「大切な人ほど疑ってしまう」その心のワナ、創世記3章が教えてくれること最近、ふと気づくことがあります。親しい人、特にお世話になっている人に対して、なぜかふとした瞬間に「もしかして……」と疑う気持ちが湧いたり、理由もなくイライラしたりすることはありませんか。僕自身もそんな経験があって、どうしてだろうと悩んだことがありました。そんな時、ふと『創世記』の、あの有名な場面が思い浮かんだんです。エデンの園で、何が起こったのか創世記3章1節から5節に、こういう出来事が描かれています。蛇が女(エバ)に近づき、神が「園のどの木からも取って食べてはならない」と言われたことについて問いかけます。ここで、僕がとても大切だと思うヘブライ語の単語があります。蛇がエバに言う言葉、「神はほんとうに、『園のすべての木の実を食べてはならない』と言われたのですか」という部分の「ほんとうに」という言葉。これはヘブライ語で 「アフ」(אַף)という言葉が使われているんです。この「アフ」には、「本当に?」「まさか?」という、根本を揺るがすような疑いや、ちょっとした嘲りや皮肉のニュアンスが含まれていると言われます。蛇は、神がエデンの園に人を置き、すべての木の実を食べることを許したという、大きな恵みと信頼の事実には一切触れません。代わりに、たった一つの禁止事項だけをクローズアップして、「ほんとうに? そんなこと言ったの?」と、神の言葉とそのお心への疑いの種を、そっと植え付けるんです。疑いは、恵みを忘れるところから始まる僕はここに、とてもはっきりした構造を見る気がします。蛇は、エバが毎日享受していた大きな恵み──安全な場所、豊かな食物、何より神との親しい交わり──については完全に無視します。そして、たった一つの制限だけを強調して、「この制限があるのは、あなたのためじゃないかもしれないよ」と囁く。これは、私たちの人間関係にも通じるところがあると思いませんか。親密な人、特に多くの恵み(世話や支え、愛)を与えてくれている人に対して、私たちは時に、その膨大な恵みを当たり前のように思い、感謝の記憶が薄らいでしまいます。その状態の心に、ほんの小さな「もしかして……」という疑い(「アフ」)が入り込むと、すべての関係がその疑いを通して歪んで見え始める。そして、その疑いが怒りや憎しみへと変容していくのではないでしょうか。エバはこの「アフ」の問いかけに乗ってしまい、神の言葉を少し自分流に言い換え(3章3節)、ついに禁断の実に手を伸ばしてしまいます。その根底には、自分を園に置き、すべてを与えてくださった神への信頼が、わずかな疑いによって覆い隠されてしまったことがあったように思えてなりません。僕自身への問いかけこの創世記3章の出来事を読み直すたびに、僕は自分に問いかけます。「今、自分が享受しているこの関係、この恵みを、きちんと心に留めているだろうか」「小さな『アフ』(疑い)に耳を傾ける前に、圧倒的な恵みの事実を思い出せているだろうか」と。疑いや怒りが湧いた時、それはむしろ、それだけ深い関係性の中で多くのものを与えられていたという「証」なのかもしれません。そして、その感情とどう向き合うかのカギは、エデンの園で起きたことを逆にたどること──まず、与えられてきた確かな恵みを、心を込めて思い出すことから始まるのだと、僕は学び始めています。モーセ五書を学ぶことは、こうした人間の心の根源的な動きを、深く、そして優しく照らし出してくれます。僕自身、毎日が新たな気づきの連続です。もしこのような、聖書の言葉に触れることを通した心の発見に興味を持たれた方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。僕の学びの旅路を、少しでも多くの方と共にできたら嬉しいです。#創世記の人間心理#モーセ五書マンガ#聖書から学ぶ関係性