
ナカムラ
UN K.O. MAN

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瀬戸口 蓮也『SWAN SONG」


Swan Song

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「汝の欲することをなせ」
ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』


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「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」
クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』


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屠る準備をしている

SWAN

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彼は絶望のあまり、天を仰いでこう叫んだ。
「神様!私はこれからどう生きればいいのでしょうか!」
しばらくして、雲の上から雷鳴のような言葉が轟いた。
「自分で考えろ!!!」

神様のヒマ潰し

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「忘れるためさ」
「なにを忘れたいのだ」
「……。忘れたよ、そんなことは」
────古代エジプトの小話

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どんな論文?
#大喜利

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シッティングにもかかわらず、思わず立ち上がり、踊り揺れる人が多くて楽しかったな。
The Eraser

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ドーナツの穴をめぐる話だったな、と思う。
Doughnut

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The Choice Is Yours

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お気に入りのミックステープが壊れてしまうのはとても悲しかった。けれども、好きな曲を大音量でどうしても聴きたかった自分は、懲りずに幾度もMDを入れては壊されることを繰り返した。一度くらいは再生される日が来るような気がしたのだ。
だが「処刑人」は甘くなく、プロの壊し屋だった。黙々と自分の仕事をやり遂げ続けた。
時は流れゆく。そうしているうちにMDは廃れて、いつ彼が引退してどこへ消えたのかは正直よく覚えていない。キュルキュルという音だけが、ときおり胸中をかすめる。

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進めてゆくうちに、現代の「わかりやすさ」への過度な傾斜について思考が及ぶ。
よく言われる「頭のいい人は誰にでもわかりやすいかたちでものごとを説明する」といった言説の正しさは、実際のところ保証されていない。なぜなら、「頭のいい人は自分向けに言葉を噛み砕いてくれるはずだ」という根拠なき誤解がそこにあるからで、翻っては自分が歯牙にもかけられない存在であることを隠蔽しようとする涙ぐましい無意識の抵抗と、一応考えることができるだろう。
そこへいくと大岡の態度はわかりにくい。ただ、「俘虜記」において戦争体験を、薄っぺらい倫理の問題から割っても割り切れぬ生の問題まで引きずりおろしたように、口当たりのよさを断固拒否し、死ぬまで「わかりやすさ」に抵抗しようとした人であるように感じられた。
それは簡単に言えば時代に対する批判精神であり、次のような文章に鮮やかにあらわれている。
「筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり」(1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)

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このところずっと弛緩していた空気に急に芯が通りはじめたようで、そのよそよそしさには毎年戸惑う。まるで昨晩飲み会で打ち解けられたと思った関係が、翌朝にはリセットされているかのように。
そうはいっても、肌馴染みがいいのは冬の空気だ。背筋をしゃっきりさせてくれるし、なんなら保湿効果もあり、冷気が自分の輪郭をくっきりと浮かびあがらさせてくれるからね。いいことづくめ。
でもいちばん楽しみなのは、そんな静かで、しんと冷えた時期に、住宅街を歩いていると、どこからかカレーの匂いが漂ってくるんだ。
たぶんそのカレーはえんじ色のちょっとおしゃれな鍋に入っていて、くつくつと泡が立っている。木べらでゆっくりとかき混ぜる人がいるけれど、よく見えない。その人はエプロンをしていて、あっ、小さな人影が後ろからごと抱きついて、なにか言っている。きっとお腹がすいたと訴えているんだ。不満顔の人影に対して、鍋の方に向いたままエプロンの人はなにかを微笑みながらささやく。しばらくすると、暖かい部屋にピンポーンとチャイムが響く。小柄な人影はさっきまでの機嫌が嘘のように、ぱっと顔を明るくして玄関へ走り出す。
素敵な季節だと思いませんか?
「意味がよくわからない」と彼女は言った。
「そうかな」とぼくは答えた。
「そんなにカレーが好きなら自分で作ればいいじゃない」
「そうだね」
でも、ぼくがきみに伝えたかったのは、そういうことじゃないんだ。これは本当のことだけど、嘘の話なんだ。そして、ある種の真実は、嘘を通さなければ表すことはできないんだ。
もちろん、その言葉は呑み込まれる。いつも通りに。巨大な樹にぽっかり空いた洞のようなところに。
雪に先駆けて沈黙が降り積もる。
ぞっとするほどくたびれた彼女の横顔を見続けることができず、ぼくは逃げるように天上を見上げ、空に星を探す。なにも見えないのは、街が明るすぎるからだろうか。

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誰もが軽やかな足取りで様々な場所へ顔を出すけれども、それはインターネット・ディアスポラ化の証左なのかもしれない。誰にも祖国はない。

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プレゼント・タイム
Duvet

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その前を無数の人が通り過ぎてゆく。惚れ惚れするような完璧な無視。通り過ぎる際だけ誰もが早足で節目がちに歩くことに気づかなければ、自分にだけ見えている幻覚と思い込んだままだったろう。
いつしか、顔が紅潮している。汗がくたびれたポロシャツに滲んで、ところどころにシミをつくっている。身振り手振り凄まじく、荒川区民を宇宙の脅威から護らんと、絶望的な説得を続けているにかかわらず、崇高な使命に従えば従うほど、かれ自身の存在は幽霊のように透明になってゆく。
今すぐ、UFOがやってくればいいのにと思う。

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こんなふうに相対性理論を誤解しているのだから、距離。距離は一定のはずだ、と思っている。ほとんど、信じている。しかし、仕事へ向かう道のりは遠く、逆に、帰り途は短すぎて、やりたくもない寄り道をしなければ帰れない。道中、お酒の一、二杯は飲んで無理やり勢いをつけていかなければ、門扉はとても、くぐれません。
たとえば、波平をみよ。かれはたいていの場合、そこらで一杯ひっかけなければ帰れない。なぜか。わたしの独断によれば、かれは素面のまま家に帰ることが恐ろしくてたまらないのだ。
帰り途には、お魚くわえたドラ猫を追っかけて素足で駆けてゆくような、愉快な世界は存在しない。ただただアスファルトに舗装された暗い道が延々と続いている上、猫のようにどこまでも伸びてゆくものと違い、どっしりと不動だにしない家は、あまりに距離が近過ぎるのだ。さらに、前者が徹頭徹尾「行く」ことの愉快さを描いていることに対し、後者の「帰る」惨めさについては決して描かれない。当たり前だ。サザエさんは来るべき月曜日へ「進む」心構えを説く番組であって、過去へ気持ちが「戻る」ための番組ではないからだ。
……あるいは、波平の耳にはずっとこんな古い歌が聴こえていたのかもしれない。
とおりゃんせ とおりゃんせ
いきはよいよいかえりは怖い

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多くのひとは望んだわけでもないゲームにいつのまにか参加させられており、仕事を通じて労働力以上のもの──たとえば、自らの尊厳──をいつのまにか搾取されている、という論旨と理解した。
「かつて、シベリアの収容所にありながら、ドストエフスキーは、考えられるかぎりで最悪の拷問の理論を発展させた。それによれば、最悪の拷問とはだれの目にも意味のない作業をいつはてるともなく強制することである。かれのみたところでは、シベリア送りの囚人が名目上は「重労働」の判決をくだされたとしても、その作業は実際には、そこまで厳しいものではなかった。大半の農民の仕事の方がはるかに厳しいというのである。けれども農民は、少なくともある程度までは、主体的に働いている。収容所での労働の「重労働」たるゆえんは、労働する者たちがそこから得るものがなにもないという事実にあった」
デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』


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สมองบูด

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青白く光る冷蔵庫の奥底は、何度覗き込んでも暗い気持ちにさせられるばかりだ。岩戸を塞ぐ岩のように重々しい扉を閉めると、ひとりでにため息が漏れる。思案の末、背面がすっかりひび割れてしまった携帯電話に「枝豆 アテ ワイン」とかなんとか打ち込むと出るわ出るわ。枝豆アンチョビガーリック。枝豆明太チーズ和え大根挟み。枝豆とゴルゴンゾーラチーズのムース。定番ネタから、もはやそれは店で食べた方が早いんじゃないか?と思わせられるようなものまで枚挙にいとまがない。ただレシピを見ているだけなのに、いつの間にか食べているような気分にさせられてしまって、空腹はどこかに飛んでいってしまったが、構うものかとばかりに、リンクをタップする指は止まる気配をみせない。
本末転倒な気がしなくもないが、そうか、もしかしてこれが世に言う食指なのか。思わぬところで学べば学ぶものだ、とかそんなしょうもない感慨をよそに、枝豆レシピは爆発的な速度で次々と脳に飛び込んでくる。枝豆のすりながし、枝豆とサーモンのカルパッチョ、枝豆のガーリック焼きうどん、枝豆クリームチーズ添え、香ばしクミン枝豆、枝豆と桜えびのチーズガレット────。頭の片隅ではとっくにうんざりしているのに、やめられないとまらない。
そんなふうにしているうちに、変なページに辿り着いた。画面には無機質な白抜きフォントでこう書いてある。
「あなたがロボットではないことを証明するために信号機の画像を選んでください」
指がぴたりと静止する。まじまじと指を見つめる。さっきまでの猛獣みたいな暴れっぷりが嘘みたいだ。狂熱めいたものは残り香すら消え失せている。画面に目を戻すと、猛獣使いからのメッセージがそこに変わらずあった。
「あなたがロボットではないことを証明するために信号機の画像を選んでください」
ぼくは自分がロボットであったことを思い出し、ページバックすると、タブを消去した。

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再開発された川縁には高層マンションが並び立っている。ちょっと高級な菓子の、折り詰めみたいに区切られたスペースから、住民は思い思いに、空に咲く鮮やかな閃光を眺めるのだろうか。
なにが面白いのかは分からない。花見のように、風のように無意味なものだ。本人たちだって面白さ目当てではないはず、はずかしい感情が、今こうして文字を打つ恥じらいとともに、高低差を伴いながらはじめて思い浮かぶ。
明日は花火があがる。

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絶えずマスクを払う祖母の掌

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あるいは「鏡よ鏡、世界でいちばん美しいのはだあれ」と呼びかけるものも、てっきりとてつもなく意地悪な王妃に決まっていると、そんな勘違いをしていた。
今や魔人も王妃も滅びてしまった。
しかし、ディスプレイを狂ったように擦りまくるか、鏡の向こう側に自らの「美しさ」を誉めそやすよう嘆願する普通の人々はますます一般化した。
けだし、とても残念なことに、おとぎ話はおとぎ話であることをやめたのだろう。

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ほんの少しでも良心が残っているのであれば、もう黙ったほうがいい。
思考の沼地、暗くて寒くて狭いところへ、ふたたび還る時がやってきたんだ。

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人が希望について語らなくなったのはいつからかは知らないが、そうであれば絶望を通して希望を語る手法が開発されるべきだろう。
希望はコンビニでも買えるけれど、絶望は非売品で、決して値札がつけられないその人をあらわす宝物なのだ。


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Sweet Nothings

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それは、ありふれた不幸な女の備忘録だ。
内容はかなりしょうもないことで占められていて、日常の些事にぷりぷり怒ったかと思えば、突如、周囲の人間に深く感謝を述べてみたりと、かなりまとまりに欠けている。錯乱のようにも見受けられる。
かように、深く永い苦痛は人間の尊厳を容易く奪い取る。それがどうした。ただの人間が語る物語はいつも破綻しがちで、狂いのない語りなどわたしはついぞ見たことがない。そこへいくと、死人の語り口は冷静だ。自分の終わりが見えているからかな。どう思う、×××?
年に一度、あるアカウントの投稿を読み返す。
彼女の笑みが脳裏をかすめる。

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こだわり行動、エコラリアなどの行動面が目立ちやすいが、接しているうちに分かってくるのは、喉が渇いたから水を飲むというような因果関係が自閉症の場合、その人独自の形で存在しているということだ。喉が渇いたから体を揺するといった具合に。
また、物質の位置への執着も面白い。我々の空間に対する意識はかなりファジーで、たとえば本は本棚に入っていればいいといった程度の感覚だけれど、彼らは左右に並ぶ本までまとめて記憶しているので所定の位置でなければ落ち着かない。ゲシュタルト心理学の言い方を借りるのであれば、図と地ではなくある特定の空間に関してはすべてが図なのだ。
コミュニケーションとは読書のようなものだと放言している身としては、自閉症の方と接するたびに、まるで異言語で記された本を読んでいるかのように感じてならない。

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東京に雪が降った。二年ぶりだそうだ。
道ゆく人誰もが、肩をすくめながら歩き去ってゆく。そんなことしたって、別に暖かくもならない。ただ、歩きづらくなるだけだ。寒さを受け入れ、身を任せた方が楽に歩けるのにな。そんなふうに考えながら駅に入ると駅員がスピーカー片手に絶叫している。「ただいま遅延しています!大雪のため…」そこから先はよく聞き取れない。ただ、埋もれるだけだ。

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探偵の推理方法は、往々にして犯行現場に残された痕跡を観察する。コナンはすごい。被害者がどうやって殺されたのかを突き止めるのは当然として、なぜ殺さなければならなかったのかまで視聴者に教えてくれる。
私自身、ある言葉を用いる人の文化圏は容易く特定できるが、なぜその言葉を選んだかについては断言しえないことからくる憧れはある。
とはいえ、全身黒タイツを相手取る気にはならない。

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令和に?マジ?


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たまたまスイートルームで、しつらえのひとつに手動コーヒーミルがあり、暇だったので豆を挽くことにした。
しゅりーり、しゅりーり、しゅりーり。
ミルが歌いだすが、味わい深い音のわりにはまったく粉がたまらない。詐欺的なほどに。
しょうがないので「耳を澄ませてごらん、豆が喜ぶ声が聴こえるね」などと嘯きながら、ゴリゴリと全力でハンドルを回す。豆の悲鳴が聞こえる。

ナカムラ
「あっ、喪主ドキンちゃんじゃないんだ…」
同じ方向性かつ、上回る回答が出てきて楽しい。
#大喜利杯

ナカムラ
最後まで自分らしいネタで勝負できればいいな。
#大喜利杯