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かいと

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東虎口櫓門で1枚。屋根に捨て瓦が付いていたのはアツかった
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甲斐性無しの甲斐の人

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福山城

徳川家康のいとこ水野勝成が西国の押さえとして築城したため、10万石の石高に対し城郭規模は大きい
復元された天守は当時を再現して北側に鉄板が張られており見た目が綺麗
櫓や櫓門は現存遺構で立派
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やんすすすすすすすす

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岡山城へ

宇喜多家の居城に相応しい立派な城。
今残る復元天守は宇喜田直家が岡山城を築いた頃の天守を復元している。

櫓門も月見櫓も立派でもし、櫓も全て残ってたら姫路城を圧倒していたのではないかとか思う。
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甲斐性無しの甲斐の人

甲斐性無しの甲斐の人

平井金山城

山内上杉家の11代当主上杉顕定が平井城を拡張した時、平井城の詰城として築城されたそう。
関東の支配者として君臨した北条氏康と関東管領職と上杉の名跡を譲り受け、関東へ出兵してきた上杉謙信との抗争の中で平井城とともに廃城となったようだ。

関東管領家の詰城という歴史背景の割にマイナーな城跡で、そこまで期待していたわけではなかった。
しかし、さすがに築城術に優れた関東管領上杉家の城で、堀切や土塁、技巧的な虎口に石積を用いた櫓門跡など、素晴らしい遺構が数多く残されていた。
また城跡の敷地の大部分が個人所有の私有地らしく、整備や公開をしてくれていることがありがたかった。
櫓門跡がある辺りからはゴルフ場の近くであり、所有者も違うのか一気に雰囲気が変わるが、ゴルフ場の造成で遺構を破壊されるようなこともなく残されており素晴らしいものだった。
櫓門跡や物見台跡など一部には石積もあるため、この城が使われていた年代で考えれば、関東地方でも最先端の技術が用いられていたのだろう。

#一日一城
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甲斐性無しの甲斐の人

甲斐性無しの甲斐の人

土浦城

元は小田氏の支流若泉氏による築城とされる。
その後小田家家臣の菅谷勝貞によって攻め取られ、以降三代に渡って菅谷氏の居城となったという。
小田家内部でも争いがあったということだろうか。
菅谷氏は小田家の忠臣として有名で、特に勝貞の息子政貞は度々居城小田城を奪われる小田氏治をこの土浦城に迎え入れて、小田城奪回を支え続けた。
やがて小田家が大名家としては滅亡すると、小田氏は結城秀康に仕えて越前に行き、一方の菅谷氏は小田家への忠誠を評価されて幕府の旗本に取り立てられた。
そして小田城が廃城となった一方、土浦城は譜代の家臣が治める城として残っていった。

城としては本丸と二の丸が残るのみだが、水堀に囲まれており霞門や太鼓櫓門が現存しており、前川口門も移築を繰り返しながら現存している。
太鼓櫓門は関東の城の中では唯一、本丸内の櫓門が現存している。
構造は独特で、櫓部分に入るためには梯子を使っていたのだろうか。
また土塁も一部残存していて、西櫓と東櫓が復元されており、東櫓は霞門と土塀で繋がっている。
私が行った時はちょうど桜が満開で、お祭りの屋台も出ていた。
東櫓とお城のすぐ隣にある博物館は入場券が共通で、合わせて200円と格安だった。

#一日一城
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甲斐性無しの甲斐の人

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諏訪高島城

日本三大湖城のひとつ。
豊臣政権時代の日根野高吉による築城。
その後、日根野家が転封されると代わりに諏訪家が入り、明治維新まで統治した。

かつては諏訪湖に突き出して築かれていたため浮城とも呼ばれたが、諏訪湖の干拓によって周囲は市街地になったため、かつての水城の姿は失われた。
現在は二の丸や三の丸は開発によって消失し、本丸のみが残っている。
建造物としては天守や隅櫓、櫓門が復元されている。

#一日一城
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甲斐性無しの甲斐の人

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弘前城

現存12天守のひとつで、東北地方唯一の現存天守閣を擁する城
天守台石垣の修理工事中ということで、天守閣を天守台から曳屋工事で移動した場所に移っている
しかしそれも来年にも元の天守台之場所に戻すらしく、現在の場所で天守閣を観られるのは残りわずかな時間ということで観に来た
現在の位置だと岩木山を背景にした天守閣が観られるということだったが、靄がかかってしまっていて、岩木山は綺麗には見えなかった上、天守閣と岩木山を同時に観るための展望台は雪に埋もれていた

しかし、城郭を観て回るとそんな些細なことはどうでも良く思えるほど立派な堀や土塁、石垣に、重要文化財の現存櫓や現存櫓門が多数あり想像以上に立派な城郭ですっかり満足してしまった

#一日一城
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甲斐性無しの甲斐の人

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金沢城

旧暦の12月25日は前田利家の誕生日だったとのこと。
(現在の暦に換算すると1月15日らしい)
というわけで加賀百万石の前田氏の居城、金沢城。
元々は加賀一向一揆の本拠である尾山御坊という寺院城郭だった。
織田氏の重臣柴田勝家率いる北陸方面軍が加賀に侵攻して攻め落とし、与力の佐久間盛政が加賀の半国を与えられて尾山に入り、金沢城と名を改めた。
その後、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れ滅びると、豊臣秀吉によって能登を治めていた前田利家に加増して与えられた。
その後は江戸時代を通して代々加賀前田氏の本拠として栄えたが、天守は早い時期に落雷で焼失し、再建されることはなかったそうだ。

流石は加賀百万石の本拠といった感じの巨城で、戦国時代から江戸時代にかけて長い期間改修されたためか、石垣の種類も豊富だった。
特に有名なのは庭園から見える色紙短冊積石垣で、切込接ぎの乱積みという見た目の派手な積み方で、なおかつ色の違う石をバラバラに混ぜてありまさに魅せる石垣の代表といえる華やかさだった。
また、利家時代に築いた野面積みや、中間の期間に築いたであろう打込接ぎなど石垣の種類は豊富で、再建された櫓門、面によって切込接ぎと打込接ぎを分けた枡形、見事な海鼠壁など見飽きることがないほどに見どころの多い城。
訪問した時はちょうど現存遺構の三十間長屋が修理工事中で見れなかったことと、城を観るのでいっぱいいっぱいで、兼六園をほとんど駆け抜けるように流し見することしかできなかったことだけが悔やまれる。

#一日一城
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甲斐性無しの甲斐の人

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広島城

西国の雄、毛利元就の孫である輝元の築城。
輝元は天下人となった豊臣秀吉の大坂城に感化されたようで、それを模して築城したそうだ。
しかし輝元は関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将として大坂城で軍の指揮をしていたため、関ヶ原本戦には不参加ながらも大幅減封されて広島城を離れることになり、その後に替わって広島入りした福島正則により、外郭部分が普請された。
その福島氏も改易されると、浅野氏の居城となって幕末まで存続。
明治維新に際しては新政府側についたため破壊を免れたものの、太平洋戦争では原爆によって天守閣をはじめとして建物はことごとく破壊された。

現在は天守閣や櫓、櫓門など多くの建物が再建されている。
特に外観復元された天守閣は内堀である水堀の隣にあって、堀に映るためとても美しい。
私が訪問したときは城内につくられている広島県の護国神社で初詣客で賑わい、多くの屋台も並んでいた。
耐震強度の問題もあり、天守閣は来年の3月に閉城することが決まっているのはとても残念ではあるが、桃山時代から続く石垣や堀、再建天守など周りから見上げるだけでも十分見応えのある城でもある。

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甲斐性無しの甲斐の人

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駿府城

徳川家康が隠居の地として選んだ城。
元々は今川氏の本拠今川館があった駿府の地に、甲州征伐や本能寺の変を乗り越えた家康が築城したという。
その後、家康は小田原征伐後に関東に移封されたため一度は駿府を離れるが、関ヶ原の戦い後に江戸幕府を開いたのち、将軍職を秀忠に譲ると駿府を居城として再整備し大御所政治をした。
その時に築かれた天守台は大坂城や江戸城より面積が大きいため、かつては巨大な天守閣がそびえていたといわれていて、東海道を江戸へと向かう西国の大名たちは必ず駿府に立ち寄ったそうだ。

現在は櫓や枡形虎口の櫓門が復元され、その威容の一部を体感できる。
石垣の積み方も様々な種類が観られるうえ、天下普請の際に刻まれたであろう刻印入りの石も散見され、石を観るのも楽しくなる城。
今は天守台の発掘現場を見学できるようになっているが、今年の年末に閉鎖されて新たな野外展示施設が整備されるらしくそれもまた楽しみだ。

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🌴たかし⛺

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とりとめのない話し(その29)

大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の碕までの上町台地観光ルート続き(その10)

前投稿で難波の碕までのルートガイドは終了しましたが、番外編(5)として、大坂城天守閣を出て、山里曲輪を通り、極楽橋から大坂城ホールへ抜けるルートを中心に跡地や碑をまとめました。大坂城はすべて徳川の遺構ではあるが、最も豊臣秀吉を感じさせる観光ルートである。

1枚目は、山里曲輪の空撮写真
2枚目は、江戸時代の天守閣と山里曲輪付近の地図

●号砲(天守台内)
この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm 先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。1863年、幕府の命令により、美作津山藩の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。1870年から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午のドン」の名で市民に親しまれた、火薬節約その他の理由により1923~24年頃中止されたが、 その時期と事情ははっきりしていない。

●残念石(本丸内)
両側に鎮座しているのこの石は1620年から始まる小豆島で創られたまま、用材石として、いまなお救多く残されていることから「残念石」と呼ばれ、大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さ石は前細川忠興の手によるものである。 小豆島青年会議所創立十周年記念事業とし、一つの社会活動の実践に、大阪青年会議所は高新大阪の復権を願い、「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共両事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。

●御成門跡
極楽橋を渡り、山里曲輪から本丸に入る門が御成門とされていた。正確な位置は不明。監視のため弓方預櫓(御成門之内櫓)が建っていた。

●天守下仕切門跡
天守台の西側は石組によって南北が隔てられており、通路となった個所の門を仕切門と呼んだ。北から本丸中心部へ侵入しようとする敵の直進を妨げるため両脇の石垣を行き違いとし、 そのため門は東に向いていた。徳川幕府による大坂城再築時に築かれ、明治維新の大火により石垣上にあった弱ともども焼失したと考えられる。

●天守台石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)、陸軍の関連施設が集中していた大阪城は、終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守閣は天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

●隠し曲輪
この一時期幕府の焰硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。なおここでは、石垣の築造を担当した加藤家(伊予大洲藩)、小出家(丹波園部藩・但馬出石藩) の印を飼近に見ることができる。 大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸幕府による大坂城再築時のものである。出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれる。

●山里口出枡形
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。 なお西は埋門となっていて隠し曲輪へと通じている。

●山里丸
内堀に囲まれた大坂城本丸のうち、天守北側の一段低い区域を特に山里丸(山里曲輪)と呼ぶ。豊臣時代には、山里の風情をかもし出す松林や、桜、藤などの木々がしげり、いくつもの茶室が建っていた。1583年に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天守完成よりも早く、ここで茶室完成の御披露目を行っている。秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用し、没後は遺児秀頼により、父秀吉を祀る豊国社も建てられた。1615年の大坂夏の陣では、 秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと伝える。のち徳川幕府の手によって大坂城は全面的に築き直され、ここには一年交替で城を守衛する大名、山里加番の主従が生活する小屋(公舎)が建てられた。

●山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度に及ぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった。山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北川内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

●大阪国防館跡
この付近に、第二次世界大戦のさなかに陸軍が設置した「大阪国防館」があった。戦地の兵士をしのび国防意識を高めることを目的として昭和15年(1940)3月に開館し、木造2階建ての内部には、戦地や防空施設のジオラマ、兵器や戦闘機・戦車などの体験型展示、戦没者の遺影や遺品などが9室にわけて陳列されていた。戦局悪化にともない同17年ごろに閉鎖され、同18年からは中部軍司令部女子防空通信隊の宿舎として使われた。昭和20年の空襲によって全焼し、姿を消した。

●刻印石広場
この広場は、大阪築城400年を記念し、その石垣を形成している刻印石を展示し紹介する為に新設しました。
刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命ぜられた諸大名の家臣や石工が、石集めや石積みの過程で、個々の石に必要に応じて、文字や文様を刻み込み、さらに出来上がった石垣の表面に担当大名の家紋などを刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されています。
ここに展示しているのは、昔の石置場、周辺の川筋などから出土したものや城内の石垣修理で撤去されたものを展示してます。
大阪城の石垣は、豊臣時代のものが残っていると思われがちですが、実は現存している石垣はすべて元和・寛永年間(1620年~1629年)に、徳川幕府が西日本の69藩を動員して築かせたものです。無数の刻印石がその事実を証明しています。

●秀頼・淀殿ら自刃の地(山里丸内)
大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀君が、山里丸にあった櫓にひそみ自害したと、多くの記録が伝えている。それに因んで、1997年山里丸の一画に大阪市の手により記念碑が建てられた。
碑の内容
「慶長二十年(一六一五)五月八日、大坂城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約三十名は、落城直後の大坂城内で自刃した。その場所については諸説あるが、ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である」

●極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。豊臣秀吉が1583年に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約mの木造で、明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる1965年に再架橋された。現在の極楽橋は長さ約54m、幅約5.4mで、橋脚・主桁を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山) 本願寺以来の名称ではないかと考えられている。

●青屋門
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された1620年ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、1945年の空装で再び大破した。1969年大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」 の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山) 本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

●大阪砲兵工廠跡碑(現在、大阪城ホール)
大阪砲兵工廠は大砲生産を中心とした近代日本最大級の軍事工場で、1870年この付近に設置された造兵司を発祥とする。 民需品も手がけるなどして大阪における近代工業化の推進役を担い、敷地はここを中心に現在の大阪ビジネスパークー帯、 森ノ宮方面、さらに大阪環状線の東まで広がった、1945年の空襲によって壊滅し、残っていた元本館の建物は大阪市により昭和56年に撤去され、跡地に大阪城ホールが建てられた。 江戸時代、この付近一帯は「御蔵曲輪」呼ばれ、年貢米などを備蓄する幕府の蔵が立ち並んでいた。
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