「神は『私はある』と名乗った。奴隷の私たちに、今、ここにいてくれる神。」エジプトで、神は自分のことをどう伝えてほしかったのだろう。僕が『出エジプト記』を読んでいて、ずっと心に引っかかっていた箇所があります。モーセが燃える柴の中から声を聞く、あの有名な場面です。神はエジプトで苦しむイスラエルの民を救うために、モーセを遣わします。でもモーセは恐れ、戸惑います。「民が『あなたを遣わした神の名は何か』と問うなら、何と答えるべきでしょうか」(出エジプト記3:13)その問いに対する神の答えが、とても深いんです。神はモーセにこう言われました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)聖書のヘブライ語原文では、ここは "Ehyeh Asher Ehyeh"(エヘイェ・アシェル・エヘイェ) です。「エヘイェ」という言葉は、「存在する」「なる」「共にいる」といった意味を含む、「わたしはある」という動詞の一人称形なんです。僕は最初、ここで不思議に思いました。神の御名といえば、すぐに思いつくのは「ヤハウェ」です。実際、神は次の節(3:15)で「わたしは『ヤハウェ』という名で、先祖の神として知られてきた」とも言われています。それなのに、なぜエジプトの奴隷状態にある同胞に最初に伝える名として、「ヤハウェ」ではなく「わたしはある」を選ばれたのか。僕が考え、祈りながら感じたことはこうです。「ヤハウェ」という名は、確かに先祖との契約の神、歴史の中で働かれる神としての尊い名前です。でも、エジプトの煉瓦づくりの現場で、鞭に苦しみ、明日への希望を見失っていた人々にとって、「先祖の神」というだけでは、少し距離を感じてしまう部分があったのではないでしょうか。「遠い昔の、偉大な先祖の神様か…。今の私たちに、本当に関係があるのだろうか」と。神が「わたしはある」という名を告げられたのは、まさにこの「今」に飛び込んでくるためだった。僕はそう思います。「わたしは、今、ここにいる。」「わたしは、あなたがたの『今』の苦しみの中に、共にいる者だ。」「わたしは、あなたがたと共にあって、これからもあり続ける。」「エヘイェ」という言葉には、そのすべてのニュアンスが込められている気がします。それは、過去の伝承上の神ではなく、今、現実に彼らの叫びを聞き、共に歩もうとする「現在形の神」の宣言だった。奴隷状態にある者たちが一番必要としたのは、系図の中の神ではなく、煉瓦の泥の中に降りてきてくれる神の「臨在」だった。神はその必要を見抜かれ、ご自身を「関係の名前」「臨在の名前」で紹介された。それが「Ehyeh(わたしはある)」だったんじゃないかと、僕はこの箇所を描きながら感じました。私たちも、苦しみや行き詰まりの中にいるとき、神を「昔話の神」「他人の神」のように感じてしまうことがあります。でも、神ご自身が選ばれた最初のメッセージは、「わたしは、あなたの『今』にいる」ということ。この気づきは、僕自身の祈りや、漫画を描く姿勢にも、静かなけど確かな変化をもたらしてくれています。聖書の言葉は、本当に一言一言が深いですね。僕はまだまだ学びの途上です。これからも、モーセ五書の言葉と、一人の漫画家としてどう向き合えるかを、探求していきたいと思っています。この「神の名前」についても、漫画の中ではモーセの驚きや民の反応と共に、じっくり描いています。気になった方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。一緒に「今、ここにいてくれる神」との出会いを、探してみませんか。 #出エジプト記を漫画で #神の名前Ehyeh #聖書マンガで学ぶ