とまと
医学生
おねんね検定勉強中(u_u)
学生
とまと
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キレイな場所で働いている方たちに教えます
風に限らず一般社会でも共通の話しかしません
• 人間関係のトラブルの8割は、人格ではなく契約不明瞭性から起こる
• 問題の多くは性格ではなく、役割・責任・報酬の不明確さから生じる
• 相手の要求に応えるといずれそれは要求ではなく「前提条件」に変化する
• 人は欲望を否定するのではなく、欲望を「美しい言葉」に翻訳することで生き延びる
• 相手を尊重しすぎると、相手は自分を尊重しなくなる
→ 対等性は自己主張の量でしか保てない
•「頑張っている」は評価軸にならない
→ 評価されるのは成果か、希少性か、代替不可能性のみ
• 世界に希望があるかどうかは重要ではなく、
自分が操作可能領域を持っているかどうか
• 更新を拒む者は、同じ場所で何度でも壊れる
• 誠実さは、相手が誠実なときにのみ美徳として成立する
• 人は与えられたものではなく失うかもしれないものに最大の価値を感じる
じゃあこの仕事してて現実ばっかり知って損じゃない?と思ったら間違いで
「世界は優しくない」
→ だから絶望、ではなく
「世界は優しくない」
→ だから主体性が生まれる
この反転ができた
全部構造だと知った瞬間に、自発性がいかに大切で、むしろそれでしか自分は変わらないと気づくからストイックになれるんだよ⭐︎
悪い世界じゃない。
まあこうやって「こじつける能力」もこの世界で身につけた。
とまと
とまと
私がヌーディーなメイクで異様に成立するのは、
例外でもセンスでもなく構造の問題だったんだ。
コントラストの強い黒髪・黒目なので私の顔面はすでに明度差・彩度差・情報量が過剰な状態にある。そこへさらに冷たいビビッドを全面投下すると、造形は完成するが余白が消えてしまう。
結果として残るのは洗練ではなく、無機質。
だからヌーディーメイクでやったのは逆算で、
・骨格と目元で「冷・硬・構造」を担保
・口元と肌で「温・柔・未完成」を意図的に残す
このコントラスト操作によって完成度を一段落とし、ムードを一段上げていたんだ。
ブルベ冬に本当に似合うのは足し算で強くする美じゃなく、削ぎ落としたあとになお残ってしまう情報だけで成立する美というかなんというか。
だから引き算の結果として残ったムードこそが、最も知的で、最も色気のある答えなんですね。
「美は感覚ではなく、情報量の制御」という美容ガチ勢の母の言葉を思い出した
とまと
でも、「私の日々の営業でお客様のお金をここまで使わせたんだ、まあまあすごいじゃん。いや、すごいのは自分じゃない。客の神経だった。」と思う以外嬉しいとかもなくて自分の心がそれに気づいた時成長したんだなって安心した
相手をひきつける魅力も美貌も学歴もぜーんぶ結局未来稼ぐための踏み台にしたくて維持させてるのであって、それで自己肯定感が上がるかというとそうではないよなあって確認できた
私の自己肯定感は、自分との約束を毎日守り続けることで得られて、その守り続けた結果の今の私だから、無条件に自分が好き
もう私の自己肯定感は、これから周りの人には高めてもらえないんだなって思った
とまと
とまと
知り合いの皮膚科の先生や大学の専門教授も、資生堂でも韓国製でもなく、POLA使ってる方が異様に多い。
こんなに静かに狂ってるスキンケアブランドないなぁ。
POLAが一番えげつないのは
肌=臓器
美=主観
満足=感情
っていう超ややこしい三重構造を、全部引き受けたままビジネスしてること。
どこで1番それを実感するかって、LINEのカスタマーサービスの運営方法、商品の宣伝ページ。
そんで高いけど使ったらハンパないスキンケアセットの効能。
とまと
これらをそのまま口にするか、別の言葉にそっと預けるかで話し手の育ちと品性は、驚くほど露骨に分かれてしまう。
本当に上品な褒め言葉は、裏側に序列を帯びた否定語を必要としない。誰かを高く掲げるために、
別の誰かを暗黙のうちに踏み台にする構造そのものが、洗練から最も遠いからだ。
だから、
「センスがいい」は「審美眼に惹かれます」と言い換えられるし、
「頭がいい」は「視点が洗練されていて、話が心地よいです」となる。
「性格がいい」もまた
「言葉の端々に思いやりを感じます」などと置き換えられる。
ここで語られているのは能力ではない。
その人が場に残していく空気や余韻。
もし、こうした言葉を
「少し真面目すぎる」「この場には重たい」と感じるなら、
それは言葉の問題ではない。
静かな思慮より、
勢いと即断が優先されやすい場に
たまたま身を置いているだけの話だ。
(これを「民度が低い」という言葉で片付けていたのが以前の私だった)
英語の関係代名詞に、which や that があるように、言葉には必ず後ろに続く余白がある。
重要なのは、その余白に何を置くか。
序列を置くのか。断定を置くのか。
それとも、奥行きのある一節か。
which や that の後ろに、
どれだけの風景を忍ばせられるか。
そこに、どれほどの学と教養が確実に積もってきたかがそのまま映る。
言葉は、飾るためのものではない。
どの水準の世界を生きているかを、
雄弁に語ってしまうものなのだ。
とまと
むしろ逆で、私は長いあいだ最短で成果にたどり着く思考を発達させすぎたのだと思う
私は物事を、コスパ・技術・即効性・最適なタイミングといった変数の組み合わせとして扱い、苦労の総量ではなく「どこを押せば一番動くか」で物事を解いてきた
これは戦略的な強さだが、同時にひとつの盲点を生む
真正面からの長期戦を経験する機会が減ることで、本気で向き合う重さという感覚が、私の中で相対的に肥大化するのだ
つまり私は、苦労を避けてきたのではない
苦労を必要としない構造を常に発明し続けてきただけだ
だから今、本気で取り組もうとすると、その負荷が以前より濃く、重く、手触りを持って迫ってくる。効率では溶けない領域に、私という存在が初めて触れているだけのことなのかね。
