近すぎる距離彼氏と別れた日、私はいつも通り仕事をした。キャバ嬢だから、泣いた顔のまま出勤するわけにもいかない。ドレスを着て、笑って、グラスを空けて、気づいたらベロンベロンだった。店を出て、タクシーを呼ぶ。家までは、ほんの少し先。歩けなくもない距離だけど、今日は無理だった。前に呼んだとき、「近すぎる」って怒られたのを思い出す。また嫌な顔されるかな、と思った。来たのは、白髪まじりのおじさんだった。行き先を言うと、「いいですよ」って、笑顔で言ってくれた。それだけで、少しだけ、力が抜けた。酔っていたし、もうどうでもよくなっていて、私は別れた彼氏の愚痴を話し始めた。強がって、笑い話みたいにして、でも途中で、声が揺れた。おじさんは、「うんうん」って聞いてくれる。ちゃんと聞いてくれる人の相づちは、自分が思っているより、ずっと優しい。少しして、おじさんが言った。「忘れましょうか」胸の奥が、一瞬だけ空いた。でもすぐ続けて、「でも、 いい思い出は覚えておきましょう。 それがあったから、 今日まで生きてこられたんやと思います」私は、何も言えなかった。忘れたい夜も、覚えていたい時間も、同じ人からもらったものだ。家が見えてきた頃、ガリ、って音がした。おじさんは車を降りて、タクシーについた傷を見て、しばらく動かなかった。「……すみません」その背中は、失敗した人の背中だった。その瞬間、私の失恋は、急に名前を失った。大したことじゃない、なんて言えないけど、今ここで泣く理由でもなかった。「大丈夫ですよ」自分でも驚くくらい、自然に声が出た。「私、 今日は これくらいじゃないと 帰れなかったと思うし」おじさんは、少しだけ顔を上げた。そのとき、雪が降ってきた。静かで、遅くて、ちゃんと白い雪。今日はクリスマス。ホワイトクリスマスだ。おじさんは、フロントガラス越しに雪を見ながら言った。「……正直、 今日あんまり、 いい日やなかったんです」一拍置いて、「でも、 お客さんが笑ってくれたんで」その声は、仕事の声じゃなかった。私は、何も言わずに笑った。それが、その人にできる全部だった。家に入る前に振り返ると、雪の中で小さな傷を増やしたタクシーがそれでも走り出していて、私もこの夜を忘れずに、でも一人で抱え込まずに眠れたらいいと思った。#短編小説#創作#近すぎる距離