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あや乃

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❄霜月
小曽根さん演奏で聴きたいな
かてぃんさんも♡

いと🐰ᩚ
ゴーシュウィン

あや乃
つばさ
オーケストラのリハーサル
ガーシュウィンの
「ラプソディ・イン:ブルー」
で
冒頭のクラリネットソロや
トロンボーンのソロがやたら
味あるジャズっぽい演奏だったとき
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チャーハン大王
#昭和の歌
☆『山寺の和尚さん : コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ '37 』
服部良一がメジャーデビューした頃はアメリカで流行っていたスイング・ジャズが我が国にも大量に輸入されていたが、スイングと並行してジャズ・コーラスもまたブームになっていた。アメリカ本国では1920年代からビング・クロスビーのいたリズム・ボーイズのスタイルが流行し、リズム・ボーイズと同じキャリアだった元祖女性コーラスグループのボズウェルシスターズもデビューしてその息もつかせぬアッパーな見事なコーラスワークを聴かせていたものだ。少し遅れてデビューしたミルス・ブラザーズは後々ドゥーワップの連中にも影響を与えた。これら本国アメリカのコーラスグループの技術の進化は目を見張るものがあり、一糸乱れぬリズム感覚の上に見事なハーモニーを利かすそのテクニックたるや、ジャズファンならずとも虜にしたものだった。服部がこれらのコーラスモノを見過ごす筈はなかった。が、流石の服部もマイナー契約時代はそうしたコーラスものまでは手が回らなかったらしく、服部は日本の民謡とジャズの融合を若い時分から模索していた。服部の生まれは大阪・玉造のはずれ本庄が出生の地であった。芸事好きな父によく近くの千日前の寄席や演芸場へ連れて行かれて、自然と落語や義太夫や照葉狂言、江州音頭、俄といった浪速特有の芸事に親しんでいった。母は母で富田林出身の気のいい浪速女でやはり、河内音頭や江州音頭が好きだった。服部良一はこのような貧乏の子沢山な家庭で育まれたのだ。2人の姉は近所で三味線や小唄を習っており、そうした環境が良一を音感のいい子へと成長させたのかもしれない。そうした純然たる和雅楽に染まったせいもあり青年になってからの良一が、そうした民謡を覚えたての和声学理論で、民謡をジャズ化することは極めて自然な成り行きであった。
服部の初めてレコードの仕事は大阪・三国にあったコッカレコードで服部のレコード仕事での師匠に当たる鳥取春陽の作品を編曲して時々は大阪コロムビアスタジオでの録音に立ち会うといった仕事が最初と言われている。コッカレコードは当時も今も珍しいセルロイド製のレコードで販売しており、今でもきちんと再生出来るらしくそのレコードはどこで見つけたのかは分からないが、2013年にぐらもくらぶからリリースされた『大大阪ジャズ』という稀少性の高い昭和初期の大阪のレコードメーカーからリリースされた音盤のオムニバス集に服部良一の最も古いレコードの仕事が復刻されている。このコッカレコードのことは服部良一の唯一の自伝『ぼくの音楽人生』にも記載されているにも関わらず2013年に初版された菊池清麿著の『評伝 服部良一』の中では一切触れられていないばかりか、巻末に於ける「服部良一ディスコグラフィー」からも省かれている。今では服部良一の第三者が書いた正史的な位置づけすらされているこうした本でさえ、誤記や記載漏れがあることをこの際、はっきり記して置くべきであろう。
昭和4年発売コッカレコード№63a ♫テルミー
"Tell Me" は国歌ジャズバンド名義だが服部良一の編曲で、しかもas.の奏者は服部自身とのこと。セルロイドレコードからの復刻だから、音質は劣悪だがよくぞ、このような盤が残っていてくれたものだ。♫テルミー はこの時代、服部が道頓堀のカフェーを幾店か掛け持ちしていた頃で、シンガーがたまたまその夜、欠勤すると仕方無しに服部がメガホンで唄っている内に服部の優しい歌声が評判となり、服部には"テルミーさん"というニックネームまで付いて女の子たちから黄色い声援が飛んできた、ということが自伝にも書かれている。♫テルミー は服部にとっても思い出深い一曲なのである。そういう意味で、アルト・サックスのソロだけだが、復刻盤で今の世にそれが聴けるというのはこの自伝の記述を裏付けるに足る重要な一曲ということになるのである。又、翌昭和5年リリースのコッカレコード№.144bの♫串本節 も服部の編曲とサックス(Cメロディサックス)でこのレコードは服部良一の名が初めてレコードレーベルに記載された記念碑的レコードだという。編曲・指揮者と記載されたらしいが、実際はサックスのソリまで吹いているのだから、若き日の服部の前のめりさがひしひしと伝わってくるではないか。
これらを発掘し、リリースさせたぐらもくらぶ並びに(株)メタカンパニーのスタッフらと毛利眞人らの尽力に深謝するのみである。こうして服部良一のレコードキャリアは最初からジャズ+民謡という和洋折衷から始まったのだ。
引き続きマイナーレーベルに身を置いた服部は紅茶メーカーとして有名な日東紅茶が親会社だったマイナーレコードのニットー時代にはキャリアハイの音楽監督という地位にまで上り詰めた。ここで服部は作曲、編曲家としてのみならずニットーレコードでリリースするレコード企画にも参画出来る立場を意味していた。服部の民謡+ジャズの需要はそこそこ保たれながらも他のレコード会社、ましてやメジャー級のレーベルでも各社自慢の編曲家達が次々と民謡をジャズ編曲したレコードをリリースしてゆき、服部ブランドは業界内でステイタスとなってゆく。この民謡+ジャズの精神は戦後も行なわれてゆき、この傾向に着目したのが大瀧詠一だった。彼の幼少期のスター小林旭がコロムビアから相当数の民謡をロック化してリリースされている事実を暴き、後に『日本ポップス伝』としてNHKFMから数回にわけて放送されたことは大瀧が日本に於けるポップスの歴史を俯瞰して解説するというミュージシャンのポップス史として注目に値する。この放送の中で大瀧は服部の初期コロムビア時代のレコード♫草津ジャズ を紹介して戦前に於ける腕利きミュージシャンによる民謡+ジャズの最高峰として紹介していた。又、ニットーレコード時代の印象的な仕事のひとつに、ビクターレコードの♫さくら音頭 の大ヒットに乗じたニットー版♫さくら音頭 の企画が持ち上がった時にも服部は敢然と抗議した様が自伝に書かれている。要するにニットーでもこの機を逃すまいとして、ニットー版♫さくら音頭 を!となった時に服部は……今更月並みな音頭をリリースしても大して売れないだろうと、いっそ違うアプローチが必要だ、と説いたのである。じゃーあ、どうしたら?という幹部連達に……おけさはどうでしょう?と提案したのだ。こうして昭和9年4月に浅草美ち奴の唄でリリースされた♫さくらおけさ はニットーレコードのメイン販路であった関西圏で一定の売上を記録したという。こうして服部良一の単なる作編曲家としてのみならない我が国ポップス界への貢献、という点に於いてはやはりジャズコーラスモノへの着手も見逃せられない。服部のニットーレコードに於ける音楽監督としての功績は民謡+ジャズ、の他にも例えばニットーレコード内に別レーベルを立ち上げた点も見逃せない。それはニットーレコードにドイツのクリスタルレコードと原盤供給契約を結ばせた点で実現が出来た。昭和9年11月に『日本クリスタル蓄音器合資会社』が設立された。このクリスタルレーベルで服部はいよいよ本格的にアメリカ産スイングジャズの歌謡曲化へのかなり思い切った舵を切る。例えば敬愛していたアメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンの作曲した♫ラプソディー・イン・ブルー のようなシンフォニック・ジャズを作品化したりした。それが昭和10年6月リリースの♫意想曲1936(1)(2) である。これは服部の初の管弦楽曲であり、次年度の日本と世界の姿を交響楽にまとめた作品であり、意欲作であった。
楽曲形式は変奏曲で、途中♫ヴォルガの舟歌 や♫スラブ行進曲(チャイコフスキー作曲) の旋律が使用されたり、時に日本軍歌の名曲♫戦友 までもが飛び出す。レーベルには"日本クリスタル交響楽団"と記されたが内実は新交響楽団(後のNHK交響楽団)が演奏したらしい。そこに当時服部と仲の良かったジャズマンである谷口又士のtb.や斉藤広義のtp.が加わった豪華なミュージシャンたちが自慢のプレイを披露されたレコードだった。こうした実験精神が見事に結実したレコードの仕事を残した服部だったが、実はニットーレコード時代にも僅かながら、ジャズコーラスを試した痕跡が確認できる。昭和10年12月リリースの♫カッポレ はニットー・リズム・ボーイズという謎のグループにより吹き込まれてリリースされている。又、服部の作曲した楽曲でもしばしば男声(乃至女声)コーラスが登場するが、レーベルクレジットはなくとも明らかに服部がジャズコーラスを試している録音としては昭和10年6月リリースのクリスタルレーベル№.2008A♫カスタネット・タンゴ では藤川光男名義で吹き込まれたレコードで女声コーラスがハーモニーを付けている。因みに同曲は戦後の昭和24年に藤山一郎がカバーしている。その前月5月にもクリスタルレーベル№.2002B♫僕等のハイキング ではメインボーカル志村道夫のバックで男声コーラスが、確認出来る。又、服部はコロムビアへ移籍する直前にニットーレコードでコーラスグループを編成し「ファイブスターズ」と名付けてレッスンさせていたが、このグループ名義のレコードはとうとうリリースされずに、コロムビアへと移籍してしまう。
昭和11年4月~いよいよニットー及びタイヘイレコードの契約を満了し晴れて大手レコード会社コロムビアレコードへ移籍入社した。翌5月リリースの淡谷のり子とリズム・シスターズ名義の♫おしゃれ娘 は数えてコロムビアレコード移籍第5弾シングルで服部はここでメインボーカルの淡谷のり子のボーカルの間隙を縫うようにボズウェルシスターズ張りの女声コーラスを大胆にも起用する。いよいよ服部のジャズコーラスモノがここで早くも登場する。その後も、当時のレコード各社の共演盤となった外国曲のカバーとなった♫ミュージック・ゴーズ・ラウンド 、二葉あき子をメインボーカルに迎えてリズム・シスターズが活躍する♫月に踊る ♫ビロードの月 淡谷のり子とリズム・シスターズの再びの共演盤♫涙の踊子 、服部と中野忠晴プラスナカノ・リズム・ボーイズの初コラボ作品♫東京見物 に♫支那ルンバ 、などメインボーカルに彩りを添えるジャズコーラスモノは充実してきたが、服部の中ではもう一歩踏み込みたかった。それにこれらの意欲作は決してヒットした、とはおよそ言い難かった。それが遂に服部のコロムビア移籍後の初ヒットがリリースされた。それがあのジャズコーラスの傑作♫山寺の和尚さん であった。これについては服部の自伝に詳述されているので引用しよう。尚、この楽曲については作曲は服部ではなく日本古謡としている資料もあれば服部の作曲としているものもあり、統一見解が待たれる。何れにせよ、服部が大胆にもメインボーカルを置かずに、コーラスグループのみでのヒットは服部をして喜ばせたに違いない。
……ぼくは、むしろ、次のアップテンポの
♫ダガジグ ダガジグ ダガジグ ダガジグ エーホッホー
(リフレイン)の反復部分にジャズコーラスの真髄を見出していて、このアイデアはぼくが自由にやったところである。こうしたスキャット唱法はリズムメイカーとしてのぼくの武器であった。先輩作曲家達に追いつき追い越すには、ぼく自身の個性が必要である。それまでの♫おしゃれ娘 ♫東京見物 ♫月に踊る がヒットに至らなかったのは、中途半端なところがあり、メロディー優先の歌謡曲調を残していたからだという反省があった。♫山寺の和尚さん では、思い切ってリズム本位にし、ジャズ調に徹した。しかし、それだけでもヒットはしなかっただろう。題材に誰でも知ってる日本古謡の手毬うたを取り上げた事が良かったのだと考える。つまりジャズはジャズでも日本のジャズを目指した事が成功に繋がったのだろう。……
続




山寺の和尚さん

しおん
そしてアンコールの際は再び自ら屋根を上げてから演奏。

マサヤス 龍之介
☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.24
[最終回]』
ハリージェイムズ楽団の花形シンガー ヘレンフォレストが在団していたさ中に一番売れたレコードは1942年にリリースされてヒット・チャートで13週もの間、1位の座を続け、当初B面として発売したレコード会社は急遽A面とB面を入れ替えたという♫ I’ve Heard That Song Before 日本では
「いつか聴いた歌」というタイトルで馴染み深い。生前、人気イラストレーターの和田誠さんがジャズエッセイを出版された時にこの邦題を本のタイトルにした程だった。ハリーのスイートから脱却した素晴らしいスイングスタイルで、長い前奏から唄い出すヘレン・フォレストの甘美かつチャーミングな歌声で色香を振り撒いた後に再びハリージェームズのリードする締まったブラスセクションの歯切れのいい演奏で一気にエンディングまで持ってゆく、という構成は、スイングジャズの本質を見事に表現した傑作であった。この歌が売れた要因としては同年にアルバート・S・ロージェルが製作・監督した、ミュージカル・コメディ映画「YOUTH ON PARADE」で使われたことも大きかったと思料するが、戦時中ということもあり我が国ではとうとう未公開に終わった。戦後大分経ってから日本でも公開されたロバート・ミッチャムがフィリップ・マーロウを演じた「さらば愛しき女よ」(Farewell, My Lovely-1975)やウディ・アレンの「ハンナとその姉妹」(Hannah And Her Sisters-1986)などの映画にも出てくるのだが、ウディが好きな私などはやはり後者の印象が強い。
1943年にヘレン・フォレストが失意のうちにバンドを去ったが、ハリーは次々とボーカリストを替えて行きバンドの人気は保った。1945年に入りハリーはデューク・エリントンともビッグバンドジャズの共に先輩後輩という関係以上に仲が良く親交があった。デューク・エリントンのバンドメンバーで人気サックス奏者だったジョニー・ホッジスがデュークの楽団リハーサル中に不意に吹いたアドリブ演奏のフレーズが気に入り記譜したところ、デュークと仲の良かった作詞家のドン・ジョージが大変気に入り、詞を付けて是非録音する様にデュークに促したが、何故かデュークはバンドで録音することに懐疑的だったと云う。こうして名曲♫ I’m Beginning to See the Light 邦題:灯りが見えた は数年放置されたが、'45に入りデュークの勧めに応じる恰好でハリーも作曲者に名前を連ねることを条件にハリー・ジェームズ楽団で録音されることとなった。当時起用仕立ての女性ボーカリストである、キティ・カレンが華を添えた。OP.とED.にアラン・リュースの小粋なギターのカッティングが入り、この演奏がただならぬスイングジャズではない予感。サックスセクションの中和音のベーシックなアンサンブルも頗る恰好いいが、やはりリーダーのハリーのtp.ソロはそれまでの華やかなスタイルから一転、黒っぽいブラックスタイルなジャージーな見事なソロで、ハリーがただのビッグバンドリーダーなどではなく、優秀なジャズペッターであることの証左である。
私は実はこの曲は1980年代に我が国の優秀な女性シンガー金子晴美のヴァージョンで初めて聴いていたが、やはりこのオリジナルを聴いてしまうとこのキティカレンの独特の声に惹かれる。唄そのものはキティより金子の方が数段上を行っているが、キティのこのくぐもった様なそれでいて甘い声に、ジャズヴォーカルの真髄を聴いた気がする。つまり唄と云うものは単に上手けりゃいいと云うもんじゃないと云うことである。この二律背反した心境はなんとも難解な解釈だが、自分でもそれを詳しく解説する言葉を持ち合わせない。キティの声は私が想像するに、ミルドレッド・ベイリー⇒ケイ・スター⇒キティ・カレンと云う系譜に属すると思う。飽くまでも声の解釈だから勿論、歌い方では決してない。生まれも育ちも三人とも皆、バラバラだから出身や人種と言った所の問題では無い気がする。因みに金子晴美のこの歌が入っていた1985年のアルバム『マイ・リトル・ドリーム』は、ガーシュウィンが作曲した楽曲でありながらそれまで未発表だった♫ PAY SOME ATTENTION TO ME がA面冒頭で聴ける実に稀有なアルバムであった。金子は1983年に当時のサザンのストリングス&ブラスセクションアレンジャーだったジャズピアニストの八木正生を迎え、桑田佳祐の一連の楽曲をド直球のジャズヴォーカルアルバムにまとめた『スペシャル・メニュー』もリリースして話題を集めた。どれも素晴らしかったが♫Just A Little Bit は渾身の一曲だった。サザンファン、桑田ファンなら必聴の1枚である。
さて、話が逸れたがこの『Uber Jazz』コラムでのスイングエラの女性ボーカリストシリーズ最後に紹介したいのが前曲と同じ1945年にハリー・ジェームズ楽団、ヴォーカル:キティ・カレンのヒットチューン♫It's Been a Long Long Time 邦題: 久しぶりね である。この楽曲こそ私が学生時代に友人たちと夏に東京の西端の山奥の渓谷にキャンプ🏕に訪れた際に、ラジオから不意に流れてきてカラダ中に電流が流れた、と云う程のショックを受けた楽曲である。イントロの楽団員全員による感動的な始まりで早速心を掴まれた。そして24人に増員されていたストリングス短いブレイクに次いで流れるように颯爽とハリーのペットが咽び泣く😭昔、我が国ペッターの第一人者バンちゃんこと、光井章夫もハリーのこの最初のペットソロを聴いてプロのペッターを目指した、と云うエピソードを思い出させる。ハリーのソロのバックではブラス&ストリングスセクションが低くとも己らの主張をしていて、そしてブリッジはまたしても大弦楽器群が華麗に飾りキティのヴォーカルが始まる。何処を切り抜いても只管大袈裟で甘美なアレンジになっているのは、この歌が大戦に参加した若き兵隊達が帰還するに際し、待人であった彼女や奥さん達が、どれだけ貴方を待っていたことでしょう、ねぇ、キスして!そしてまたキスして、何も考えずに今はただ抱きしめて、只管キスして欲しい……と云う再会の感動を謳い上げた歌だったから、その歓喜をビッグバンドジャズ表現したものであることから、この様なアレンジになってしまったのだ。同年にはこの楽曲はビング・クロスビーのレコードも大層売れたと聞く。そちらは好対照に、小編成でビングらしいあっさりとしたもので、逆にサラりと淡白だからこその味わいと云うか、ハリー・ジェームズのレコードとは真逆だからこそ売れたと云うべきか。人々の再会にも様々な形があると言いたげな人生模様をレコード盤を通して知る事が出来るようになっているのである。ハリーのレコードで唄っていたキティ・カレンはやがて時代が8ビート全盛になってからもフェイメールのジャンルで売れ続け、今でも相当量のCDになっていることがネットでも確認出来る。
スイングエラと呼ばれた約10年に及ぶ時代は第二次世界大戦を挟んでスイングミュージックが世界的に隆盛を極めた時代でもあった。今後もスイングジャズを深堀りしてゆくのでお楽しみに。



It's Been a Long, Long Time (feat. Kitty Kallen)

チャーハン大王
#昭和の歌
☆『別れのブルース '37』
淡谷のり子。服部良一がコロムビア・レコードに移籍してすぐの1936年昭和11年に早速アップテンポのスイングジャズ風流行歌♫おしゃれ娘 を淡谷に提供している。服部はマイナーレーベル時代から淡谷の洋楽テイストなレコードをかなり聴き込んでおり、淡谷のり子と云う女性シンガーにかなり早い段階から注目していたことが自伝に書かれていた。そんな淡谷の才に、服部は入社早々からいきなり、かなりな4ビートのリズムの利いたスイングセッションを宛てがい、効果の程を実感した。
淡谷は1929年昭和4年に東洋音楽学校声楽科を首席で卒業、卒業公演でウェーバーの♫魔弾の射手のアガーテのアリア をその美しいソプラノで披露して、翌日の新聞でも取り上げられ「十年に一度の新星」と賞賛され、誰もがクラシック界へ進むものと思っていたが、元々、没落していた青森の実家、淡谷家を支えて行かねばならず、クラシックで自分の身辺の生活費からまとまった仕送りを賄うのはとても無理と云うことで、流行歌手の道を選択したのだが、当時流行りのヨナ抜き短音階の演歌風流行歌だけは唄うまい、と決めこんでおり、唄うならフランスの香気溢れるシャンソンや情熱のラテンのリズムであるルンバやタンゴといった所謂、ジャズソング系のものに自分の表現法を賭けようと意気込んでいた。東洋音楽学校在学時の頃の実家は赤貧状態でそんな状況でよく音楽学校へ淡谷も行ったな、と思うほどだがそこが淡谷のり子と云う人物を表している。要するに、好きな事には身を賭してでも打込みたいという欲求を抑えきれなかったのだ。身銭は自分で稼ぐ…の精神でバイトを始めたが、選んだのが当時絵画界でも先鋭的だった太平洋画会の裸婦のモデルだった。やがて倍率の高いオーディションを勝ち抜いて淡谷は何とかモデルになることが出来た。高名な画家、田口省吾の「裸婦臥像」が二科展に出品されたモデルが若き日の淡谷だった。田口のアトリエで裸になっていた或る日、休学していた東洋音楽学校で淡谷のピアノの講師をしていた吉原が「おい田口、いるか」と怒鳴り込んできて、裸の淡谷を咎めた。淡谷は一目散に逃げ出した。吉原は田口へ淡谷が音楽学校の生徒で前途有望な娘であることを話した。後日、田口は淡谷へ「キミのことは吉原君から聞いたよ。そういう悩みも打ち明けて欲しい。僕は全て呑み込んだから君は学校へ戻り給え」そう言って淡谷のみならず、目を患っていた淡谷の妹の治療代も田口がすべて面倒を見てくれた。おまけに学校へ戻った淡谷を待ち受けていたのは、それまで一介の生徒に過ぎなかったのにいきなり特待生になり月謝免除という素敵なご褒美だった。これは単(ひとえ)に吉原先生の尽力によるものだったが、同じ東洋音楽学校で淡谷の声楽の師、久保田稲子の一押しも功を奏したようだ。久保田は早くから淡谷の才能を見抜き、経済的にも立ち行かない淡谷家の実情の事も把握した上で敢えて厳しく学校では淡谷に接したが、1歩学校を出ると、お腹を空かせている淡谷にカツライスを奢ってくれたと云う。そして淡谷が壮年期になってからもずっと淡谷を陰で応援し続けた。1985年昭和60年にNHKラジオ第一でオンエアされた淡谷の特別番組にも未だかくしゃくとしていた久保田がラジオ出演して淡谷と対談したテープを私は持っている。こうして見てくると淡谷のり子と云う人物は、周囲に数多の良き理解者たちに恵まれた、とも言えるであろう。東洋音楽学校(現.東京音楽大学)では大正期から高名な声楽家だった荻野綾子に最初は気に入られたと自伝にも書いてあった。荻野綾子、吉原先生、久保田稲子、田口省吾と来てやはり服部良一とのコンビは日本にブルースを浸透させたいと云う服部良一の思いを、作詞家になり立てだった藤浦洸、♫別れのブルース のディレクターだった山内義富に淡谷当人のチームが一丸となり受け止めて、その目標の為に努力した甲斐もあり、成功したミッションだった。
♫別れのブルース は最初は服部良一が日本のブルースを作るべきだ、と藤浦洸とコンセプトをあれこれディスカッションしながら案出した。その数日後、服部は横浜の本牧界隈のチャブ屋街にある一軒のバーで洋酒を傾けていた時に退廃的なシャンソンの♫暗い日曜日 が流れ出した。その時のレコードはその前年の秋にリリースされたばかりの淡谷のり子が吹き込んだものだった。服部はフランス本国版のダミアが唄った盤が好きだった。服部はその時の衝撃を自伝にこう綴っている。「…淡谷のり子の声だ。(中略)今、この本牧のチャブ屋で聴くと、一層の哀愁が強まり心が震えるのを覚える。淡谷のり子だ。本牧を舞台にしたブルースを彼女に歌わせよう。もっともっと低い、ダミア張りの声で…僕はバーを出ると、嬌声が飛び交う夜のチャブ屋街を夢遊病者のように歩いた。ブルーな旋律の断片が、見下ろす港の、沖から寄せる黒い波のように暗く悲しく浮かび消えていった」この服部の記述は貴重である。♫別れのブルース は当初本牧ブルース と題されたのだが、コロムビア・レコード宣伝部からの強い反対に遭い、仕方なしに♫別れのブルース に改変したものだった。つまり何故本牧だったのかの動悸がここに記されているからであり、話は共案者の藤浦洸にも飛び火するからである。翌朝、服部は社で藤浦を捕まえて会議室で昨夜の興奮を話した。そこで藤浦に軍資金として2円50銭ばかりを握らせて…君も早速本牧へ行って詞を掴んできて欲しい…これで、本牧ブルースを作ろう!藤浦はこの時はまだコロムビア・レコードのエドワード文芸部長の私設秘書、と云うかなり曖昧な肩書きで、社内を彷徨いていたので給料も安かったらしい。藤浦の著書には30円渡された、となっていて金額に可也の差異があるのが気になる。藤浦はやはり本牧へ行き裏ブレ気分を満喫してきたが、後日「それでも中々、詞にすることは難しい」と焦燥していた様なので、服部はアメリカの有名なブルース曲を書いたW.Cハンディの書いた名著『ブルース』を藤浦に進呈して、ブルースの基本形である三行詩形の十二小節で見事な『本牧ブルース』を数日後に書いてきた。ハンディの『ブルース』効果が早くも現れたのだ。
♬.*゚窓を開ければ 港が見える
最初藤浦はここだけしか書かない。服部が怪訝な顔をすると、「君なら、次をどうする」藤浦お得意の茶目っ気だ。自信がある証拠だ。服部もふざけて…犬が西向きゃ、尾は東…とカマした。痩身の憂愁詩人は、勿体ぶって首を振り、ペンを走らせた。
♬.*゚メリケン波止場の 灯が見える
服部は「うん、いいねえ。君の得意のカタカナが出たね」
♬.*゚夜風 潮風 恋風のせて
今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ
録音当日、淡谷と服部が少しもめた。「私はソプラノよ。こんな低い音、アルトでも無理じゃない。歌い出しが下のGなんて無理よ」昭和10年代に入ると淡谷は俄然、シャンソンやタンゴの洋楽の日本語盤を積極的にレコードリリースしてゆく。♫ポエマ ♫ヴェニ・ヴェン ♫マディアナ など、兎に角綺麗なソプラノだった。だが、この『本牧ブルース』は彼女に当てて書いたのである。彼女の可能性に賭けた歌である。服部は少々語気を強めて云った。「ブルースはソプラノもアルトもないんだ。魂の声なんだ。マイクにグッと近づいて、無理にでもこの音域で唄って貰いたい」余りの熱量に淡谷も従ったが、その服部の狙いは功を奏したようだ。
だが、一難去ってまた一難、制作陣は仕上がりに自信満々であったが、社内試聴会で営業サイドが、難色を示したのである。「何だか詩も曲も頽廃的ですな。時局に対していかがなものでしょう」「第一このブルースってのはなんです?」
「今までにはないタイプの曲だから、少々心配ですな」「本牧と云うタイトルは知名度が薄いから変更するべき」山内DE.が矢面に立って、懸命の防戦をする。漸く、タイトルを♫別れのブルース と改題して売り出すことで妥協をみた。だが、営業のおエラ方から「やっぱりブルースが気に入らん。別れの曲 とか別れ小唄 とかに出来ないか?」その戦況を黙って聞いてきた服部が憤然と反論した。「それではこのレコードが死んでしまいます。ブルースが、ボクらの目的なんです。今に、日本中のレコード会社が、どこも争ってブルースを作りはじめますよ。その時にコロムビアが後塵を拝して宜しいものでしょうか?時局とは関係ありませんよ」拍手をしたのは文芸部の面面で営業関係者は憮然たる表情だった。「ま、会社が辞を低くしてお迎えした服部先生がそれほど仰るのでしたら、これで行きましょう」昭和12年7月♫別れのブルース
はリリースされた。厳密な意味で我が国のオリジナル曲でのブルースと云うものは遡ること3年前の昭和9年にポリドールから藤田稔名義でリリースした若き日の灰田勝彦の♫浅草ブルース は服部の言うブルース音形で作られた我が国第一号のブルースである。だが、こちらは殆ど売れなかった。因みに作詞はサトウハチローで作編曲は本邦初ガーシュウィンの♫ラプソディー・イン・ブルー を日比谷公会堂で初演を務めた紙恭輔であった。服部も常々尊敬していた人で、どちらかと云えばクラシック系の人であった。
♫別れのブルース は営業や広報からほぼ見捨てられた形となり社としては殆ど無かった為にリリースから3ヶ月ほどは全く売れなかった。…やはりだめか。_| ̄|○ il||li♫別れのブルースプロジェクトの4人は意気消沈するしか無かった。昭和12年晩秋の或る日、満州・大連のダンスホール「ペロケ」で自分の楽団ホットペッパーズを率いて専属していた和製ルイ・アームストロングこと南里文雄から「この夏に東京で淡谷くんとレコーディングした♫私のトランペット も好評だが、それよりも淡谷くんの♫別れのブルース のリクエストが多い。よって、ショーのプログラムには最近じゃ♫別れのブルース を必ず入れてるよ」といった内容だった。不思議なこともあるもんだねえ……。服部が藤浦と話ていると、実は藤浦のところにも作家 浜中浩から絵葉書が来ていて「お前、へんなものを作ったね。♫別れのブルース 満州で大流行だよ。お前を連れて来りゃあ良かった、と皆言ってるぞ」同じような内容のものだった。それから数日後、漫画集団の横山隆一、近藤日出造、清水崑達がコロムビア宣伝部の玉川一郎のもとへ来て騒いでいた。「おい、玉川。♫別れのブルース ってのは、君んとこのレコードだろう。あれ、満州で大流行りだぜ。兵隊達も唄ってるし、病院の掃除の👩💼( '-' 👩💼 )オバチャンたちも唄っていた」驚いたのは玉川で、営業の方へ確認すると、もうすでに17万枚を突破していると云うではないか。「畜生め、売れているなら営業もそう云えや」後のユーモア作家玉川一郎は、機を逸すべからざると追いうちのキャンペーンに掛かった。♫別れのブルース は発売三ヶ月後に、まず外地で火がつき、長崎、神戸、大阪、横浜と港づたいに東上してきて最後は東京で爆発的にヒットしたのである。川崎のコロムビアプレス工場は連日徹夜作業でも注文に応じ切れない程だったと云う。港港から拡がって、全国の港では自分の港になぞらえて愛唱されているところが面白い、と服部自らが語っている。メリケン波止場と云うのはどこにでもあるようだ。
続
参考文献:
なつめろの人々 藤浦洸 読売新聞社刊 1971年
ブルースのこころ 淡谷のり子 新日本出版社
1978年
ぼくの音楽人生 服部良一 日本文芸社 1993年




別れのブルース
なーこ
岬の元に競演のオファーが届いた
ショパンコンクールにて一緒になったアメリカのピアニストからだった
アメリカは大統領が変わった後、荒れに荒れていた
そんなアメリカを音楽で少しでも繋げられないか、人種を超えて分かりあうことはできないのか
そんな思いを胸にガーシュウィンをチョイスし、講演に向けて動き出す
その裏では新大統領暗殺の計画が動いており...
岬洋介シリーズの新作
今回は他のとテイストが違った
そして結末に近づくまで全くはっきりしなかった
芸術や音楽ってビジネスの面と自分のやりたい事をバランス取るの難しすぎるなと感じた
ビジネス面の言葉は辛辣でも正しくて、でも演奏者には希望があって...
そのバランスを音楽に全振りしている岬の最強さが圧巻
だからこそ出てくる心からの純粋な思いは時には理想主義すぎると感じるけれど、音楽の持つ力を信じてやまないからなんだよね
今回の結末は特段悲しいものだったけど、「音楽家として」だったのが救いだったかな
これから読む方もいらっしゃると思うからざっくりにしました
気になった方はぜひ
#読了
#読書
#ひとりごとのようなもの

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マサヤス 龍之介
愛用品:宮沢賢治のペン立て
嗜好類:タバコ〜ピースSL 酒〜サントリー角瓶
趣味 :アナログレコード鑑賞 主にErly Jazz シティポップ 昭和SPレコード
グラヴィティ音声ルーム
食 : 元々、関東人なので焼きトン、魚は赤魚粕漬け たまに細巻き寿司 山芋短冊切
り 藁納豆
プロ野球 : 10歳頃から阪神タイガースファン
フォロワー要綱:以後放置な方は随時外してます。
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Chakka
何やら大人げなく足掻いている。
それでいいのだ。たぶん。
…53歳の嫁きそびれなんてこんなもん(´-ω-`)
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なーこ
読了した本📚と大好きなアクセサリー💎💍と見た映画🎞️を垂れ流すアカウント
(たまーに自撮り🤳)
INTJ -Aなので愛想悪め...(わざとじゃないんやで、心のATフィールドが厚いの...)
絡んでくれるとだんだん心開けるかも...?
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つばさ
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いと🐰ᩚ
うさぎとの暮らし 02 静岡
基本返信早いけど、仕事の時は都度になるからよろしく
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