などを引き起こす。
緊張が継続し、肩こりや首の痛みを引き起こす。
その他、頭痛、動悸など。
胃潰瘍もまた、ストレスがその発症のきっかけとなりうる。
昔誰かが「風呂は命の洗濯」などと言っていたが、意図せずして、私は自ら土曜の長風呂に救いを求めていたのだろう。
過敏性腸症候群。10年以上前、それらしき症状に苦しんだことがあった。
ただ、改めて調べると、あれは左腹のようだし、記憶する痛みと今のそれとは少し違う。
あの時はもっと、じんわりと鈍い痛みが持続した。
私は今、グリーフワークを目的とした自主的な集いに身を置いている。
先日、ある参加者からの私への声掛けに「さて、困ったものだ」との思いを抱いた。
一言で言えば「余計なお世話」ということだった。
私は、その場に”議論”を求めていない。
だから、私の変化を引き起こそうとする働きかけ、相手の過ちを教えて正してやろうという働きかけ、もっと簡単に言えば”論破”は邪魔でしかない。
そのような言葉を向けられれば、抗うしかなくなる。
そのやり取りは、いずれが正しいのか、雌雄を決するまで続くことだろう。
それは、この場でやることではない。
言われた側は、おそらく沈黙する。
それは、相手に対する不信と諦めによるものだ。
もはや、二度と心を開くことはあるまい。
だから、相手をそのように仕向けたければ、好きなだけ論破すればよい。
それが真の目的であるならば。
ある人が言っていた。
余計なことはしない。ただひたすら黙って寄り添う。
相手を正そうとする言動は、ケアではない。力による支配だ。
近年、傾聴批判をよく目にする。
しかし、傾聴とは本当に難しいものだと思う。
本人の中にあるはずの立ち直るための力は、本人が気づくしかない。
それに黙って付き合う作業は、忍耐を要するものだ。

k(CV:五ェ門)
先ほどの記事で、尿管結石関係で背中の痛みについて触れた。
そういえば、背中の痛み、あった。
もっとも、これも数週間遡ることになるのだけれども。
過去の書類処分の作業のため、押入から段ボールを数箱取り出した際に腰を痛めたものだと思っていた。
その後も長い間、痛みが地味に続いているなあと。
洗面時のような姿勢で前屈みになると、腰がしんどい。
いや、逆かな。腰がしんどいから前屈みになってしまうのか。
どっちだろう。
しかし、これがいわゆる腰痛の症状ではなく、尿管結石の初期の初期症状だとしたら、ちょっと嫌だな。
むしろ腰痛だったらどれほど幸せだったかと思えるほどだったからね。
尿管結石の痛みは。
生まれて初めて他人に助けを求めたから。
あまりにも苦しくて、我慢できなくて。
腹の中のモンスターが大暴れして、腹を食い破って飛び出してくるのではないかというような感覚に見舞われた。
朝の通勤時、電車の中で急に背中が痛くなって、しんどくて立っていられなくなった。
いつもの駅まで何とか我慢したものの、降車するや否や、ホームのベンチを目指した。座りたくて。
そんな経験も初めてだった。
気絶するような本当の痛みは、更にその二時間後に体験することになる。
今更だけど、無理して水をたらふく飲んでみた。
まだ尿管結石だと決まったわけでもないのに。
本当に嫌なんだけど。
また、右腹がちくっちくって痛んだ。

k(CV:五ェ門)
道すがら、右の腹に痛みを覚えた。
ちくっちくっと。
突き刺さるような痛み。
何週間か前に、やはり同じような部位に微かな痛みを覚えたことがあった。
その時は、痛みというよりは、違和感といった程度のものだった。
「右の腹の痛み」で調べると、尿管結石はじめ、色々嫌な病気が列挙されている。
数年前、尿管結石で苦しんだ時は、背中の痛みだった。
もう少し様子を見てみよう。
痛みが継続し、もっと酷くなるようであれば、まずは内科に。
丹羽長秀を思い出した。

k(CV:五ェ門)
一周忌法要、やることに決めました。
迷いました。
悩みました。
今言えるのは、それだけです。
ごめんなさい。

k(CV:五ェ門)
しかし、そもそものお目当ての食材二品は、いずれも欠品だった。
そのうちの一つは、今後もう入荷されることはないのかもしれない。
価格が高止まりしたままの米の代わりの主食として買い求めてきたものであるが、それすらも口に入らないとなると、さて、本当に何を食べればよいのかと頭を抱えてしまう。
もう一つは、単純に人気商品故の欠品なのだと思う。安かったから店頭から消えた。それだけのことだろう。
いずれにしろ、依然として店頭に並ぶのは、同種商品の中でも、私がこれまで買い求めることのなかった高い商品ばかりだ。
問題の先送りにしかならないが、今日のところは買うのを諦め、その他の食材だけ買って帰った。
ほんの数年前までは、菓子を買うこともできた。
もちろん贅沢はできないが、無名メーカーの商品や輸入物であれば、たまには買い物かごに入れることもあった。
今は「甘いものが食べたい」と思っても、記憶の中の味を思い浮かべて終わりだ。
それでも、私ひとりで良かったとも思う。
扶養家族がいて、家族にひもじい思いをさせたとしたら、きっといたたまれないだろう。
自分だけのことであれば、我慢できる。
痩せた。ズボンがぶかぶかだ。

k(CV:五ェ門)
それでも、人も無謬ではない。
過ちを犯す。何度でも。
だから、誤ったら、過ちを認め、謝り、悔い改め、己を正さねばならぬ。
などと、偉そうなことを言いながら、そんな私が一番傲慢なのだ。きっと。
母もまた、過ちを認めぬ人だった。
99人が己と異なる意見を口にしても、自分が正しいと思えば、主張を曲げぬ人だった。
正義の塊のような、日和らぬ人だった。
そのような母に対し、私は若い頃から”毒親”と批判し続けた。
母の昔の言動について、私が指摘しても、
「嘘よ。そんなこと私は言っていない。言うはずがない」
そんなふうに否定することがあった。
ならば、私が己の見た夢を現実と思いこんでしまったのか。
それとも、妄想、幻覚か。
他人が聞けば誰もが驚く。
そんなとんでもないこと、信じがたいことを口にすることがあった。
言われた私は、一生忘れられぬほどの記憶として心に刻まれている。
それなのに、当人の中では、なかったことになっている。
だから、終生噛み合わなかった。
「この人は、話をしても無駄なのだ」
そう諦めるしかなかった。
傷つけ合いを避けんと、距離をとった。
なぜ今このようなことを書いているのだろう。
書いたところで、当人は既にこの世の人ではない。
相手の翻意を求めることはもはや叶わぬ。
ならば、何故だ。
私は、何を欲している。
そろそろ、自分の生きたいように生きよ。
自分自身の人生を生きよ。
自分のために、生きよ。
何度か叔父にそのように言われた。
私は、ずっと我慢して生きてきた。
それが叔父自身の独自の見立てなのかどうかは分からない。
その言葉の裏に、どのような真意があるのか私には分からない。
しかし、叔父の目には、私がそのように映っている。
インナーチャイルドとの対話か。

k(CV:五ェ門)
読者投稿欄にも、投稿者たち自身の類似の体験談が多々投稿されていた。
昔、職場の宿泊研修で、宿泊先の部屋で同室になった相手。
新人研修でもあり、お互い初顔合わせだった。
彼は人当たりは良さそうだったが、ある日の朝、洗面所に置いておいた私の歯磨きセットの歯磨き粉を彼が当たり前のように使っているのを偶然目撃し、驚いてしまったことがある。
「持ってこなかったから、使わせて」と一言断ってくれれば、私としては何も問題はなかった。
さも自分のもののように使っていることに戸惑ってしまったのだ。
自分の所有物と他人の所有物との間に境界がない。
世の中には、こういう人もいるのだなと思った。
ついでに思い出した。
ある部署で働いてきたとき、誰のものだか分らぬ剥き出しの歯ブラシが、そのまま私のデスクに置いてあったことがあった。
私が離席中の間の出来事。
周囲の同僚に向かって、「これ(歯ブラシ)、今、席に戻ってきたら、机の上に置いてあったんだけど、私のものじゃないんだよね。誰か、知らない?」
誰ひとり返事をしてくれない。
歯ブラシをかざして、固まっていた私に、わりと親しくしていた先輩が「もうさ、捨てな、それ」と不快そうに言ってくれた。
言われたままに、足元のゴミ箱に捨てた。
歯ブラシで思い出した。
また別の部署で働いていた頃の話。
昼休み、洗面所で歯を磨き終えた後、歯磨きセットを洗面台の上に置き、用を足すためにその場を離れた。
その間、20秒もなかったと思う。
洗面台に戻ると、私の歯磨きセットがない。
コンビニの傘でもあるまいに。
他人の使いかけの歯磨きセットなど、盗んでも仕方なかろう。
とはいえ、不注意者が誤って持ち去った可能性もなくはない。気付いた本人が戻しに来ることも考えて、午後の始業前、再度洗面所に戻ったが、私の歯磨きセットは、結局見つからなかった。
世の中、妙なことをしでかす人が存在する。
悪びれることもなく、呼吸をするように。
前述の研修時の同室のパートナーは、後年、同期の中でも一足早く昇進した。
仕事の遂行能力は高く評価されたのだろう。
しかし、私は、若かりし頃の彼が、私のチューブを勝手に使って歯を磨いていた場面が脳裏に焼き付いてしまって、以来、彼に対して、ずっと複雑な思いを抱くようになってしまっていた。

k(CV:五ェ門)
相談に訪れた甲斐はあった。
現時点では、当該機関の制度は利用できない。
しかし、今後、どのようなプロセスを経れば、利用できる可能性が生じるのかを説明してもらえた。
制度が利用できないであろうことは、私自身、事前に調べ薄々分かっていた。だからこそ、私が救済されるために不足している要件、してはいけない悪手、事前に備えておくべき措置などを押さえておこうと思ったのだ。
そのための考え方、理屈が確認できれば、私にとっては十分だった。
「このように行動しなさい」「こうしたらいい」という助言を求めたわけではないのだ。
今後の道筋が見えてきた。
庁舎に入る前には、ふわふわしていた頭も、庁舎を後にするときには、もやが晴れたかのように、少しはっきりとしていた。
と思ったものの、帰りの電車には、逆方面のものに乗ってしまい、数駅先まで気付かなかった。
自宅に到着すると、急に睡魔に襲われた。
自転車に乗ってカロリーを消費したわけではないが、予想外に疲れたようだ。
少し休もうと床に就き、再び目覚めた時は、既に夜だった。
私は、幼少時から、自分を頼ってきた人を無理に突き放すことができなかった。
その姿勢が、時に「周囲の人々から良いように食い物にされている」との虚しさに繋がることもあった。
世の中には、「エニアグラムタイプ2っぽいなあ」と感じる慈愛の人がいる。しかし、私は、自分をそのような生来の親切な人間とは思わない。だから、いつも苦悩する。己の他者への冷たさに。私の行動の源泉は、「こうあるべき」という使命感、義務感に由来するものでしかないからだ。
一方、だからこそ、私は、ドメスティックバイオレンスを働く人のように「誰のおかげで」などという発想を持たぬし、そういう言動で他者を支配しようとも思わない。
もしも誰かが恩義を感じてくれれば、それは、また別の誰かに還してくれればいい。
それだけのことだ。
私ファーストじゃなくていい。
あまり好きじゃないけどね。
最近、あちこちで目にするこの”ファースト”っていう言葉は。

k(CV:五ェ門)
私が指定金額を振り込まねば、法的措置を取ると。
今日がその期限。
私は請求書等、根拠書類の提示を求めているが、それには応えない。
母が亡くなったことそのものよりも、その後の世界の方がよほど地獄だ。
歴史を紐解けば、肉親が敵味方に分かれ、命を奪い合ったことはいくらでもある。
骨肉の争い。
親が生きていれば、決して起こりえなかったであろうことが。
我が身に降りかかろうとしている。
対応を検討するため、行政機関に相談しに行った。
ひとつめの機関では「貸金業者等事業者相手のことでないのであれば、管轄外」とすげなく断られ、弁護士への相談を勧められ、話を打ち切られらた。
私は、個別案件の対応というよりも、法律上の一般論を押さえたいと思い食い下がろうとしたが、「民対民、個人間の案件には応えられない」の一点張りで無駄だった。
今日は、自転車は使わなかった。
頭がふわふわする。こんな時に自転車に乗ったら、思わぬ事故を起こしかねない。
久しぶりに電車に乗った。車両が新しくなっていた。
現場まで直接足を運んだものの、いざエレベーターに乗ろうとしたところで、その機関の張り紙が掲示板に貼られているのが目に留まった。
”来所相談は事前予約が必要”
窓口まであと数秒のところまで来ていながら、庁舎のロビーから携帯電話で相談員に電話して終わった。
文字通り無駄足だった。
電話を終える前、申し訳程度に自治体の無料法律相談の予約のための電話番号を紹介されたが、この相談とて、確認してみたら年に一度しか使えない。今回の案件で利用すれば、今後、何か法律上のトラブルに見舞われても、それこそ、いずこかの弁護士事務所に直接相談するしかなくなる。
そんなことを考えながら、とぼとぼと力なく歩いていた。
もう一つ目当ての行政機関があった。
こういう”門前払い”の断られ方を一度経験すると、次また相談することに及び腰になる。
とは言え、このまま再び電車に乗って帰れば、ただの徒労だ。
駄目なら駄目という答え(管轄外の理屈)を押さえておこう。
そう思い直して、足を運ぶことにした。
執務室の前には、”事前予約”の断りはなかった。
職員の方に、相談の意図を説明した。
続く

k(CV:五ェ門)
いざ振り返ろうとしても、思うように目的の記事に辿り着けぬから。
こころの不調の発生原因。そこに至る経緯。
一連の記事を読んで、少し理解できた。
自分の身の回りの人間が去っていくこと、周りの人から捨てられることに寂しさと恐怖を覚えたのだろう。
この時期の記事に辿り着くまでの山ほどの記事にも目を通した。
母の死を知る数時間前の記事。
母の死を知った後の最初の記事。
手帳にこそ何も書けない日が続いたが、SNSには、その時々のリアルな気持ちが残されていた。
読み返すことで初めて思い出せたものもある。
手帳の記入は、6月15日(土)に再開している。
6月15日(土)Yさん訪問の件。LINEグループで弟妹に伝えると、妹脱退。どっと疲れる。不快に思うところがあったのだろう。
6月16日(日)△△にYさんを尋ねた。昼をごちそうになり、カフェでも嬉野茶をいただき、色々な話をした。次は、畑作業付きで来いと言われた。自分の良いところを信じろと助言された。
嬉しかったのだと思う。
実際には「自分の良いところを信じなさい」と言っていただいたと記憶している。お別れの際に。
そんな言葉を誰かからかけてもらったのは、いつ以来だろう。
お前はここがダメだ、あれがダメだという言葉であれば、何百、何千と言われてきた。
仕方ない。その人々にとって、私とはそのような人間だったのだろう。
彼らなりの”善かれ”がそれだったのだ。エピクテトス風に考えれば。
けれども、手帳の記述は、翌日から再び消える。
約一月。
来る日も来る日も、天井を見上げていた。
ひとたび沼に沈み込むと、浮上して沼から這い出るのは容易ではない。
一日二日、わっと元気が戻ったように見えても。
むしろ、勢いよく飛び上がったときほど、反動で大きく沈み込むこともあるから。
Yさんのお店を尋ねた際、ふたりの犬のうち、ひとりが大歓迎してくれた。
かつて実家で共に暮らした犬を思い出していた。

k(CV:五ェ門)
読み直した結果、消してしまった。
消す前の二行が今も頭に浮かんでいる。
書いた私はもとより、それを目にした人誰もが、不快になる。きっと。
それは、加害者への怒りというよりも、なぜ、そのような狼藉を好きにさせておくのかという私への不満、苛立ちを募らせかねない。
エピクテトス『人生談義』(『語録』第四巻 第五章 けんか好きで野獣のような性格の人たちに対して)を少し読んだ。
なるほど。
心が少しだけ穏やかになる。
目の前に彼がいたら、話をしたいと思った。
私が今囚われていることは、いずれも細事であるというふうに気づきが得られるかもしれない。
一方で、拭いきれない引っ掛かりも残った。
一部分だけ取り出して読むだけでは、その疑念は解消されまい。
30代の頃、職場で四面楚歌状態にあり、地獄が永遠に続くような思いに囚われて苦しい時期があった。
そのときも、いにしえの聖人の言行録などを読んだことを思い出した。
今、目の前にいる人、自分の周囲の人々だけが全てではない。
4月はじまりの2025年のダイアリーを購入したものの、依然として未記入のまま今日に至る。
失念してはいかぬ用件もいくつか出てきたため、Todoなど保険をかけておかねばならない。
そう思い立って、手帳を取り出してみた。
紙面を開くが、手が動かない。
書き方が分からないからだ。
習慣が無くなり、勘まで失ってしまった。
昨年のダイアリーを取り出し、昨年の今を確認する。
几帳面に記録してある。
こんなふうに、毎日ライフログを残していたのだ。
2024年5月20日(月)孤独に苛まれている。全ての不調の元凶。
5月21日(火)完全に気持ちが落ちた。うつかもしれない。
5月22日(水)自衛隊法について調べ。徴兵制とからめて。集団的自衛権で海外派遣の防衛出動命令を拒むと7年以上の懲役または禁錮。
5月23日(木)以降、紙面はしばらく空白が続く。
警察から母の訃報の電話連絡を受けた日。
一言日記欄によると、母が亡くなる前から私はこころに不調をきたしていたようだ。その手掛かりをあちこち探してみたが、特には見当たらない。
残るはSNSの投稿記事。それはそれは膨大な数に上るけれども、遡ってみた。
これがあるから、日々の記録を別の場所に残すことにしたのだ。
続く

k(CV:五ェ門)
支援チームの中にあった精神保健福祉士の名が目に留まり、放送をそのまま流し続けることにした。
少し前から精神保健福祉士に関心を持つようになった。
その存在自体は、昔から知っていた。
目下、私は、別の武器を手に入れるべく勉強しているけれども、それが成就すれば、次は精神保健福祉士の勉強もしてみたいと考えている。
番組で取り上げられていた被支援者の方が、脚立を所望する場面があった。
以前彼から預かった脚立を返してよいものかどうか、支援チームのメンバーの皆さんは迷っていた。
リスクを増やしたくない気持ちはよく分かる。
失敗には、取り返しのつくものとつかぬものがある。
悪い結果につながった時は、後悔してもしきれぬほど悔やむに違いなかろう。
”「人っていいものだ」と思えること。
すなわち、それは「自分が生きていていい」と思えるということだ”
精神科医の方がそんな趣旨のことを口にしていた。
既視感を覚えた。
色んなことが芋づる式に思い出された。

k(CV:五ェ門)
当然、ものになるはずがなかった。
私は錠一郎ではない。
空腹感を覚えた。
かつて足繁く通った店の前をいくつか通り過ぎた。
どこも例外なく高くなっていた。
今の私には縁のない場所だった。
どらやきが頭に浮かんだ。
甘いものが食べたくなった。
世に高級品があっても良いけれども、庶民から食べ物を奪ってはならない。
この世で空腹ほど辛く情けなく、悲しいものはない。
ガラス張りの飲食店の横を通り過ぎる時に、その惨めさを思い知る。
店の中に入れる者と入れぬ者。
ガラス一枚で隔てられた世界。
ペダルを漕いでいると、また新たなディスカウントストアを見つけた。
自転車を降りて、性懲りもなく、店内に入る。
先ほどの店よりも、美味しそうなものが並ぶ。
それでも、結局、何も買わずに店を出た。
今の私には、おいそれと買えるものではなかった。
先日どこかで読んだ大山澄太が山頭火の庵を訪れた際のエピソードを思い出した。
その日暮らしの乞食生活を送っていた山頭火が大山をもてなした話。
夜、大山が眠る間も、庵の隙間から風が吹き込むのを体を張って防いだという。
外は強い風がびゅうびゅうと吹いている。
少し疲れた。

k(CV:五ェ門)
先日同様、途中まで自転車に乗っていった。
勤めていた頃であれば、定期を使って電車に乗ってすぐだが、今はそういうわけにいかない。
お金もないので、時間と体力を費やす代わりにお金を浮かしてやりくりしている。
自転車に乗っている間、目に映る光景が何だかソフトフィルターを挟んだようで、夢現な気分だった。
気が緩むと、泣き出してしまいそうだった。
夜中であれば、人目を気にせず好きに泣くのだが、日中であるとそうもいかない。
「泣くな」と己に言い聞かせ、ペダルを漕いだ。
健康センターに自転車を停め、中に入る。
配架されていたグリーフケアのコンサートの案内チラシが目に留まった。
施設を出た後は、歩いて目的地に向かった。
知らない道を通った。
聞いたことのないディスカウントストアがあったので、中に入ってみた。
安いものがあるならば、押さえておかねばならぬと思って。
低価格の弁当があるにはあった。
だが、それを買って喜べるようなものではなかった。
価格を抑えましたと一目で分かる内容だった。
切なくなって、店を出た。
これといって収穫はなかったけれども、大学院時代に住んだ街の駅前のスーパーを思い出した。
懐かしくなって、辺りを意味もなく見渡してみた。
どことなく、街並みも似ている気がした。
少し歩くと、見覚えのある景色が現れた。
賑やかで猥雑な感じが強まった。
「親不孝」
路上のポールに書かれた文字が目の前に迫ってきた。
少し歩くと、同じ文字が再び現れた。
歩き進めるたびに、次から次へと現れた。
叱られているような気分だった。
用事を済ませた後、帰路にて、三線の音色を耳にして、足を止めた。
沖縄物産品の店の中で三線を奏でる男性と目が合ったので、お互いに会釈した。
そのまま店内に足を運んだら、何か運命が変わったかもしれない。
けれども、私は結局、そのまま帰路を進んだ。
かつて私は、沖縄への移住を考えていた。
三線も弾きたいと考えていた。
今、その道は選べない。
カムカムエヴリバディで、トランペットを吹けなくなった錠一郎が鍵盤に再起への活路を見出そうとしていた。
歌えない私も、かつて、色んな小楽器に手を出そうと試みた。加齢が障害にならぬものを楽しみたいと思った。
どれも本気になれなかった。
続く

k(CV:五ェ門)
将来の移住先の検討をする中で、小豆島も候補地のひとつとして調べたことがあった。
現在私は、とりあえず、母の年齢を超えるまで生きることを目標としている。
とはいえ、一方で、近い将来、突然死するといった未来予想図の方にこそ、内心リアリティを感じている。
もっとも、これまでだってずっと、自分が長生きできるなどとは思ってこなかったけれども。
今日も若い著名人の訃報を目にした。原因は心不全。
私と何歳も変わらない。
まず体に深刻な異変が生じ、余命宣告を受け、多少の誤差はあれど、その年限で命を落とす。
そういうことであれば、ある程度、覚悟もできる。
しかし、何の予兆もなく、文字通り突然死を迎えてしまったら、本人にはどうしようもない。
私は、どちらになるのだろう。
ペダルを漕ぎながら、そんなことを考えていた。
とはいえ、昨夜の番組のように、寝たきりになるまで生きている未来だって当然起こりうる。
「助けてもらわないかんから」
弟と妹は、母の面倒を見たのは自分たちだと叔父を前に主張した。
そうして自分達の功と労を口にした彼らが、同じ口で互いに相手の非を論い、罵り合う。
「お前が一体何をしたのか」と。
私が責められるのは仕方ない。
それでも、彼らが互いに詰り合うのは、違うだろう。
それはいったい、誰のための、何のためのものなのか。
母は、どこかでこのやり取りを眺めながら、何を思っているだろう。
妻子を残し、いち早くこの世を去らねばならなかった父は、何を思っているだろう。
こういった中途半端な他者視点での思考が、そもそもの誤りなのかもしれない。
彼らにしてみれば、彼らの側に立たぬ私に最大の欺瞞と不満を感じてきたのではないか。
「外面だけ良いナルシスト」
「売国奴みたいなことをするな。この家の人間として振る舞え」
自分が報われぬことへの不満。
そういうことを口にしたことは、記憶するかぎり、ほとんど、ない。
子どもの頃から、そういう発想がなかった。
「誰のおかげで」
こういう言葉を突き付けられて、
「もう二度と助けてやらない」
そのように突き放されたことが何度かあった。
対価と称賛を求めて行動する。
そういう発想を持ったことがない。
だから、見返りを拒むことを咎める人がいることが、私にはよく分からなかった。

k(CV:五ェ門)
室内とは打って変わって、外は暖かかった。
往来で目にするのは既に葉桜。桃色に緑色が混じっている。
私の知らぬ間に、春も終わろうとしていた。
彼は、母と離れるのを何よりも嫌がった。
母の毎朝の出勤だけは諦めていた。
どんなに泣いて引き留めても無駄だと分かっていた。
母が出かけた後、彼は、二階の母の部屋に入り、母のスーツなど衣類の匂いを嗅いでは「オゥル」と喉の奥から声を絞り出して、悲しみに暮れていた。
ペダルを漕ぎながら、彼を思い出していた。
桜並木を一緒に散歩した。
彼は外に出ると、本当に嬉しそうだった。
彼が亡くなった後、母がメールに書いていた。
街のいたるところを彼と一緒に散歩した。
だから、どこを歩いても、彼のことを思い出してしまうと。
生前、彼が何度か夢の中に現れた。
夢の中では、彼と話すことができた。
夢の中で、彼に尋ねた。
「言葉、話せるようになったんだね」
「そうだよ。話せるよ」
夢の中で、一緒に空を飛んだ。
楽しかった。
彼がいなくなって10年。
未だに思い出にすがって生きている。

k(CV:五ェ門)
彼の骨は、未だに実家にある。
墓を決められぬまま、実家の母が亡くなり、そしてそのまま今に至る。
母が亡くなった後、兄弟に彼の骨の件も相談したが、返事がなかった。
その後、兄弟との関係もみるみる悪化し、どうにもこうにもならない。
それでも、彼のことだけは何とかせねば。
愚かな我々のいがみ合いに巻き込んではならない。
今のようなにらみ合いの状況では、話が何も前に進まない。
だから、せめて彼の骨、墓のことだけは、母の相続問題とは切り離して、私に一任してほしい。
そういった趣旨のことを書いて、メールで送った。
とりあえず、私が今暮らす部屋に彼を連れて帰り、手元に置いておこう。
彼の骨と墓を最終的にどうするか決めるまでの間。
「連れて帰る」
自分で打ち込んだその言葉を見つめていたら、涙がこぼれた。
彼がこっちの私の部屋に来るのは、初めてだ。
本当に申し訳ない。
生前の彼を思い出した。
本当に申し訳ない。

k(CV:五ェ門)
入居時から8年弱、共に過ごしてきた。
新しい芽も生えてこず、現存する葉は既に枯れかけている。
これ以上の延命は難しいと判断した。
今まで使っていなかったインテリアライトも処分した。
いずれも、母にゆかりのあるものだ。
兄弟間で、互いに相手の幸せを喜んだり、望んだことがない。
「内心では」とか「本音では」などという逃げ道を残すのは、やめておこう。
我々が、そういう言葉を交わし合ったことがないのは事実だ。
この際、他の兄弟のことはいい。
私自身がそうしてこなかったと、はっきり言わねばならない。
他の兄弟を引き合いに出し、連帯責任のように語るのは卑怯だ。
始まりが私であるならば、元凶もまた私。
皆、因果応報なのだろう。
いや。
兄弟どころではない。
私は、そもそも他人の幸せを喜んだことがないのではないか。
これまで、そこまで悪辣に生きてきたとは思わない。
ただ既存の罪に触れないというだけのことだった。
「邪魔」
ある日、突然言われたことがあった。
誰かの意向で、世界は一変する。
ここ数日、また日記の未定稿が溜まった。
朝起きて、鏡を覗くと、右目が真っ赤に充血していた。
昨日から目がかゆくて、終日涙を流していた。
くしゃみを繰り返し、鼻をかんで。
右脚の火傷のアフターケアのための薬を塗り終えた後、ジャージのチャックを下ろしたら、引手だけがそのまま外れた。
既視感があったので、驚かなかった。
もう20年以上着続けている。壊れても不思議ではない。
私は物持ちが良い。
このジャージもそろそろか。
そんなことが頭をよぎっただけだった。
長年付き合ってきたものが、私の周囲から消えていく。
牢獄の中で鎖に繋がれている。
同じことの繰り返し。
過去にのみ囚われている。

k(CV:五ェ門)
ここ数日、とりわけ、今日はすごい。
滝のように鼻水が流れ落ちる。
ティッシュペーパーひと箱を一日で空にしてしまう勢いだ。
最後の帰省の際、母への土産で購入した煎茶。
母は、「ありがたいね」と口にしたが、二袋のうち、一袋は開封されることなく終わった。
きっと、大事に大事に飲んでくれたのだろう。
その姿が目に浮かぶ。
次の帰省まで待たずとも、新しいものを送ったのに。
それは、断るだろうな。母ならばきっと。
残りの一袋は、母のいなくなった実家から持ち帰った。
自分で買った土産の品なのに。
持ち帰ってからしばらく経つが、これまで封を切る気になれなかった。
いつも、他のお茶を飲んできた。
このお茶は、母に飲んでもらおうと思って買ったものだ。
一度は、母の手元に渡ったお茶だ。
母とて、あと数か月かけてゆっくりと楽しむつもりだったにちがいない。
どこにでも売っている普通のお茶だが、「ありがたい」と言って飲んでくれたお茶だ。
私が土産を渡す機会は、永久に失われた。
空気がとても乾燥している。喉が重い。
私は、元来、水分をあまり摂らない。
3年前、尿道結石で苦しんで以来、母からは毎日水分を多く取るようにとことあるごとに注意を受けた。
お茶を飲もうと思ったが、使いかけの茶葉がなかった。
実家から持ち帰った茶葉を使うことにした。
私の地元、これは故郷という意味ではなく、私が暮らしてきた生活の地という意味の地元のお茶だから、私はこれまでも何度も飲んできたはずのものだ。
それでも、やっぱり美味しかった。
母に飲んでもらいたかった。
私は、これまで、陰膳というものに、あまり意味を見出せなかった。
自ら進んでそれを用意したいという気にもなれなかった。
毎回、帰省のたびに、土産を持ち帰れば、まずは父の仏壇に供えた。
それでも、亡父に楽しんでほしいと本心から望んでいたわけではなかった。
しかし、今は、故人を偲び、陰膳を用意する人々の気持ちが理解できる。
山頭火が亡母にうどんを供えた気持ちも分かる。
父にはこれまで申し訳ないことをした。
母亡き今、私が在りし日の父の話を聞ける相手は、もういない。
私は愚かだ。
何十年もの間、父の好物を知らなかったことに初めて気付いた。
生前一度だけ、母にお茶を点ててもらったことを思い出した。
私とともに全て終わる。

k(CV:五ェ門)
愛されたい、愛されたいと。
そのくせ、己は餌を運ぶ側には回ろうとしない。
親として生きるということは、理屈ではない。
ただひたすら、愛だ。
見返りを求める者は、親にはなれぬし、なってはいけない。
そのような者は、親ではない。
子どもがいるから、親なのではない。
親として生きるから、親になるのだ。
利に敏い亡者であふれかえるこの世界は、まさしく末世だ。
こんな醜き生き物をこの世に残してくれてありがとう。
今、あなた方は、この地獄絵を眺めながら何を思うか。
先に消えるべきは、我々だった。
本当に、申し訳ない。
こんなふうにしか生きられず、申し訳ない。
あなた方の面前で、謝りたい。

k(CV:五ェ門)
よかったあ。私の出番が生まれなくて。財布にはちょっとお金も入っていたし。
今度は自分が連中と目を合わせて、因縁を付けられてはつまらないと思い、その場で即座に回れ右をする。
一仕事終えたとばかりに満足げに店に入っていく坊や達と入れ違いに、哀れなカップルが店を出てくる。かわいそうに。まだ食べ終わっていなかっただろうに。もったいない。
黒髪の若者は上着のシャツをしきりに確かめている。心なしか、シャツは伸びてよれよれになったように見える。ただ、五体満足で解放されて良かったね。不幸中の幸いとはこのことぞ。連れの女性も何もされなくて良かった。
表通りにはパトカーが一台見えた。ひょっとして今回の件で呼ばれたパトカーだろうか。だとしたら遅い。もう全て終わった後だ。
それにしても、割り切れぬ思いが残る。
結局、お行儀の悪いチーマーは野放しのまま。善良な市民に恐怖感が残っただけ。
一番大きいのは、自分自身が何も果たせなかったという無力感だろうか。
例えば、全てが終わった後ではあるが、ひとり店に戻り、彼らにお説教を、というシミュレーションも脳裏をよぎったが、その後の展開では、彼らからの失笑もしくは、それこそ今度は自分が裏道に連れて行かれボコられて財布を取られるというイメージが浮かぶのみ。それはそれで一興なのだが、果たして意味があるのだろうか。平成日本のドン・キホーテよ。まあ、サンダーバード事件の二の舞だけは回避できたので、そのことだけでも良しとしようか。
しかし、やっぱり割り切れぬ。
せっかく見つけたお代わり自由の定食屋なのに、、、ってそっちの心配かよ。
以上、再掲終わり。
なお、再掲手記の中では特に触れていないが、私は、少年たちの後を追って店の外に出た後、
「ああ、今日で死ぬんだな。俺、死ぬんだな」と心の中で何度も繰り返していたのを覚えている。
こんな事件が起こった店なのに、私はその後も懲りずに足繁く通った。
現在のように、価格が高騰化する前の話。

k(CV:五ェ門)
初めは、記憶を頼りに一から書くつもりだったが、当時書き残した文章があったことを思い出し、探してみたところ、しっかりと残っていた。
改めて読み直すと、今の記憶と多少食い違う部分もあるが、事件発生当日に書いたものなのだから、より事実に近いだろう。
現在の私の文体とは些か異なるが、ほぼそのまま再掲する。
日曜日は開店している定食屋が少ない。普段利用する店は皆閉まっている。普段は何とかやりくりしていたのだが、今宵はどうしても外で定食を食べたい。そこで、いつもの店よりは少々高めの値段設定だが日曜日も開いている駅前の定食屋に食べに行くことにした。初の試みである。
本音を言えば、その値段の高さゆえにあまり気乗りしなかったのだが、実際には満更でもなかった。
その店は定食を注文すると白ごはんがお代わり自由であった。それは、さして珍しいことでもなさそうが、この近辺では、このシステムを適用する店はもはや無くなっていた。しかも、それだけではない。この店では、ごはんのおひつが店内に設置されており、自分でお代わりしたい時に店員の目を気にすることなくお代わりに行けるところが特徴であった。
「居候、三杯目にはそっと出し」ではないが、お代わり自由と銘打たれていても、「すみませーん、お代わり下さい」と店員に申し出るのはなかなか勇気のいることである。
「自由っていうことは何回でもしていいってこと?」などと、誰でも頭の中では一度は考えるだろうが、実際に複数回お代わりなどできるものではない(※私は幼少の頃、某ラーメン屋で二回目のご飯お代わりを申し出ようとして母親に制止されたことがある。「どうして?お代わり自由ってなっているよ」と反論したものの許してもらえなかった。しかし、今では母親の気持ちがよく分かる)。
しかし、この店では客に心おきなくお代わりしていただこうと気配りしているのだ。何ともうれしい心遣いではないか。しかも、定食を注文した際に、店員はこう言った。
「お代わりのご飯はあちらにございます。ご自由にどうぞ」と。
完璧である。
しかし、喜びに浸る私を一転戦慄に陥れる出来事が起きることを、この時の私はまだ知らない。
続く

k(CV:五ェ門)
それが幸せなことなのかどうかは分からない。
しかし、土下座を強いられた人であれば、知っている。
小学5年生の時のことだった。
5年生と6年生の合同で、校内バスケットボール大会が開催された。
学年の枠を取り払って、同じ組の先輩後輩でチームを作ることとなった。
もしかしたら、6年2組と5年2組だけでの取組だったかもしれない。
2学年全体だったら物凄く大掛かりな大会になったはずだから。
我々のチームは、5年生4人と6年生1人。
今思い出せる面子を数えればそうなる。
試合には敗れた。
事件はその後に起こった。
チームメイトだったふたりのクラスメイトが、他の試合を観戦中に、笑っていた。
その姿を見咎められた。
「お前ら、何ヘラヘラ笑ってんだ。負けた後なのによ。おい、お前と、隣のお前、立て」
「お前らがそんなんだから負けたんだろうが。気合入ってねえんだよ」
「謝れよ。誠意見せろ。ついてこい」
同じチームメイトだった6年生にいきなり凄まれて、ふたりは校舎内の男子便所に連れて行かれた。
6年生の隣には、我々のクラスメイトのはずの5年生がひとり、付き従っていた。
まるで、自分も上級生側の仲間であるかのような顔をして。
私は、6年生に指名されなかった。
目の前で起こる事態に何一つ口を挟むことなく、ただ傍観者として存在した。石ころのように。
私は、クラスメイトが便所に連れて行かれるのを覚えている。
しかし、彼等が土下座をしたという事実の記憶はずっと持ち続けてきたものの、そのことをどうやって知り得たのか、その記憶自体が曖昧で、今となってははっきりと思い出せない。
私は、その後、コートで展開される試合を眺めていた。
ゲーム内容は全く記憶にない。
眺めていた自分の姿だけが記憶に残っている。
しばらくして、6年生と腰巾着の5年生が戻ってきた。
体育座りをする私の顔をふたりして覗き込み、顔の前で手のひらをヒラヒラさせた後、
「何か固まってるな」
と一笑いして、去っていった。
「お前らだって笑ってるじゃんか」
心の中で私はひとりごちた。
その後、連れて行かれたクラスメイトふたりも帰ってきた。
私とは何も言葉を交わすことなく、黙って私の横を通り過ぎていった。
私はもはやそこにはいなかった。
いたはずなのに、いないのも同じだった。

k(CV:五ェ門)
その間も、絶え間なく、いろんな思いが湧きおこるに違いない。
だからといって、書けば書くだけ、心も荒む。
その先に、救いがない。
逆か。
荒んだ思いをただ吐き出しているだけだ。
充電せねば。
いつの日かまた。

k(CV:五ェ門)
私の中でも線引きがある。
ブログでも、自分では個人情報を極力排してはいるものの、実名で投稿しているとの覚悟は持っている。
それ故、現実に実名で同じ記事を公開投稿するだけの覚悟が持ちえないものは、公開しない。
それは、私自身の保身はもとより、関係者のあることだからだ。
” 家庭は牢獄だ、とは思わないが、家庭は沙漠である、と思わざるをえない。
親は子の心を理解しない、子は親の心を理解しない。夫は妻を、妻は夫を理解しない。兄は弟を、弟は兄を、そして、姉は妹を、妹は姉を理解しない。――理解していない親と子と夫と妻と兄弟と姉妹とが、同じ釜の飯を食い、同じ屋根の下に睡っているのだ。
彼等は理解しようと努めずして、理解することを恐れている。理解は多くの場合に於て、融合を生まずして離反を生むからだ。反き離れんとする心を骨肉によって結んだ集団! そこには邪推と不安と寂寥とがあるばかりだ。”
種田山頭火「砕けた瓦(或る男の手帳から)」から引用
こういったレベルのことを一般論として述べるのであれば、誰も問題視などしない。
しかし、それが個別具体の話に及んだ時に、当事者の名誉棄損などの問題に発展しうる。
※名誉毀損罪の構成要件:「公然性」「事実摘示性」「名誉毀損性」
私の書く文章は、描写が細かく具体的。五感によるものが多い。
頭の中に浮かぶ映像を文章に落とし込むからだ。
エピソードそのものを排すると、手足を縛られたようで、何も書けなくなる。
エピソードの中に、私の主張が含まれているから。
そういった意味では、本当の意味での日記は、オフラインで書くしかないし、書けない。
その中に書かれている内容が、どんなにおぞましい地獄絵図であろうと、他人に見せることを前提としないもの、本人が秘しているものであれば、それは勝手に盗み見た側の自己責任だ。
見られることを前提に無害な内容に終始するか、見られるが故に「誰も見てはならぬ」と誘い文句を掲げておきつつ、思いきり地獄を描くか。
具体のエピソードを描きつつも、そこに何ら情念を感じさせることなく、淡々と事実の羅列で終わらせる。「首相動静」のように。
そんな書き方もある。
宮沢元首相の日録などは、そのように書かれたメモではなかったか。
私のは手記だ。

k(CV:五ェ門)
この一年間。
弟や妹から「てめえ」「おまえ」と何度か呼ばれてきた。
それは、二人称としての私に向けた言葉にかぎらない。
「どこそこ(地名)の彼」
弟が妹に対し、私を指し示す際にそのように呼んでいた。
そのやり取りのスクショを私に平然と見せられる神経にも驚いた。
私は、何よりも、そのことに最も傷ついたからだ。
どこの世界に、自分の兄弟を隠語めいた呼び名で呼ぶ者がいようか。
他者との対話の中において、文脈上必要に迫られて使用した三人称代名詞というわけではない。
私の名前を呼ぶことを心底嫌がる心情がありありと読み取れる。
そういった私の感覚は、邪推にすぎるのだろうか。
そして、不安は杞憂には終わらず、現実のものとなった。
私を「てめえ」呼ばわりする弟は、妹から「おまえ」呼ばわりされると、「暴言を吐かれ、罵倒された」とその非をあげつらう。
こんな滑稽なことがあろうか。
その弟が、妹との議論において、私の意見を引用する際に使用したのが「氏」であった。
私も参加中の場において、私を呼ぶにも等しいのに、当人の面前で「氏」って、おかしかろう。
私の名前を使って議論した挙句、妹に好きに言い返されて、再反論することもなく沈黙して終わった。
後で弟に抗議した。
他人の名前で戦をするな。他人の名前を隠れ蓑に使う以上、最後まで責任を持てと。
南海トラフ想定死者29.8万人。
30年以内の発生確率80%程度。
日本地図上に示された市町村別最大震度は、広範囲にわたり7が並ぶ。
かつて移住を夢見た候補地の多くが、皆、大地震の被害に見舞われることだろう。
これでは、日本国内どこにも逃げ場がない。
こういった記事を4月1日という日にでかでかと載せる。
悪い夢であってほしい。
けど、本気なのだろうな。

k(CV:五ェ門)
子どもの頃に住んでいた町の家の近所にあったラーメン屋のラーメン。
店の名前も覚えている。
今でいう『町中華』の店。
ただ、そのラーメンは子どもごころに美味しくなかった。
それは、単に味覚が子どもだからということでもなかったと思う。
今思い出した味も、美味しくなかったから。
私は、母にそのことをありのままに伝えた。
「美味しくない」と。
酷いことを無遠慮に言ったものだと思う。
私は、母の作った料理をけなしたわけではない。
また、その店に連れていかれることを拒んだわけでもない。
ただ、不味いものを不味いと言っただけだ。
店で食事中にその感想を口にしたわけでもない。
だから、それが問題のあることだと思いもしなかった。
けれども、私のその発言は、母のこころをいたく傷つけたことだろう。
理由を挙げればきりがない。
私は、基本的に食べ物を残さない。
食べ残すことに罪悪感を覚える。
そもそも、残さねばならないような事態は招いてはならないと考えている。
だから、人が大勢集まる宴会の類は嫌い。
恥はかき捨てとばかりに、大量の食べ残しが発生するから。
発生すること自体より、それを何とも思わず、そのまま後にする空気、群集心理が嫌。
もっとも、雇用労働者を辞めた私が、今後そのような宴に参加する機会は、そうそうなかろうけれど。
中学生の頃まで、私にとって、ラーメンとは外食で食べたいと思うものではなかった。
どの店のラーメンも、あの味だと思い込んでいた。
昨日、私の住む町に、新たなラーメン屋が開店した。
今の私には、外食をする金銭的余裕などない。
飲食店にまつわる新たな思い出も、増えていかぬことだろう。
こんなふうに、過去の記憶をたどるだけ。
限られた同じ記憶を、何度もなぞるだけ。

k(CV:五ェ門)
時間だけで計算すれば、そこそこ長く眠ったことになる。
しかし、ひたすら夢を見ていた。
その間、目まぐるしく思考していた。
目覚めてすぐに思ったのが「疲れた」という感想だった。
初めての経験ではない。
こういうことはよくある。
頭を働かせると、疲弊する。
睡眠が睡眠の役割を果たさない。
それを食い止めるためには、眠剤服用により、強制的に深い眠りにつくしかない。医師の処方が必要だ。
しかし、そこに至っては、もはや精神疾患だ。
床を上げ、検温した。
微熱があった。再度測り直しても変わらなかった。
今週、寒暖差が激しかった。
と思い、過去の天気記録を確認したが、今週にかぎって見れば、さほど変化はない。既に最高気温は各日とも20度半ばだ。
しかし、私自身は、未だに真冬の重装備で暮らしている。昨日は、寒さすら覚え、暖房とパネルヒーターを頼り、暖を取った。
もしかしたら、風邪をひいたのかもしれない。
精神的ストレスと風邪の症状がたまたま重なったため、精神的負担にその原因を求めたのかもしれない。
もっとも、同様の体験は、過去何度もしてきているから。
本来ならば、この時間は長風呂を楽しむはずなのだが、熱があるのは少し厄介だ。
他人に食い物にされぬためには、自分が食う側に回らねばならない。
一言で言えば、そういう主張だった。
露悪的と思えるほどに、徹底的に相手をいたぶり、蔑む言葉に終始した。
その中のひとつに、
「そんな人間だから、いじめられるんだろ」
というものがあった。
何と酷いことを言うのかと思った。
しかし、言われた当人も、それを受けるや否や、
「黙っていたから、食い物にされただけ。だから私は決して黙らない」
と今の自分に至った背景を示した。
彼女は彼女自身のために参戦したのであり、別に私の肩を持つ意図など微塵もなかったことだろう。
別にそれはそれで構わない。
私は、倦んでいた。
もはや、どちらの言葉にも口を挟む気になれず、通知オフをタップし、放置した。
静寂は続かなかった。
彼がそもそもの標的である私に向けて、別窓で矢継ぎ早にコメントを送ってきたからだ。
ピンころりん、ピンころりんと通知音が鳴り止まない。
再び通知オフをタップし、スマホを視界から遠ざけた。
気が付くと、子どもの頃のことを二つ思い出していた。
いずれも虚しかった。

k(CV:五ェ門)
私が飼育家庭の一員だったという特殊要因はあるにしても、我が家を訪れる人間誰もが、相好を崩しながら口にした。
「これでは番犬にはならないね」と。
人が我が家を訪れるたびに、玄関まで駆け下りていって、歓迎した。
そんな彼にとって、嬉しくないこと。
路上で出会った他の犬から尻の匂いをかがれるのは嫌がった。
彼の方から相手に吠え立てて威嚇したり、追い払おうとすることはなかったけれども。
茂みの中に潜む野良猫からにらみつけられるのも嫌がった。
静かに目をそらして、その場からそそくさと立ち去った。
仕事の都合で数年間、実家に全く帰省できない時期があった。
久方ぶりの帰省の際、家に辿り着く前に、母に連れられて往来を散歩中だった彼と遭遇した。
遠くから私に気付いた彼は、私に向かって猛然と駆け寄ってきた。
私のことを忘れずにいてくれたことが嬉しかった。
何と呼べばよいだろう。
職業をそのまま書けば、精神科医ということになる。
その方の印象について、偶然目にしたあるブログでは
”弱さ””優しさ”という言葉が選ばれていた。
そして
「その威圧感のなさが、精神科医としての優位点かもしれない」
と結ばれていた。
筆者に悪意は微塵もなかったかもしれない。
それでも、私は、引っ掛かりを覚えた。
その言葉の指し示すものが、他者に対する”害意のなさ”であるならば、同意する。
ただ、私はそれを”弱さ”と呼ばない。
そういう言葉で評価する発想がない。
数日前、あるSNS上で、小話投稿を目にした。
自分の交際相手に対し、店員があれこれうるさいことを言うので、”強面”の自分が代わりに前に出たところ、店員は打って変わって黙って従ったという。
嫌な読後感が残った。
既視感を覚えた。
彼が亡くなって今年で10年になる。
彼の17年間の一生のうち、早くに実家を離れた私が彼と共に過ごせた時間は、ほんのわずかだ。
それでも、私は、彼と巡り合えたことを幸せに思っている。
生きているかぎり、決して忘れない。
なんだかとても疲れた。
ぐったりしている。
早めに寝ようかね。
そんなこともある。
きっと、これから何度でも。
逢いたい。
一緒に走りたい。

k(CV:五ェ門)
そうやって表に出さずに終わった手記の未定稿がいくつもある。
未定稿というほどのものでもないな。
書きかけなのだから、気持ちの残骸とでも言っておこうか。
今しがた、嫌なことがあった。
本当に嫌なことがあった。
今の気分を誰かに共感してもらうためには、隣に同席して、私が見聞きするものを共に味わってもらうしかない。
今、これを文章に書き起こしたいとは思えない。
嫌でも追体験することになる。
魂が削られ、生きているのが嫌になる。
過去にも何度かこんなふうに、ふわっとした記事を残したことがあった。
たとえ個別具体の内容は思い出せなくても、その時に私のこころに何が起こっていたのかだけは明らかだ。
追記
少し前、森川すいめいさんのドキュメンタリーを観た。
すいめいさんは「自分を赦す」と言っていた。
私も、私を赦したい。
きっと赦す必要がある。

k(CV:五ェ門)
これまではそのようなスタンスを取ってきたが、最近は少し考え方に変化が生じ、電話に出るよう努めている。
午前中、一本の電話があった。
例によって、見覚えのない番号であった。
+88806312☓☓☓☓
相手が話し出すのを待つと、聞こえてきたのは自動音声であった。
”法務省”、”法務局”、いずれであったかは正確に覚えていない。
ただ、法務省系の行政機関からの電話であると先方が名乗っていたのは間違いない。
当方に番号を選択押下することを求めてきたが、メッセージの途中で電話が切れて終わった。
後でインターネットで調べると、法務省から注意喚起がなされていた。
法務省からそのような電話を掛けることはないと。
電話番号はブロックしたが、おそらく使い捨てのものだろう。
調べたが何も出てこなかった。
その昔、実家の母あてに『オレオレ詐欺』の電話がかかってきたことがあったらしい。
相手は自分の息子から。私ではない。弟の名を騙る人物。
よりによって、弟が母の目の前にいる在宅中に電話をかけてきたとのことだ。
「ほら、今、”あなた”から電話がかかってきている」
そう言って、偽物からの電話を本人に受けさせたと。
私は、自分がその手の詐欺には絶対に騙されるはずはないなどと過信はしない。
相手の顔の見えぬテキスト空間では、まんまと騙されることが起こりうる。
直接やり取りしたことのある人物本人であればまだしも、その関係者を名乗る相手となれば、おそらくアウトだ。
小学生の頃、学校で注意喚起を受けたことを思い出した。
「お父さんが交通事故にあった。私はあなたを病院まで連れていくよう頼まれて迎えに来た。急いでこの車に乗って」
自分の知らない人から家族の緊急事態を持ち出されても、決して慌てて着いていってはいけないと。
子どもの頃、その言いつけを守ることは、さして難しくないと思っていた。
しかし、そのような状況下で本当に慌てずに冷静に対処できるだろうか。
もしも相手が限られた身内しか知りえぬ事実を口にしたら、その一言で相手を信じてしまうのではなかろうか。
私は自分を過信しない。
それが分かっていながら。
生来の間抜けなのかもしれない。
相手を疑うことに疚しさを覚える。
「騙されてもいいや」と諦めてしまう。
そしてまたひとりになる。