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2回目のリピ散歩(甲州街道旅)も今回で最終回となります。新宿駅に近づけば近づくほど人通りは多くなるため、路上で全く映えないものを撮影するのは恥ずかしいですね(笑)
実は今回、家に帽子を忘れてきちゃったんです💦そのせいかもしれませんが、途中で目がチカチカして汗だくになり途中の松屋にフェードアウト(笑)昼食を食べていても冷たい汗が止まらず、食べ終わってるのに席を立たないことが申し訳なくて再びトイレにフェードアウト(笑)15分くらいこもって休んでました。松屋の皆さん申し訳ありません。皆さん、炎天下では日傘や帽子を忘れずに🧢✨☀️
⭐️青梅街道追分と追分の一里塚
街道に戻り西進すると新宿三丁目交差点が現れます。この交差点は直進すると青梅街道、左折すると甲州街道となっており、このように街道と街道が交わる・分かれる交差点を【追分】と言います。全国的に追分という地名は多くあるので、皆さんの近所に追分という地名を見かけた際には、ここには明治時代以前から街道と街道とが交わっていたんだなぁと妄想してみて下さい(笑)
また、この辺りに日本橋から数えて2番目の『追分の一里塚』があったとされていますが遺構や説明板は残されていません。日本橋から2里歩いたので8km ほど進んだことになりますね。ちなみに甲州街道の一里塚は52、53ヶ所あったとされています。先は長い・・🥺
⭐️その後の甲州街道
左折した甲州街道は次の新宿四丁目交差点を右折して西進、新宿駅南口で今回の旅のフィニッシュとなります✨
寄り道が多く、2回の街道旅で8km ちょいしか進んでいません(笑)次回は8km くらい歩いて環八まで行きたいな〜なんて思ってます。さて、次はいつ東京へ来れるやら🤭
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #青梅街道追分 #新宿駅







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次数がギリなので余談は無しよー
⭐️鎌倉街道中道
四谷四丁目交差点から500m 進むと新宿一丁目西交差点が現れます。
交差点の南北に通る街道は【鎌倉街道】と呼ばれ鎌倉時代初期に整備された街道です。鎌倉街道は大きく【上道・中道・下道】とに分かれ、この街道は【中道】にあたります。明治初期まで現存した五街道などとは違い、長い年月の間に消滅してしまった鎌倉街道も多いようですが、こうして都内でも所々残っているのは嬉しいですね。各地の御家人たちが『いざ!鎌倉』と鎌倉に向かう姿が目に浮かびます。
ちなみに中道の主要ルートですが、鎌倉→大船→東戸塚→中山→溝の口→二子玉川→自由ヶ丘→代官山→表参道→東池袋→板橋→王子→赤羽→川口などを経由します(二子玉川→世田谷→中野→板橋ルートもあり)皆さんが住む場所の近くも通っているかもしれませんね😊
⭐️太宗寺
新宿一丁目西交差点から50m 先を右折し、奥に見える太宗寺へ立ち寄ります。太宗寺には以下①〜③のような歴史的造形物が残されています。
①江戸六地蔵【銅造地蔵菩薩坐像】
江戸六地蔵とは、1706年に深川の『地蔵坊正元』という人物が江戸市中から広く寄進者を集め、京都の六地蔵に習い造立しました。寄進者の合計は72000人にものぼったそうです。
6体のうち5体が現存し、他に東海道の品川寺、奥州街道(日光街道)の東禅寺、中山道の真性寺、水戸街道の霊巌寺に・・それぞれ江戸を護るように鎮座してます(千葉街道の永代寺には現存せず)尚、この坐像は1712年の建立で六地蔵の中では3番目に古いものだそうです。
②閻魔堂
堂内には【閻魔大王像(1814年建立)】と【奪衣婆像(1870年建立)】が祀られています。閻魔大王造は都内最大の大きさだそうで迫力がありました。
③切支丹(キリシタン)灯籠
笠、火袋は復元されたものですが、それ以外のものは江戸時代中期の出土だそうです。江戸時代においてキリスト教信者は酷い仕打ちを受けたことから信者たちは様々な代用物を造り崇拝していたとされています。この灯籠は茶人『古田織部』が好んだ型だそうで織部型とも言われている珍しい灯籠です。
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #鎌倉街道 #太宗寺










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何か最近お疲れ気味💦
夏バテかなぁ?
⭐️四谷大木戸跡(新宿区内藤町87)
国道に戻り400m 進むと四谷四丁目交差点が現れます。また、交差点北東側の植込み内には【四谷大木戸跡碑】があります(交差点を渡って甲州街道を進んだ左手にも四谷大木戸門跡碑がありますが、正式な位置はこちらだそうです。木戸は門の役割を果たしました)
江戸時代、大木戸の西側には甲州街道最初の宿場町である【内藤新宿】がありました。元々、江戸初期における最初の宿場町は次の【高井戸宿】でしたが、日本橋〜高井戸宿間が4里(約16km )と長かったため、この地にあった信濃高遠藩・内藤家の中屋敷の一部や旗本の屋敷などを幕府に返上させて用地を確保し、新しい宿場町が生まれました(1699年)内藤家の名前を取り【内藤新宿】と名付けられたそうです。
内藤新宿は江戸四宿(千住宿・板橋宿・品川宿・内藤新宿)の一つとして大いに繁栄しましたが、20年後の1718年に幕府から突然〝宿場廃止令〟が出されます。『江戸から10里以内の宿場では旅籠一軒につき飯盛女(男性宿泊者の給仕や夜の共をする女性)は2人まで』の法を破ったからだとされています。当時、徳川吉宗の『享保の改革』が行われていたことも影響したようで、現代で言うところの風営法に引っかかったようです(笑)
その後、宿場内の改革や老中『田沼意次』の規制緩和政策もあり、約50年後の1772年に宿場を再開することができました。このように内藤新宿は江戸時代を通して運営された宿場ではなく、更に途中の大火災などの影響にもより、本陣や脇本陣・旅籠等の数は時代によってまちまちです。
1843年統計(内藤新宿)
本陣 1
脇本陣 0
旅籠 24軒
人口 2377人
余談ですが、この交差点も『君の名は』に描かれており、聖地巡礼の地として知られています。
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #東京 #内藤新宿





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前回の③より前々回の②のほうが〝いいね〟が多い・・皆さん『君の名は』より『服部半蔵』のほうが好きなのか?笑
さて、今回は『四谷と言えば?』です。
⭐️田宮稲荷神社と陽運寺
再び国道へ戻り西進します。四谷三丁目交差点を左折し四谷警察署の東南東に位置する田宮稲荷神社へ立ち寄りました。
田宮稲荷神社は別名『於岩稲荷神社』と呼ばれていますが、これは『東海道四谷怪談』でお馴染み〝お岩さん〟に関連する神社だからです。ちなみに四谷怪談は江戸中期の歌舞伎狂言作者『鶴谷南北』の創作です。実際のお岩さんは田宮家の娘として生まれ、その養子である伊右衛門とともに田宮家の家勢を再興した立派な女性だったそうで、いったいどういった経緯で幽霊のモデルになってしまったんでしょうね💦彼女が信仰したこの稲荷神社は家内安全・商売繁盛・芸道上達などの御利益があるそうです。
また、神社の反対には陽運寺があります。こちらもお岩さんを祀る寺院で境内には『お岩さま縁の井戸』などがあります。田宮稲荷神社とあわせて訪れると良いかと思います。
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #東京 #田宮稲荷神社





リピート💫
大阪桐蔭、春夏連覇はなりませんでしたね。勝った下関国際はもちろん、ベスト4の中に東北勢が2校残ったのも凄いですね。真紅の大優勝旗が初めて東北にもたらされるか注目ですね⚾️
⭐️須賀神社
国道へ戻って西へ進み四谷二丁目交差点を左折、南進すると東福院坂、さらに須賀神社へ登る朱色の階段が現れます。
実はこの階段、新海誠監督『君の名は』のラストシーンに登場した階段です。『君の名は』では新宿や四谷周辺の景色が数多く描かれており、特にラストシーンに登場する須賀神社の階段は聖地巡礼のスポットとして有名な階段です。頂上まで登って後ろを振り返ると映画さながらの景色が広がり〝瀧くんや三葉ちゃん〟の気分が味わえます笑
この日も外国人ヲタの方も含め3〜4組の方たちが写真を撮っていました🌈
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #君の名は #聖地巡礼






前前前世

リピート💫
夏の甲子園もいよいよ佳境に入ってきました。皆さんの地元の高校は勝ち進んでますか?リピの地元は残念ながら敗退してしまいました。敗退と言えば、甲子園の砂って今年は持ち帰ることができないみたいですね。後ほど郵送で送られてくるそうですが、自分たちがプレイした試合のものを自分たちの手で集めたいですよね。まぁコロナ対策なんでしょうが、ちょっとやり過ぎかと思うのはリピだけでしょうか?
いずれにせよ、これからも素晴らしい試合を期待しています。ガルバレ!高校球児たち⚾️
⭐️四谷見附跡
麹町四丁目交差点まで戻り改めて国道を西進します。少し歩くと四谷駅前交差点と四谷駅が現れます。往時この辺りには江戸城外堀りと四谷見附(番兵や監視人が駐屯し人や物資の往来を監視していた施設)がありました。見附付近はコの字を描くような枡形をしており、右折→左折→左折→右折をして再び国道へ戻るルートを取ります。
尚、四谷駅の建物裏には見附門の土台が、道を挟んだ駅北側には1636年に構築された石垣が残されています。
※尚、四谷見附交差点から南へ進むと迎賓館があります。今回は時間の都合上、門の外から少しだけチラ見してきましたので載せておきます。
⭐️服部半蔵の墓
四谷見附交差点から300m ほど西進し左折、更に200m ほど南進して西念寺へ立ち寄ります。
西念寺本堂右側には二代目『服部半蔵』の墓があります。服部半蔵の名は世襲制であり、徳川家康に仕えていたいたこの人物こそが『半蔵門』の由来となった服部半蔵です。服部半蔵と聞くと忍者のイメージが強いですが、実際の忍者として暗躍していたのは初代服部半蔵だけであり、二代目からは徳川家の武将として活躍したそうです。
尚、西念寺には徳川家康の長男である松平信康の供養塔・家康から拝領した槍なども伝わる徳川家に所縁のある寺院のため、門には三つ葉葵の家紋が掲げられています。
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #四谷見附 #服部半蔵










リピート💫
さて!お盆期間中に東京へ訪れたリピ。当初の目的であるグラ友さんとのオフ会の前に肩慣らしならぬ脚慣らしへ出発〜🚶♂️💨
そんなわけで今回のリピ散歩は前回の終了地点である麹町四丁目交差点からのスタートです。
⭐️麹町
東京都府中市に武蔵国の国府が置かれていた時代、この辺りにには国府方(こふかた)氏が居を構えていました。国府方氏が通った道筋は国府路(こふぢ)と呼ばれ、地名の由来とされています。尚、江戸時代に入ると甲州街道沿いに麹を売る店が増えたことから麹の字が当てられ『麹町』と名付けられたそうです。
⭐️紀尾井町
甲州街道は国道を西進しますが、今回も少し寄り道をしながら進みたいと思います。麹町四丁目交差点から南へ100m ほど進むと『紀尾井町交差点』があり、ここを右折して清水坂を下りホテルニューオータニ方面へ向かいます。尚〝紀尾井〟とは、この地に徳川御三家である紀伊藩の上屋敷、同じく御三家の尾張藩の中屋敷、そして重臣である井伊藩の中屋敷があったことからその頭文字を取り名付けられたそうです。ちなみに紀尾井町交差点を左折すると『東京FM通り』という現代風の名前が付けられています(笑)
⭐️ 大久保利通終焉の地
〝文春砲〟でお馴染みの文藝春秋(笑)を横目に見ながら清水坂を300m ほど下って左折、更に200m ほど進むと右手にホテルニューオータニ、左手に参議院清水谷議員宿舎が現れます。
明治11年(1878年)5月14日、ちょうどこの辺りで『紀尾井坂の変』が起こったとされています。紀尾井坂の変とは維新三傑である『大久保利通』の暗殺事件です。犯人は石川県の『島田一郎』を中心とした士族6名。彼らは西郷隆盛の征韓論に賛同していたとされ、神風連の乱→秋月の乱→萩の乱→西南戦争など、不平士族たちが明治政府の方針に反対して各地で決起する中、島田たちは地元金沢で決起の計画をするも失敗。その後〝政府高官の暗殺〟に方針を転換をしたそうです。前年に死去している維新三傑の木戸孝允、西郷隆盛に続いての大久保利通の暗殺で、明治は新たな時代へと突入していくことになります。尚、清水谷公園内には『大久保公哀悼碑』が祀られているので、興味を持たれた方は合わせて見学するのも良いかと思います。
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #紀尾井町 #東京










リピート💫
桜田門を後にし内掘通りを半蔵門方向へ向かって進んで行きます。
⭐️井伊家上屋敷跡・日本水準原点⭐️
国会前交差点を渡り『国会前庭』と呼ばれる公園へ立ち寄りました。江戸時代、ここには井伊家の上屋敷があり、少し高台に位置するため公園から桜田門がよく見えます。時の大老『井伊直弼』は桜田門までの僅か300m ほどの間に刺客に襲われたということになりますね。
また、園内には『日本水準原点』があります。日本水準原点とは、国の標高の基準を設定するため明治24年(1891年)に東京湾の平均海水面から24.5m の位置に設置された施設です。しかし、関東大震災の影響により58.6cm 沈み、更に東日本大地震の影響により2.4cm 沈んだそうす。このため、現在の国の基準値は24.39m ということになりますね。地震のエネルギーって凄いなと思いました。
⭐️隼町の一里塚⭐️
街道に戻って三宅坂を上ります。三宅坂は坂の途中に『三宅備前守(対馬守)』の藩邸があったことからこう呼ばれています。また、坂の途中には国立劇場がありますが、この辺りが日本橋から一里(約4km)進んだ場所であったとから『一里塚』が造られました。一里塚とは全国の街道に造られた〝盛土に榎等の樹木を植えたもの〟で、旅人の里程(距離)の目安となりました。三宅坂に造られた一里塚は『隼町の一里塚』と呼ばれていましたが、藩邸の前で邪魔だったのか?江戸中期には壊されていたそうです。一里塚は全国各地に塚や碑が残されているので、近くにお住まいの方は地元の一里塚を調べてみるのも良いかもしれません。
⭐️半蔵門⭐️
坂を上り半蔵門交差点を左折します。半蔵門は『服部半蔵』でお馴染み『服部正成・正就』親子がこの門を警備を行ったため名付けられたとされています(諸説あり)。半蔵門は江戸城の搦手門の役割りを果たし、有事の際には半蔵門から脱出し幕府天領である甲府へ向かうよう整備されていたそうです。
⭐️その後⭐️
甲州街道を西進し、麹町四丁目交差点で今回の街道旅はフィニッシュです。14回という長丁場となった甲州街道旅、ご声調ありがとうございました😊また機会がありましたら上げていきますのでよろしくお願いします🍀
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #日本水準原点 #半蔵門










リピート💫
リピ散歩も今日を含め残り2回かなぁ?最近、文字を打ち過ぎて腱鞘炎ぎみのリピです笑
⭐️上杉家藩邸跡⭐️
祝田橋交差点で日比谷公園を出て更に国道を進むと桜田門交差点の手前に『上杉家江戸藩邸跡碑』があります。関ヶ原の合戦前までは会津藩と米沢藩合わせて120万石を領する大大名だった上杉家は敗戦後に米沢藩30万石に減封され、更に15万石まで石高が下がったとされています(古地図では18万石)
尚、南側に見えるレンガ造りの建物は『法務省旧本館』だそうです。明治政府による『官庁集中計画』の一貫として明治28年(1895年)に建てられました。計画内で建てられた建物のうち現存する唯一のものだそうです。空襲により被害を受けましたが、平成7年(1995年)に復元され国の重要文化財に指定されています。
⭐️桜田門⭐️
国道を渡り桜田門を見学します。桜田門は、門そのものより『桜田門外の変』のほうが有名ですね。桜田門外の変は1860年に起こった井伊直弼の暗殺事件です。日本史の教科書に載るほど有名な事件のため説明は省きますね。
実はこの桜田門、桜田門外の変以外にもう一つ重大な事件が起こっています。昭和7年(1932年)に朝鮮独立を訴える李奉昌が昭和天皇一行を襲撃した事件で『桜田門事件』と呼ばれています。幸い李の投げた手榴弾は天皇の馬車ではない方向へ飛び、近衛兵一名が軽傷を負っただけでしたが、万が一のことがあれば桜田門外の変以上の衝撃的な事件だったと思います。
このように江戸時代から重要な場所だったからか?門の正面には警視庁がドンと構えています。警視庁の隠語が桜田門だということは以前から知っていましたが、こうして桜田門から警視庁を見るとその意味が分かりますね。
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #上杉家藩邸跡 #桜田門










リピート💫
こうして街道旅の投稿を続けていると、『リピは日本史か何かの先生なんですか?』と聞かれることがあります。リピは全くのパンピーです。ただの歴ヲタです笑
⭐️日比谷見附跡⭐️
馬場先門交差点へ戻り日比谷濠を南進すると日比谷公園が見えてきます。
公園に入ると直ぐ左手に『日比谷見附』の石垣が現れます。見附とは番兵や監視人が駐屯する施設で、人の往来や物資の輸送の監視を行っていました。江戸城には36ヶ所の門や見附があり、都内には現在でも赤坂見附や四谷見附などの地名が残されています。
⭐️伊達政宗終焉の地⭐️
日比谷見附の直ぐ先、右手には伊達政宗終焉の地と書かれた説明板が掲げられています。
江戸時代初期、日比谷には仙台藩の上屋敷がありました。1635年、徳川家光による『参勤交代』令が発せられた際、異を唱える他の大名達を制していち早くこれに従った政宗でありましたが、くしくも翌年(1636年)の参勤交代途中に病状が急変し、江戸に到着して1ヶ月後にこの上屋敷で逝去されています。以下、政宗辞世の句です。
『曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く』
余談ですが、伊達氏は現在の当主から先祖を遡ることができます。途中の養子縁組もなく脈脈と続く系図は大変珍しく、伊達氏以前の『中村氏』、それ以前の『藤原氏』、最後には〝乙巳の変(大化の改新)〟で活躍した『藤原(中臣)鎌足』にまで辿り着くことができます。ちなみにサンドウィッチマンの『伊達みきお』さんは政宗の直系ではなく、政宗の先祖から分かれた分家になります。ただ、途中に2回ほど養子縁組が行われており、政宗と同じ血が流れているかは詳しく調べてみないと分かりません。
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #日比谷公園 #東京




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