『紙片の部屋』Ⅰその部屋には、 いつも薄い光が射していた。 午後の終わりのような光であり、 夢の名残のようでもあった。 彼は、 その光の中で、 何かを見つめていた。 声を持たぬまなざしが、 沈黙のかたちをなぞるように、 そこに在りつづけていた。Ⅱ壁には、 古びた紙片がいくつも貼られていた。 それらは、 風化した記憶の皮膜のように見えた。 夜になると、 一枚ずつ剥がれ落ちて、 音もなく 床に降り積もっていった。 まるで、彼の時間が 静かに崩れてゆく音だった。Ⅲ「そんなものに、なぜ……」 誰かが、あるいは風が、そうつぶやいた。 けれど、彼は答えなかった。 ただ、 口元にひとつの歪みが浮かんだ。それは笑みではなく、 否定の届かぬ場所に漂う 嘲りの残響だった。Ⅳ彼は、 古びた紙片に囚われていた。 だが、 そこに温もりはなかった。 その執着は、 夜の底にかすかに浮かぶ漁火ではなく、 沈まぬための錨だった。Ⅴわたしは、 いつもあの部屋を 遠くから見ていた。 灯りが揺れるたび、 彼の輪郭が この世界から 少しずつ剥がれていくのを、 黙って見つめていた。 それが、 彼の選んだ 孤独だった。 わたしは、 ただそれを 見送るしかなかった。#自由詩 #自己同一性