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あき

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ビール、珈琲、人の心 海外行けないので東京旅行中
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料理できるようになりたい
あき

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今年は大きな心残りを残して年越しそうです。
追いメッセージしようか迷いましたが、私の対人関係のスタンスは「待つ」なので自分の憲法に従いました。

グラ友の投稿で

1年の始まりは1/1だけど1番日が短い冬至の次の日から気持ちの流れが新しく変わる気がする

これは私の業界が「日の出時間」が関わっていたことで私も同じ感覚でした、法が変わるまで。
冬至を過ぎると一気に忙しくなって1月上旬までお祭りになります。
地球の公転が楕円であること、地球の地軸が傾いている関係で日の出時間が1番遅くなるのは冬至を過ぎてからの1月初旬です。

ただ私はもう前線には出ないので変わらぬ日常が続きます。

出来事の起伏はどうしてもこちらの感情が上下します。出来事に遭遇しなければ感情は平坦なままですが、これはこれで「生の実感」を得にくいのではないかと。

すべての出来事は陰陽表裏一体、
出来事をどう解釈するかは自分しだいです。
特に人の自由意志はないと考える私はいわゆる決定論、すべて何かの原因によって結果が決まっているとの考えに帰結します。
人の自由は遭遇する出来事をどう解釈するかにしかありません。

そのちっちゃな自由をできるだけ楽しむ思考の方が短い人生ではお得だとは思います。
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あき

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グラ友の投稿で↓の曲が貼ってあるのを目にしました。

日常で音楽をまったく聞かないのでたいてい気がつかないし、再生ボタンを押すことすらないのですが、「ハンバート ハンバート」という名前が目に入りました。
近年観た映画『ぼくのお日さま』のエンドロールで彼らの歌が流れました。
ポチッと再生してみると

死んだおやじが入ってくる
死んだ妹をつ

で切れます。ちょっと気になってYouTubeで全編再生。

かき氷を食べていると死んだ父親と妹が生前のまま入ってきて3人でかき氷を食べる
しかし、2人には自分は見えない

この世界観はお盆文化がある日本ではすんなり受け入れられるのではないだろうか。
そして、父と妹を亡くした人の心の痛みが伝わってきます。

私は母も父もとうに亡くなりましたが、社会に出て自分が強く関係した人の死はまだ経験がありません。
正確には明確に死の知らせを聞いていない、か。

以前投稿にした、大阪で「今の私」を方向づけてくれたといっていいSMクラブを経営していた女性、私が彼女に一言も話さずに大阪を離れたら激昂した電話をしてきました。その数年後の彼女からの電話、私は電車の中でとったのもあって手短に切ったのでした。
この頃は「死の電話」をまだ受けたことがなかったのです…
後年いくつもの「死の電話」を受けてから、あの電話は彼女が自 殺する前の私へのあいさつだったかもしれないと思うようになりました。

死を決意した相手の心の悲鳴はその時、手を差し伸べなければ「あとで」はありません。

そんなことを思い出した曲でした。
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ブラザー軒

ハンバート ハンバート

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あき

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【兄を持ち運べるサイズに】②

『兄を持ち運べるサイズに』のタイトルからは、だらしない兄が突然死んで遺品を整理していたら兄はいい人だった的なファンタジーを想像しました。
私は飲み屋も映画も検索しません。事前情報無しで触れます。

映画の冒頭

支えであり、呪縛ではない

の文字、一瞬にしてあ〜、これから家族ファンタジーの映画が始まるのかと思いました…が…

映画は主人公にとって「この世からいなくなってほしい」と願った迷惑ばかりかける兄の死を、警察からの電話で聞かされることから始まります。

この場面は私を父が死んだという電話があった日にプレイバックさせました。

弟から電話がありました。

「兄ちゃん、お父さんが死んだんだって、警察から電話があった」
「それで何て言ったの?」
「兄ちゃんの電話番号教えた」
「え?何やっているの、誰であっても兄ちゃんの電話番号を勝手に教えたらダメだよ」

弟は愛の手帳を持っていて1人では生きていけないので、私が骨格の部分は面倒をみています。
そんな弟だから警察から電話かかってきたら、びっくりして私の電話番号を警察に言うのは仕方のないことです。私は一瞬イラッとしましたが、すぐに冷静になって

「ごめんね、警察はなんて言っていた?」
「お父さんが死んだって」
「事件?事故?」
「わからない」

弟にこれ以上聞いても仕方ありません。電話を切りました。
当時絶賛警察と対決中、私は街中のお巡りさんも含めて警察官になろうとするすべての考え方に嫌悪感を持っていました。

20代の時、父とは2度の裁判を経て、お互いの存在をかけた争いをしました。最終的に父を山に埋める決断をしたほどです。この時もそれくらい追い詰められて相談に行った寝屋川警察署は誰もまったく聞く耳をもってくれませんでした。
これは結果的には実行に移さなかったのですが、以後父は私が隔離するために用意した寝屋川市の文化住宅で生きていくことになります。連絡するでもなく家賃4万4千円を私が払い続けました。

そんな父からショーメッセージがきはじめたのは、今から考えてみると死ぬ1年前くらいからでした。弟を私が飼い殺しにして腐らせているという私を瞬間的に沸騰させる内容でした。このあたりの説明をし始めるとこれまた膨大な文章になるのでカットしますが、これこそが現実とノンフィクションの大きな違いであって、いかに事実に基づいたノンフィクションといっても、やはり現実を簡略化明確化したフィクションであるってことです。

映画の主人公は、めんどくさいと思っていた兄の死後整理を兄の元嫁や兄の子供たちとすることによって、それぞれに自分の知らない「兄の像」をあることを知ります。

父は文化住宅の自分の部屋で死んでいたのですが、それを発見したのは自分で作ったサークル「司馬遼太郎を語る会」に父が来ないのを心配したそのサークルに参加していた人たちでした。
私には迷惑をかける存在でしかなかった父でしたが、父の話を楽しみにしている人が最後までいたのです。

そう私も私がジャッジした面しか父を知らなかった。

人を自分が見た面だけでジャッジしない、私は仕事において意識していることです。でも、父に対してはまったくやっていなかった。

この映画は頭の中で作られたストーリーではなく、誰かの体験がベースになっていることは間違いありません。
なぜなら「本気の悩み」ってのは触れる者の心を揺さぶるからです。

面白い映画でも感動する映画でもありませんが、観てとてもよかったです。
最初から最後までずっと涙がこぼれました…
(終わり)
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あき

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【兄を持ち運べるサイズにを観て】①

血の繋がりのある父が死んで諸々の後始末をやり、最後、特殊清掃作業の代金を振り込んだ時、とても晴れやかな気持ちになりました。
これで足枷は無くなった
私は自由になれた
と。
父は私の人生において足枷でしかありませんでした。

以前は映画好きでしたが、仕事が使える時間を全投入する総力戦になってからは観ることができなくなりました。ふつーの生活されている方には想像できないと思われますが、緊急時には1分でも早く即応した方がいいわけで、映画館の中にいる2時間は着信音を消さなければなりません。マナーモードではもしの連絡が気になって映画の世界に没入することができず、映画館に入ることを避けるようになったのです。

映画を観ないようになると、現実で目にする映像がよりフォーカスされて心に響くようになってきました。

ふと目にした道端の花
通り道で耳に入る人の声
電車の中の親子
飲み屋で見聞きする人間模様

私のGRAVITYの投稿は仕事関連の話はほぼなく、何か特別なことがあったり、どこか遠くに旅行して目にしたものではありません。
日常の中で目にしたショートドラマです。

これは「作られた映像」を目にしないようになったら、現実の感受性があがったように思われます。

そうなってからたまに映画を観ると、頭の中で作られた話を役者が演技しているという、フィクションにフィクションを重ねた映像がつまらなく感じるようになってしまったのです。
「作られた映像」を見るくらいなら、飲み屋で隣に座った「本物の人」を観察する方がずっと楽しいし役に立ちます。

フィクションを楽しむのは薬物を楽しむのに近いと思われます。
楽しいことがあった気がする、
悲しいことを目にしたような気がする、
だけで実質は自分に何も残らない、時間だけを浪費している…

グラ友が映画『兄を持ち運べるサイズに』を観て「あんなに泣くとおもってなかった」との投稿、それが頭の片隅にありました。
(つづく)
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