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Uさん無職Lv0.4

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せっかくカナン株価上がっていい気分なのにYahooファイナンスでカナンの掲示板見ると毎月ずっと荒らししてる害いて萎える、いい歳こいたおっさんが掲示板で何やってんだか。
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オラソワfdはユークロfdを見習ってくれ
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なお

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なぜ「たった一回」のミスで約束の地に入れなかった?モーセの岩を打った話から見る神との関係性

僕は最近、こんな自分自身の経験を思い返していました。

ついカッとなって、大切な人にきつく言ってしまった後、「ああ、またやってしまった…」と後悔する瞬間です。

その時、聖書の中のモーセの一つのエピソードが、以前よりも深く胸に刺さるようになりました。

民数記20章に記された「水が出る岩」

荒野を旅するイスラエルの民が、またしても水がないと不平を言い始めました。

その時、神はモーセにこう命じられます。

「杖を取り、兄弟アロンと共に民衆の前に進み出よ。彼らの目の前で岩に命じて水を出させなさい」(民数記20章8節、大意)

ここでヘブライ語原文を見ると、神が命じた言葉に注目すべき点があります。

神は「岩に命じなさい」と言っています。

ヘブライ語で「命じる」を意味する「דַּבֵּר」(ダベール)は、言葉で語りかけることを指します。

つまり、神はモーセに「岩を打て」ではなく、「岩に言葉で語りかけよ」とお命じになったのです。

モーセの「二度打ち」

しかし、モーセはどうしたでしょう。

彼は民の前でこう叫びました。「聞け、反抗する者たちよ。われわれがこの岩から、あなたがたのために水を出さねばならないのか」(同10節、大意)

そして、岩を二度、杖で打ったのです。

確かに水は出ました。民と家畜は飲むことができました。

でも、僕がこの場面を読むたびに感じるのは、モーセの行動の中にある「わずかな、しかし決定的なズレ」です。

神は「岩に語りかけよ」と命じられたのに、モーセは「われわれが…出さねばならないのか」と言い、岩を打ちました。

その「二度」という動作の中に、僕はつい見逃してしまいそうな重大なことが隠れている気がしてなりません。

カナンの地に入れなかった理由

神はその後、モーセとアロンにこう宣告されます。

「あなたがたはわたしを信じず、イスラエルの人々の目にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが与えた地に導き入れることはできない」(同12節、大意)

たった一度の、岩を二度打った行為。

なぜそれが、約束の地カナンに入れないという、これほどまでに重い結果につながったのでしょう。

僕が思うに、ここでの核心は「行為そのもの」よりも、「行為に表れた心の姿勢」にあるような気がします。

モーセはその瞬間、神の指示を正確に伝える「器」としてではなく、民の不平に苛立ち、自分自身の力と権威を示そうとしてしまったのではないか。

「神の聖なること」を民の前に現すべきところを、「自分たち」を前面に出してしまった。

そのわずかなズレが、神との関係における決定的な違いを生んでしまったのだと、僕は感じずにはいられません。

僕自身に問いかけること

この話を読むたび、僕は自分自身に問いかけます。

自分もまた、神に委ねるべき場面で、つい自分の力や方法に頼ろうとしていないか。

人々の前に立つ時、神の栄光を現すよりも、自分の正しさや能力を示そうとしていないか。

モーセのこのエピソードは、神と共に歩むことがいかに細やかで、全人格的な関わりを求めるものかを教えてくれます。

たとえ長年信仰の道を歩んできた者でも、一瞬の心の緩みが、神との関係を損なうことがある。

それほどまでに、神は私たちの「心の向き」を大切にしておられるのだと感じます。

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僕は今、モーセ五書をマンガで学び直しています。

一つの場面、一つの言葉の重みを、じっくりと味わいながら。

もしこのモーセの物語に興味を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひマンガ版でその深みを感じてみてください。

気になった方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#民数記
#神との歩み
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なお

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ゼレドの川を渡る意味~約束の地への「本当の入り口」はどこにあるのか?

聖書を読んでいると、細かい地理の違いに「なぜ?」と感じることがありますよね。
先日、読者の方からご指摘をいただき、僕自身もあらためて学び直したことがあります。
実は、約束の地への境界には重要な二つの川があるんです。

ヨルダン川とゼレド川、その決定的な違い

確かに、一般的に「約束の地に入る」と言えば、ヨルダン川を渡る場面を思い浮かべます。
ヨシュア記のクライマックスですからね。

しかし申命記2章13節を見ると、主がこう言われています。
「さあ、立って、ゼレドの川を渡れ。わたしたちはゼレドの川を渡った。」
この「ゼレドの川」を渡ることが、38年ぶりの決定的な一歩だったのです。

ここで、僕は地図を広げてみました。
すると、ゼレド川は死海の東側、現在のヨルダン国内を流れる川で、約束の地の東の境界線の一つでした。
一方、ヨルダン川はその西側、カナンの地そのものへの入り口です。

つまり、ゼレド川を渡るということは、「約束の地の境界地域に入ること」であり、そこからさらに進んでヨルダン川を渡り、「カナンの地そのものに入ること」が次の段階だったのです。

ヘブライ語が示す「境界」の重み

申命記2章13節の「渡れ」という命令のヘブライ語は「イブルー」(עִבְרוּ)です。
これは「通過する」「向こう側へ行く」という意味で、単なる地理的な移動以上の、象徴的な意味合いを持っています。

38年の荒野の旅を終え、ついに「約束の地の境界」であるゼレド川を渡る。
これは、単なる移動ではなく、「神の約束の領域へ足を踏み入れること」を意味する決定的な瞬間でした。

僕はここに、深い象徴性を見いださずにはいられませんでした。
私たちの信仰の歩みにも、「ゼレドの川」のような境界線があるのではないでしょうか。
完全な約束の成就(ヨルダン川渡渉)の前段階として、まず「約束の領域の入口」(ゼレド川渡渉)に立つ時がくる。

その一歩一歩が、神様の計り知れない導きの中にあるのだと感じます。

「あの川」を渡る勇気

申命記2章14節には、こう続きます。
「カデシュ・バルネアを出てから、ゼレドの川を渡るまでに、三十八年かかって、そのときまでに、宿営のうちの戦士たちがことごとく滅びうせた」

38年かかって、ようやくゼレドの川にたどり着く。
それだけの時間を必要とするほどの、信仰の「準備期間」があったのです。

古い世代の戦士たちが滅び、新しい世代が育ち、いよいよ約束の地の境界を目の前にする。
このゼレドの川を渡る決断は、ヨルダン川を渡るための「予行演習」であり、「信仰の宣言」でもあったのだと思います。

私たちの人生にも、「ゼレドの川」と呼べるような境界線があるかもしれません。
完全な約束の成就の前に、まずその入口に立つことを求められる時。
そこで必要なのは、38年の待ち時間を経て与えられた「今、一歩を踏み出す勇気」ではないでしょうか。

このモーセ五書を描き、学びながら、僕自身も多くの「ゼレドの川」と向き合っています。
一歩を踏み出すための信仰が、少しずつ与えられていくのを感じます。

もしこの荒野の旅路に興味を持たれたら、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めるマンガ版で、この深い旅路を共に追体験できたらと思います。

#モーセ五書マンガ
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#ゼレドの川
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