「神の名前を軽々しく唱えてはいけない」本当の理由〜十戒に隠された、神との「近すぎる距離」の危うさ最近、僕は申命記を読み直していて、ある一節で心が止まりました。申命記5章11節です。そこには、十戒の第三戒として、こんな言葉が記されています。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」この「みだりに唱えてはならない」という言葉。ずっと気になっていました。なぜ神は、ご自身の名前を唱えることを、これほどまでに禁じたのだろう、と。「名前」が持つ重み僕たちは普段、人の名前を気軽に呼びますよね。友達の名前、家族の名前。それ自体は、親しみの表現でもあります。でも、ここで言われている「主の名をみだりに唱える」という行為は、少し違うのです。ヘブライ語で「みだりに」と訳されている言葉は、「ラッシャー(לַשָּׁוְא)」。この言葉には、「虚しく」「無意味に」「軽んじて」という意味があります。つまり、神の名前を、軽々しく、空虚な言葉として、あるいはおまじないのように唱えるな、ということ。神の存在を、都合のいい呪文のように扱うな、という戒めなのです。名前は「人格」そのもの当時の考え方では、名前はその存在の本質を表すものでした。神の名前を知ることは、神ご自身を知ること。神の名前を唱えることは、神の存在そのものに触れる行為だったのです。だからこそ、その名前を「軽く」扱うことは、神との関係そのものを軽んじることになる。神を、自分の願いを叶えてくれる便利な存在として扱い、真の関係を築こうとしない態度が、ここでは禁じられているのだと、僕は感じました。「近づく」ことと「軽んじる」ことの間で僕はこの戒めを読むたびに、一つの問いが胸に浮かびます。神は確かに、私たちにご自身に近づくことを願っておられます。でも同時に、近づきすぎて、神を「当たり前」の存在にし、その尊厳を忘れることにも警鐘を鳴らしておられる。ちょうど、親しい友人を心から敬う気持ちを忘れないように、ということに似ているかもしれません。近しさが、無礼や軽視に変わってはいけない。神の名前を唱える時、僕たちはその名前の背後におられる、計り知れない尊い方に、本当に向き合っているだろうか。それとも、ただの習慣や、形式的な祈りの言葉として、空虚に繰り返しているだけだろうか。この戒めは、そんな僕自身の祈りの姿勢を、静かに、しかし厳しく問いかけているように思えてなりません。僕はまだ、モーセ五書の学びの途上です。一節一節が、予想以上の深さで心に響き、毎日が発見の連続です。もし、この「名前を唱える」ことの深みや、十戒に込められた神の思いにもっと触れてみたいと思われた方がいらっしゃれば、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。絵と共に読むモーセ五書は、きっと新しい気づきの扉を開いてくれるはずです。僕も、これからも学びを続けていきます。#モーセ五書マンガ#十戒#神の名前