
高橋メンタルつよ太郎
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見たくもないのに

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回答数 54>>
まず自分の意識以外の全ての存在者についてですが、それらの個体性が、それが対象として意識されることに依存している、ということは比較的容易に示せるかと思います。例えば今あなたはスマホの画面を見ている訳ですが、そしてもちろん、スマホをある一つの個的なものとして見ている訳ですが、しかし当然、それはより微小なレベルで見れば部品から成っており、さらにより微小なレベルで見れば原子から成っており、さらにより微小なレベルで見れば……というふうにより微小なレベルでの存在者を個的なものとして対象化することが可能です(このことは逆方向、すなわちよりマクロな方向にも可能)。よりミクロなレベルの個的なものを意識しているとき、あるいはよりマクロなレベルの個的なものを意識しているとき、スマホが一つの個的なものである、ということは廃棄されています。スマホが一つの個的なものであるのは、スマホを一つの対象として立てる限りのことなのです。他の全ての(対象化されることにその存在の根拠を持っている)存在者についても同様です。
さて、意識が一つの個的な対象を「一つの個的な対象」として立てることが出来るには、意識のほうが、一つの、なんらか個的なものであるのでなくてはなりません(そうでなければ「一つの、個的な」という語の意味が理解不可能なものになるでしょう)。
ここで辿り着かれたところの意識の個体性は、しかし、それ以上遡ることの出来ないものであるように思われます。私の意識が個的なものではない、という事態を我々は全く想像できないためです。例えば、何らかの自然的な偶発事によって他者の心を知れるようになったり、あるいは何らかの形而上学的アクシデントによって一切の意識が一つになることは、もちろん論理的には考えられます。しかしその場合でも、我々は、その時の意識を、一つの自分の意識の拡張としてしか理解できません。言い換えるならば、意識はそれ自体として複数であることは出来ないということです。
文字数制限が来ました。以上の記述によって個体性の底にまで至れたかと思います

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↑の感情を、『マルチチュードの文法』を読むと理論的に語れるようになる

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いつもよりインクが青い
↑
結局夜まるで眠れなかったたため。

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