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阿禮🧙🏾♂️✌🏾☮️🌳
検索すると
『心を悩まされることなく、心にゆとりがあり、何もかまえることがないこと。
「従容」はゆとりがあり、落ち着いている様子。
「無為」は行動しないこと。
ゆったりとして、何もかまえなくとも全てが自然に治まるという政治論をいう。』
斯う出たけど何故政治論に限定したのだらうか
前後も記すと
「尸居而龍見,淵默而靁聲,神動而天隨,從容無爲,而萬物炊纍焉」
読み方は
「シキョしてリュウケンし
ヱンモクしてライセイあり
かみうごきてテンしたがひ
ショウヨウムヰにしてバンブツスイルイせむとす」
解釈としては
しかばねのやうであったかと思ふと龍のやうな激しさ
淵のやうに默して居たかと思ふと雷のやうな響き
精神(神=精神)が動くと天が随ひ
ショウヨウムヰ(何事も受容れ何も(無駄なことは?)しない)であれば万物が炊累(アセンション)する
#荘子 #莊子 #在宥
chiffonꕤ︎︎·͜·
淡きこと水の如し
小人の交わりは
甘きこと醴の如し
志の高い者の交友は
水の様に淡白で飽きず長続きする
志の低い者の交友は
甘酒の様に飽きやすく長続きしない
#荘子
NEMO
#野口晴哉
#老子
#荘子
#禅語
中村天風を尊敬する人が居たッケ。
中村天風の言葉は顕在意識にひたすら繰り返してやっと判る言葉とワタシはそう解釈している。
対して老荘思想は逆説的な言葉で潜在意識に働き掛ける言葉と捉えている。
コレは良し悪しではなく相性の問題。
禅語等もそれを聴いて覚るのは潜在意識に働き掛けたから( ゚д゚)ハッ!とするのだ。
大道廃れて仁義あり
無用の用
NEMO
秋水篇
荘子が恵子と豪水を渡る飛び石の上で遊んだことがある。そのとき荘子は流れに浮かぶ魚を見て言った。
「はやがゆうゆうと泳ぎまわっているが、あれが魚の愉しみというものだよ」
するとすかさず恵子が言った。
「君は魚でもないのにどうして魚が愉しんでいるのがわかるのかね」
荘子は答えた。
「君は私ではないのだから、私が魚の愉しみを知ってるかどうかわかるはずはあるまい」
だが恵子も負けてない。
「なるほど私は君ではないのだから無論君の心はわからないよ。だが同様に君も魚ではないのだから君に魚の愉しみがわからないことも確実だよ」
すると荘子は答えた。
「では、初めから順を追ってみよう。最初に君が『君にどうして魚の愉しみがわかるのかね』といったのは、そのとき既に君は私の心を察して私の心が魚の愉しみを知っているかどうかを知っていて、私に問いかけてきたわけだ。とするならば魚でない私が魚の心を察したとしても不思議ではあるまい。私は豪水の上立ったままで、魚の心がわかったのだよ」
NEMO
#莊子
知北遊篇
知が北に向かい、玄水のほとりに遊び、隠ふんの丘に登ったとき、たまたま無為謂に出会った。そのとき知は無為謂にいった。
「私はあなたにお尋ねしたいことがある。なにを思い何を考えたらば、道を知ることができるであろうか。どのような境地に身をおき、どのようなことを行えば道に安ずることができるであろうか。何を従い何によれば、道を体得することが出来るだろうか」
知は同じ質問を三度繰り返したが、無為謂は答えなかった。いや、答えなかったのではない。答えるすべを知らなかったのである。
知は質問の答えが得られないままに、白水の南に帰り狐けつの山上に登って狂屈に面会した。そこで知は先程と同じことを狂屈に尋ねたてみた。すると狂屈は「うん、わしはそのことを知っている。話してやろう」といったが話をしようと思っている途中でその言いたいことを忘れてしまった。
知はまた質問の答えが得られなかったので、今度は帝宮に帰り、黄帝に面会して質問をした。すると、黃帝は答えた。
「何も思わず、何も考えることがなければ初めて道を知ることができよう。一定の境地に身を置かず、一定のことを行うことがなければ初めて道に安ずることができよう。特定のものに従うことなく、特定のことにかかりきることがなければ、初めて道を体得することができよう」
そこで知はもう一度黄帝に尋ねた。
「そうすると私とあなたは道を知りあの無為謂と狂屈とは道を知らないことになる。果たしてどちらが正しいのだろうか」
すると黄帝は答えた。
「あの何も言わなかった無為謂こそ、真に正しいのだ。言おうとして途中で言葉を忘れた狂屈はこれに近いといえよう。私とあなたはとは遂に道に近づくことが出来ないのだ。だから『本当に知っているものは言わないし、言うものは本当には知っていない。だから聖人は無言のままの教えを行う』という言葉もあるのだよ」
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