…私は乗り越え乗り越え、自分の力に押されて押されて、未見の境界へと険難を侵して進む。そして如何なる生命の脅威にも怯えまいとする。その時、傷の痛みは或る甘さを味わせる。しかしこの自己緊張の極点には往々にして恐ろしい自己疑惑が私を待ち設けている。ついに私は疲れ果てる。私の力がもうこの上には私を動かし得ないと思われるような瞬間が来る。…私の唯一つの城郭なる私自身が見る見る廃墟の姿を現わすのを見なければならないのは、私の眼前を暗黒にする。…けれどもそれらの不安や失望が常に私を脅かすにもかかわらず、私には自身を措いてたよるべき何物もない。すべての矛盾と渾沌の中にあっては、私は私自身であろう。…私を実価以上に値ぶみすることをしまい。 私を実価以下に虐待することもしまい。…私の価値がいかに低いものであろうとも、私の正しい価値の中にあろうとするそのこと自身は何物かであらねばならぬ。もし、それが何物でもないにしても、その外に私の採るべき態度はないではないか。…一個の金剛石を持つものは、その宝石の正しい価値においてそれを持とうと願うのだろう。私の私自身は宝玉のように尊いものではないかもしれない。しかし、心持ちにおいては、宝玉を持つ人のそれと少しも変わるところがない。…私は私のもの。私のただ一つのもの。私は私自身を何物にも代え難く愛することから始めねばならない。 『惜しみなく愛は奪う』有島武郎#小説 #言葉 #有島武郎 #自分自身を愛する