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婦人画
#三変

冒頓単
̳ᓀ ·̭ ᓂ ̳

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もし私に万一のことがあれば、この手紙を公開してほしい。私が捕まれば、間違いなく多くの者が連座するだろう。だが、我々に規律違反や違法行為があったわけではない。理由はただ一つ、私と習近平同志の間で、中央『軍事委員会主席責任制』に対する解釈が異なっていたからだ。もちろん、台湾への武力統一、ロシアとの戦略的連携、そして高級将校の拙速な抜擢についても重大な意見の相違があった。
これらの相違は党内・軍内では正常な現象であるはずで、本来は科学的かつ民主集中制の手続きを経て解決されるべきだ。しかし現在、彼は『特殊な方法』でこれを解決しようとしているようだ。
近平同志に伝えたい。この手紙を書いている時、私はかつて趙紫陽が言った『我々はもう歳だ、どうなっても構わない』という言葉を思い出している。私には軍事クーデターを起こす条件が揃っていた。だが、私は断固としてそれをやらなかった。動乱があまりに大きく、一度コントロールを失えば国家は内戦に陥り、真っ先に犠牲になるのは双方の罪なき兵士たちだからだ。
私に対して非常手段が取られたとしても、私は抵抗しない。善悪と正義は、人々の心が天秤にかけて判断するものであり、歴史が明らかにしてくれると信じている。私の心は平穏だ。これらの言葉を残すことで、近平同志が目を覚ますことを願っている。勝者となるなら品格を持ち、越えてはならない一線を守るべきだ。あくどいことをしてはならない。『頭上三尺に神明あり(お天道様は見ている)』のだ。
断言できるが、私を逮捕するなら、それは3〜5人が密室で共謀するクーデター方式で行われるだろう。党中央政治局の集団討論を経ることなく、しかし『中央の名義』で実行・公表されるはずだ。
誰が規律違反をしているのか? 1989年(天安門事件)で規律と法を破ったのは鄧小平であり、趙紫陽ではなかった。だが、鄧小平は少なくとも1992年に改革開放を堅持した。今回、もし私が捕まれば、極めて高い確率で、近平は中国を北朝鮮に変えてしまうだろう。一心不乱に台湾武力統一を目指し、いつでも軍隊を使って国内に戒厳令を敷くようになる。
逮捕後、どのような罪名が着せられるのか。第一条は間違いなく『中央軍事委員会主席責任制への反対』だろう。考えてみてほしい。もし軍委主席が長年の軍の腐敗に本当に責任を負っているのなら、私が反対などするだろうか? 私が反対しているのは、軍委主席責任制が『家長制』に変質し、あまりに細かく具体的に管理しすぎることだ。あらゆる事案において、自分を天才的な専門家であり、英明な統帥だと思い込んでいる。
毛沢東ですら、これほど軍隊をコントロールしなかった。人民の軍隊が党の軍隊にいることはまだしも、個人の『私兵』になってしまうことは最も恐ろしいことだ。異例なスピードに抜擢された者たちは、恩義を感じて無原則に忠誠を誓い、『習主席の良き戦士』などという文革そのもののスローガンを創作している。かつては情報が閉鎖されていたから宣伝も成功したが、情報が発達した現代において、本心からあなたを偉大な領袖として崇拝する者はいない。むしろ反感を買うだけだ。
ネット上の動画でも見られるように、近平同志が会場に現れると全員が起立して拍手をする。まるで北朝鮮の金正恩と同じだ。現場での私の態度も皆が見ただろう。私は内心反発し、居心地の悪さを感じていた。これも『軍委主席責任制への反対』と見なされるのだろう。
海外では私と近平同志の内紛が騒がれており、軍の情報部門も頻繁に情報を整理して見せてくれるが、私は一笑に付してきた。もし私が捕まるなら、問題は我々の制度そのものにある。制度を変えなければ、誰もが次の被害者になり得るのだ。
党の指導とは、最高指導者が事細かに全てをコントロールすることではない。人民を導いて法と戦略を制定し、全ての党員がそれを遵守することだ。軍隊に対する党の指導も同様だ。『軍委主席責任制』とは、集団指導の下での責任制であり、軍委トップが三軍の統帥となるのは戦時のみであるはずだ。平時の戦略策定、情勢分析、人事登用を、軍委主席一人の言葉で決めてはならない。
近平同志と私との決裂は、まさにこれらの点において生じた。さらに深刻なのは、彼が常に戦争を始める機会をうかがっており、心の底から「壮大な戦争」を自ら指揮したいと熱望していることに私が気づいてしまったことだ。南シナ海での衝突や、とりわけ中印国境で起きた紛争など、本来は全く必要のないものだった。
私は、戦争というものを身をもって経験した人間だ。指導者がひとたび戦争を発動すれば、無数の兵士たちがその命を犠牲にする。だが時が過ぎれば、両国の指導者は再び親しげに握手し、「同志、兄弟」と呼び合うのだ。これは英明な指導者がなすべきことではない。
かつて私と共に戦い、戦死した兵士や将校たちは、今も国境の地に埋葬されたままだ。彼らの父母や兄弟は、ひと目会いたいと願っても、そこへ行く旅費すらない。平和な時代にこのような悲劇を生み出したのは、鄧小平の罪業である。多くの人は知らないだろうが、鄧小平は自らの権力を万人の上に置くため、1982年に憲法を改正し、この「中央軍事委員会主席責任制」なるものを作り上げたのだ。毛沢東の時代には、このような制度は存在しなかった。
鄧小平はこのことを決して宣伝しなかった。彼は、この改憲が自身の独裁的集権のために行われることを知っていたからだ。当時、軍事委員会では楊尚昆らが画策し、これを成立させた。鄧小平の改憲も、習近平の改憲も、実態は一部の重要人物が裏で決定し、全国人民代表大会(全人代)は政治局が決めた通りに通過させざるを得なかったに過ぎない。手を挙げなければ逮捕される、それが実情だ。
その後、鄧小平が趙紫陽や胡耀邦といった同志を排除し、長安街で戦車を走らせて発砲し、人民を鎮圧できたのも、すべてはこの「軍委主席責任制」があったからだ。この制度が、彼に最高権力を与えたのである。
振り返ってみてほしい。鄧小平はこれほど多くの罪悪を積み重ねたが、それは鄧家の人々にとって良い結果をもたらしただろうか? 党と国家、そして人民にとって良いことだっただろうか? 私が習近平同志に諫言するのは、実は彼と彼の家族のためを思ってのことだ。結局のところ、我々は同じ「大院(軍幹部用居住区)」で育った兄弟であり、彼に本音を言えるのは私しかいないからだ。
台湾を攻撃し、さらに米国や日本と戦争になれば、かつて鄧小平が行ったベトナム戦争や学生鎮圧のように簡単には終わらない。彼の家族、そして我々の国家には無限の災難が降りかかり、数万、数十万の軍人が犠牲になるだろう。私はその結末を想像することさえ恐ろしい。そのような戦争の果てにクーデターが起き、あるいは党と国家が人民によって転覆された時、戦争を発動した指導者に対して「血の清算(凄惨な報復)」が行われないと言い切れるだろうか? 考えるだけで戦慄する。
軍隊とは国家と人民を守るためのものであり、戦争をするための道具だと考えるのは、当然ながら重大な誤りだ。私が軍事委員会にいる間は、まだ彼を説得し、あるいは彼が重大な過ちを犯さないよう制約することもできる。だが、一旦私が逮捕されれば、劉振立やその他多くの同志たちも拘束されるだろう。軍の中枢は彼が自ら選んだ将官たちで埋め尽くされ、我が国は「軍国」と化し、いつでも戒厳令が敷かれる北朝鮮のような国になり下がるだろう。その問題は、文化大革命よりも深刻だ。
私と習近平同志の確執について言えば、それは第20期三中全会の前から始まっていた。彼は軍の人事ルールを完全に無視し、あまりにも多くの人間を「突貫人事」で抜擢したため、大量の将兵の不満を招いた。さらに深刻なのは、彼らが手にした権力とボス(習)からの信任を笠に着て、軍内で徒党を組み、私を処罰するための証拠集めを始めていたことだ。
私と近平同志の衝突は、第20期三中全会の場で決定的なものとなった。対立点は二つ。一つは人事問題、もう一つは軍を使って全国を戦時体制に移行させ、ロシアがウクライナを攻撃している「今」という時間窓を利用して、台湾を攻略するという提案だった。
私と劉振立同志はこれに反対し、張升民同志は沈黙を守った。私は「軍委は民主集中制を重んじるべきだ」と主張したが、近平同志は「中央軍委主席責任制に違反している」と私を糾弾した。その結果、彼は激昂のあまり体調を崩して病院へ搬送され、三中全会は中断寸前まで追い込まれた。当然ながら、この内情を知る者はごく僅かだ。常務委員たちが動揺する中、党の長老たちが仲裁に入ったのだ。
後に海外メディアで報じられた「北戴河の合意」の内容は、概ね事実である。 第一に、近平は第21回党大会での再選を求めないこと。 第二に、党と国家の安全のために適度な分権を行うこと(蔡奇が党務、李強が国務院、私が軍委を担当し、実質的な常務指導体制とする)。 第三に、中央の最高意思決定における重大なミスを防ぐため、中央政策決定協調機関を設立すること。これらはその後のニュースを見れば明らかだろう。
三中全会の後、長老たちが活発に動き出したのは、軍部の力が権力バランスを保っていたからだ。しかし、問題はどこにあるのか。蔡奇や李強をはじめとする政治局常務委員たちは、すべて近平が自ら引き上げた人物であり、完全に彼一人の指令に従っている。彼らは近平なしには権威を保てないため、むしろ上に一人の独裁者がいて、何かあればその「ボス」が責任を負ってくれる体制を好んでいるのだ。国家や人民がどのような災難に見舞われようと、彼らには関係ない。コロナ禍での彼らの振る舞いが、まさにそうだったではないか。
私は党中央の活動を無視するわけにはいかず、ある時は婉曲に断り、ある時は協力せざるを得なかった。この構造を変える力は私にはなく、引退した老同志たちも無力だ。彼らが最終的に私に対して手を下す可能性は極めて高いが、長老たちが私の逮捕を支持することはないだろう。
もう一言言わせてほしい。台湾解放、祖国統一の大業を成し遂げたいという思いは、本来私にもあった。だが後に劉亜洲(りゅう・あしゅう)の分析を聞き、私は冷や汗をかいた。「数十万の軍人を海に沈めても、台湾島には近づけない」と。
開戦すれば日本が介入し、続いて米国が参戦する。中国南部の沿岸にある軍事施設、橋梁、石油備蓄基地は、数時間以内に日米連合軍によって破壊されるだろう。我々も台湾のいくつかの建物を破壊できるかもしれないが、最終的には莫大な賠償を負わされ、海外資産は凍結される。「国破れて山河なし」、まさに亡党亡国の道だ。
つづく
![なぎ[東方好き]](https://cdn.gravity.place/virtual/portrait/online/20240130/095caea4-59cc-49e2-9d84-390361f3c7d1.png?style=5)
なぎ[東方好き]


🎼ま〜さん



PHEV航
海外招待選手No.1
アフリカの選手欠場?
残念やな
今大会トップの
2時間4分台の持ち時計あったのになぁ[大泣き]
ともくん🍯🧸
睡眠欲が圧倒的最下位
自分の誕生日にいちご狩り予約して楽しみすぎて、今イチゴのことしか頭にない🍓

かず
「ファイヤー・イン・ザ・スカイ/未知からの生還」(原題 "Fire in the sky")は1993年に公開された、実際に起きたとされるUFO事件をもとに制作された、SFスリラー映画である。
ここからは、映画の元になった「トラビス・ウォルトン事件」について紹介する。
(名前の表記は他にもトラヴィス ウォルトン、トラヴィス・ワルトンなどがあるが、ここでは「トラビス」とする。)
【事件の詳細】
アリゾナ州の州都フェニックス市。そこから北東へ車で3時間、サボテンの生えた丘陵地帯を越えたところに、ナバホ群ヒーバーという小さな村がある。人口600というこの片田舎で、驚くべき大事件が発生したのは、1975年11月5日、水曜日の午後6時15分頃のことだった。
村から南へ約20キロ、国有林の山道をガタガタの小型トラックが走っていた。 1日の伐採作業を終えた作業員が7人(映画では6人とされている)。マイケル・ロジャース(28)、彼の妹の婚約者トラビス・ウォルトン(22)、ケネス・ピーターソン(25)、アラン・ダリス(21)、ジョン・ピアス(17)、いずれも若者たちばかりだった。
運転台にいたロジャースは、ふと前方右手の松林の向こうに、黄色っぽく輝くものを見つけた。「夕陽かな」と一瞬思ったが、それにしては向きがおかしいなと、なおも車を進めた。そして、7人はそこに大変なものを発見したのである。 車の右手の、約20メートルあまり離れたその空地に、光り輝く物体が、5メートルほどの空中に浮かんでいたのだ。 直径約5メートル、高さ約2.5メートルのその物体は楕円形に見え、黄白色に輝いていた。窓のようなものはなく、黒っぽい“わく”のような線が何本か見えた。 助手席の(右側)にいたトラビス・ウォルトンが「止めろ!」と叫んだ。そしてまだ止まり切らないうちにドアをあけ、好奇心に駆られたように、その物体のすぐ下まで走って行ってしまった。残った仲間たちは、「早く戻って来い」と口々に叫んだ。異変が起こったのは、その時だった。
空中の物体から「ピーッ、ピーッ……」という断続音が聞こえ、ついで発電機が始動する時のような、「ウォーン、ウォーン、グォーン、グォーン……」といううなりが聞こえた。物体は振動を始め、まるでコマが揺れるような、おかしな動きが始まった。 トラビスは、危険を感じたのか一瞬、うずくまったが、次に立ち上がった途端、物体の底部から青緑色の細い光線が流れた。 それは、トラビスの頭から胸にかけて閃いたようだった。彼は虚空をつかみ、頭をのけぞらせると、3メートルほど後方にすっ飛んで、仰向けに倒れてしまった。
この光景に仰天した6人には、トラビスを助けることなど思いもよらなかった。ロジャースは、あわててアクセルを踏み、現場から一目散に逃げだしたのである。 4、5メートルも走ったところで、責任者のロジャースは、ようやく車を止め、うしろを振り返って見た。光る物体が飛び上り、東北の空へ遠ざかって行くのが、木立を通して認められた。そこで、現場に戻ってトラビスを助けることにしたが、こわごわさっきの道を引き返してみると、怪しいものはもちろん、15分ほどの間にトラビスの姿もかき消えていた。
一行はヒーバー村へ急ぎ帰った。そして7時35分頃、ナバホ郡副保安官チャック・アリソンに助けを求めたのである。副保安官が応対してた時、彼らは非常に動転しており、中にはすすり泣いている者もいた。アリソンはのちに語っている。「もし連中がウソの演技をしていたんだとすれば、まったく名優ぞろいだね」
アリソン副保安官は早速、本部に連絡をとると、捜索隊を出すことにした。6人の若者のうち3人は、現場に戻るのをこわがって拒否した。他の村人達を加えた捜索隊は夜の9時半頃、現場に着いたが、怪物体もトラビスも、何の手がかりをも残していなかった。そこで翌11月6日は、早朝から本格的に捜索が行われた。ヘリコプターも動員し、50人以上の人が出て、付近の山林一帯をくまなく探した。しかしトラビスは、どこにも見つからない。翌日もその次の日も、捜索は続行され、現場から1キロ以上も離れた南の断崖のあたりを重点的に、ヘリによる捜索を試みたが、あいかわらず手がかりはなかった。
大騒ぎになった。事件が地元のマスコミと、UFO研究団体に伝えられたからだ。アリゾナ州には、テューソン市にUFOの科学的捜査活動で有名なAPRO(空中現像研究機構)の本部がある。フェニックス市にも、やはり科学的調査をモットーにしているMUFON(ミューチュアル・UFO・ネットワーク)の姉妹機関GSW(グランド・ソーサー・ウォッチ)がある。
両団体ともそれぞれの調査員を現地に送りこみ、またアメリカ最大のUFO研究団体NICAP(全米空中現像調査委・本部ワシントン)も調査員を派遣した。調査員たちは、現場の三流放射能・磁器測定、目撃者のインタビューなどを開始。一方では地元アリゾナの新聞、ラジオ、テレビが、続々と記者を送りこんで取材を開始したことも、もちろんである。
保安官事務所では、6人の供述が一致していることから、ウソとは思えないとしながらも、デッチアゲまたは共謀による「トラビス殺し」の可能性もある、としていた。11月7日、ナバホ郡保安官のマーリン・レスピーは記者会見でこう言った。「地域一帯を捜索したがトラビスは発見できなかった。ウソとは断定できないが、来週早々、ポリグラフ・テスト(嘘発見器によるテスト)を行なう。」
アリゾナ州公衆安全局の専門家サイ・ギリソン技師によるテストは、11月10日、月曜日にホルブルックの町で行われた。 結論を先に記せば、6人の目撃者のうち5人がテストをパス、アラン・ダリスは興奮しすぎていて不確定、とされた。 合計11問の内、事件に関係のある質問と答は次の通りである。
「先週水曜日の午後、トラビスに重傷を負わせたか?」 「ノー」
「仕事仲間の誰かがトラビスに重傷を負わせたか?」 「ノー」
「トラビスがどこに埋められたかどうか知っているか?」 「ノー」
「トラビスがいなくなった時、UFOをみたというのは本当か?」 「イエス」
ギリソン技師は、次のように発表した。 「目撃者たちがUFOだと考えた“何か”を見たのは確かだ。ポリ・テストは97%の確度を持つ。これだけ多数の人間が、ウソをついてテストをパスするということは、考えられない。ただしその“何か”がUFOだったかどうかは、不明である」
【トラビスがようやく語った”宇宙人と暮らした6日間”】
逃げようとした時、頭を殴られたような衝撃をうけ、あとはわからなくなった。光線などは、何も見えていない。気がつくと、頭と胸がひどく痛み、目がカスんでいる。
やがて低い天井と上から射し込む光に気づき、小さな病室のような部屋のテーブルみたいなものに寝ているのがわかった。3体の小さな人間のような生物が、上にかがみこんでいたので、ギョッとして起きた。その拍子に胸の上にあった箱のようなものが床に落ち、音がした。それは少し弓なりになっており、はだけた胸にのせてあったが、何もコード類などはなかった。箱が床で揺れ、それから出た光も揺れていた。
彼らも驚いたようだった。胎児のように未発育の生物に見え、頭の皮膚はマシュマロのようで真っ白く、目だけが大きくて耳、口、鼻は小さい。眉毛も髪もなかった。手には5本の指、しかし爪がない。身長は1メートル半か、それ以下で、同じような茶がかったオレンジ色の、ゆるい上衣を着ていた。手首と首の部分はしまっていたが、ベルト、ボタンの類は見えなかった。 私は大声をあげて飛びおり、部屋の隅に寄って身を守るものを探した。透明なプラスチックの筒のようなもの、50センチぐらいの棒が手に触れた。手に握って身構えた。“連中”は「やめろ」というような身振りをし、さっと部屋から出てしまった。
【宇宙船の中を歩いた】
部屋は蒸し暑くて息苦しい。奴らが戻って来ないうちに、と部屋を出て、廊下を反対方向に進んだ。ボンヤリと光が射しているが、どこからの光かわからなかった。廊下の壁も、なにかの金属のように感じた。 入口を一つ見つけたので入ったところ、円形のドームのような部屋で、中央に金属製の椅子が一脚あった。周囲には星がたくさん見えた。ドームが透明で外が見えるのか、プラネタリウムのように内部から投射したのかわからない。
椅子に座ってみた。10センチほどの脚が1本、床からつなぎ目なしに出ていた。固いがラクな椅子だった。右腕の当たるところにテレビのようなスクリーンと、ボタンが25個ほど並んでいる。スクリーンには目盛のついた線がX形に写っていて、ボタンを押してみると、線上に光が走り、線は回転するように動いた。左腕にはレバーがついていた。力を押すとゆっくり動く。と、ドームの周囲の星たちが、急にすごいスピードで動き始めた。急いでレバーをもとに戻すと、止まった。
【微笑するだけで返事が無い「人間」】
その時、1人の“人間”が入って来た。走り寄って声をかけたが、相手がふつうの人間ではないとすぐ悟った。微笑しているその人物は、頭には金魚鉢を逆さまにしたようなヘルメット、身体にぴったりしたライト・ブルーの着衣、黒いベルトという身なりで、顔色は褐色に近く、髪は伸ばしていた。上手には言えないが、アメリカの大都会なら、見かけそうな顔つきだった。
無言で私の腕をとると、彼は廊下に出て進み、左手のドアの前に立った。左右にドアがスライドし、小部屋に入った。2分ほどいて別のドアを通り、廊下を通って外部に出た。今の小部屋は外部の空気と入れ替えるエア・ロックのようなものか、と思った。外に出ると、今までは大きな乗り物(UFO)の中にいたとわかった。それは私が山で見たものより大きく、筋も入っていなかった。外は大格納庫のようで、大変明るかった。斜面を下って床におりる。そこには他にも2、3台の別な形のUFOがあった。出てきたばかりのUFOは角ばっていて艶消しをした金属のような表面だったが、他のものは光っていて丸みがあった。
格納庫の壁にある入り口を抜けて通路を歩き、突き当たりの部屋に入った。そこには、ヘルメットはつけていないが同じような“人間”がいた。2人が男、1人は女だったろう。全員同じユニフォームを着ていて、見たこともないハシバミ色の瞳と金褐色色の真っすぐな髪をしていた。 案内して来た男は、そのまま別のドアから出て行った。3人に話しかけたが、やはり微笑するだけで返事がない。彼らはまず私を右手にある椅子に座らせ、次いでテーブルに寝かせた(なぜ素直に指示に従ったのか、よくわからない)。そして、チューブもコードもない、酸素マスクのようなものを私の顔にかぶせた。それは黒いボールのようなものがついているだけだった。私は、かぶらせるとすぐ、また意識を失ってしまった。
次に気がついた時、私はアスファルトの上に横たわっていた。冷気を感じた。10メートル先の路上にUFOが光っており、それはアッという間に、ものすごいスピードで夜空に舞い上がって行った。音は全然聞こえなかった。
闇に包まれて、あたりを見回すと、遠くにヒーバーらしい明りが見えた。とたんに恐怖に襲われ、私は喚きながら走った。どこをどう走ったのか、とにかく村はずれのガソリン・スタンドにたどり着いたのが真夜中だったのだろう。義兄に電話したが興奮していたので何を喋ったろうか。義兄は最初のうち、私を誰だかわからないようだった。彼らに助けられ、6日間も行方不明、と聞かされてびっくりした。1、2時間ほどのこととしか覚えていなかったからだった。 落ち着いてからも頭と胸が痛く、吐き気がした。体重が5キロも減っていた。身体の具合が悪くなったのではないか、とすごく心配だったが、スチュアード博士のところに行ったら、催眠術をかけるというので、話が違うと帰ってきてしまった。





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