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リピ散歩👟 甲州街道編【2日目⑦】

2回目のリピ散歩(甲州街道旅)も今回で最終回となります。新宿駅に近づけば近づくほど人通りは多くなるため、路上で全く映えないものを撮影するのは恥ずかしいですね(笑)
実は今回、家に帽子を忘れてきちゃったんです💦そのせいかもしれませんが、途中で目がチカチカして汗だくになり途中の松屋にフェードアウト(笑)昼食を食べていても冷たい汗が止まらず、食べ終わってるのに席を立たないことが申し訳なくて再びトイレにフェードアウト(笑)15分くらいこもって休んでました。松屋の皆さん申し訳ありません。皆さん、炎天下では日傘や帽子を忘れずに🧢✨☀️

⭐️青梅街道追分と追分の一里塚

街道に戻り西進すると新宿三丁目交差点が現れます。この交差点は直進すると青梅街道、左折すると甲州街道となっており、このように街道と街道が交わる・分かれる交差点を【追分】と言います。全国的に追分という地名は多くあるので、皆さんの近所に追分という地名を見かけた際には、ここには明治時代以前から街道と街道とが交わっていたんだなぁと妄想してみて下さい(笑)
また、この辺りに日本橋から数えて2番目の『追分の一里塚』があったとされていますが遺構や説明板は残されていません。日本橋から2里歩いたので8km ほど進んだことになりますね。ちなみに甲州街道の一里塚は52、53ヶ所あったとされています。先は長い・・🥺

⭐️その後の甲州街道

左折した甲州街道は次の新宿四丁目交差点を右折して西進、新宿駅南口で今回の旅のフィニッシュとなります✨
寄り道が多く、2回の街道旅で8km ちょいしか進んでいません(笑)次回は8km くらい歩いて環八まで行きたいな〜なんて思ってます。さて、次はいつ東京へ来れるやら🤭

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #青梅街道追分 #新宿駅
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リピ散歩👟 甲州街道編【2日目⑥】

次数がギリなので余談は無しよー

⭐️鎌倉街道中道

四谷四丁目交差点から500m 進むと新宿一丁目西交差点が現れます。
交差点の南北に通る街道は【鎌倉街道】と呼ばれ鎌倉時代初期に整備された街道です。鎌倉街道は大きく【上道・中道・下道】とに分かれ、この街道は【中道】にあたります。明治初期まで現存した五街道などとは違い、長い年月の間に消滅してしまった鎌倉街道も多いようですが、こうして都内でも所々残っているのは嬉しいですね。各地の御家人たちが『いざ!鎌倉』と鎌倉に向かう姿が目に浮かびます。
ちなみに中道の主要ルートですが、鎌倉→大船→東戸塚→中山→溝の口→二子玉川→自由ヶ丘→代官山→表参道→東池袋→板橋→王子→赤羽→川口などを経由します(二子玉川→世田谷→中野→板橋ルートもあり)皆さんが住む場所の近くも通っているかもしれませんね😊

⭐️太宗寺

新宿一丁目西交差点から50m 先を右折し、奥に見える太宗寺へ立ち寄ります。太宗寺には以下①〜③のような歴史的造形物が残されています。

①江戸六地蔵【銅造地蔵菩薩坐像】
江戸六地蔵とは、1706年に深川の『地蔵坊正元』という人物が江戸市中から広く寄進者を集め、京都の六地蔵に習い造立しました。寄進者の合計は72000人にものぼったそうです。
6体のうち5体が現存し、他に東海道の品川寺、奥州街道(日光街道)の東禅寺、中山道の真性寺、水戸街道の霊巌寺に・・それぞれ江戸を護るように鎮座してます(千葉街道の永代寺には現存せず)尚、この坐像は1712年の建立で六地蔵の中では3番目に古いものだそうです。

②閻魔堂
堂内には【閻魔大王像(1814年建立)】と【奪衣婆像(1870年建立)】が祀られています。閻魔大王造は都内最大の大きさだそうで迫力がありました。

③切支丹(キリシタン)灯籠
笠、火袋は復元されたものですが、それ以外のものは江戸時代中期の出土だそうです。江戸時代においてキリスト教信者は酷い仕打ちを受けたことから信者たちは様々な代用物を造り崇拝していたとされています。この灯籠は茶人『古田織部』が好んだ型だそうで織部型とも言われている珍しい灯籠です。

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #鎌倉街道 #太宗寺
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リピ散歩👟 甲州街道編【2日目⑤】

何か最近お疲れ気味💦
夏バテかなぁ?

⭐️四谷大木戸跡(新宿区内藤町87)

国道に戻り400m 進むと四谷四丁目交差点が現れます。また、交差点北東側の植込み内には【四谷大木戸跡碑】があります(交差点を渡って甲州街道を進んだ左手にも四谷大木戸門跡碑がありますが、正式な位置はこちらだそうです。木戸は門の役割を果たしました)

江戸時代、大木戸の西側には甲州街道最初の宿場町である【内藤新宿】がありました。元々、江戸初期における最初の宿場町は次の【高井戸宿】でしたが、日本橋〜高井戸宿間が4里(約16km )と長かったため、この地にあった信濃高遠藩・内藤家の中屋敷の一部や旗本の屋敷などを幕府に返上させて用地を確保し、新しい宿場町が生まれました(1699年)内藤家の名前を取り【内藤新宿】と名付けられたそうです。
内藤新宿は江戸四宿(千住宿・板橋宿・品川宿・内藤新宿)の一つとして大いに繁栄しましたが、20年後の1718年に幕府から突然〝宿場廃止令〟が出されます。『江戸から10里以内の宿場では旅籠一軒につき飯盛女(男性宿泊者の給仕や夜の共をする女性)は2人まで』の法を破ったからだとされています。当時、徳川吉宗の『享保の改革』が行われていたことも影響したようで、現代で言うところの風営法に引っかかったようです(笑)
その後、宿場内の改革や老中『田沼意次』の規制緩和政策もあり、約50年後の1772年に宿場を再開することができました。このように内藤新宿は江戸時代を通して運営された宿場ではなく、更に途中の大火災などの影響にもより、本陣や脇本陣・旅籠等の数は時代によってまちまちです。

1843年統計(内藤新宿)
本陣  1
脇本陣 0
旅籠  24軒
人口  2377人

余談ですが、この交差点も『君の名は』に描かれており、聖地巡礼の地として知られています。

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #東京 #内藤新宿
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リピ散歩👟 甲州街道編【2日目④】

前回の③より前々回の②のほうが〝いいね〟が多い・・皆さん『君の名は』より『服部半蔵』のほうが好きなのか?笑
さて、今回は『四谷と言えば?』です。

⭐️田宮稲荷神社と陽運寺

再び国道へ戻り西進します。四谷三丁目交差点を左折し四谷警察署の東南東に位置する田宮稲荷神社へ立ち寄りました。
田宮稲荷神社は別名『於岩稲荷神社』と呼ばれていますが、これは『東海道四谷怪談』でお馴染み〝お岩さん〟に関連する神社だからです。ちなみに四谷怪談は江戸中期の歌舞伎狂言作者『鶴谷南北』の創作です。実際のお岩さんは田宮家の娘として生まれ、その養子である伊右衛門とともに田宮家の家勢を再興した立派な女性だったそうで、いったいどういった経緯で幽霊のモデルになってしまったんでしょうね💦彼女が信仰したこの稲荷神社は家内安全・商売繁盛・芸道上達などの御利益があるそうです。
また、神社の反対には陽運寺があります。こちらもお岩さんを祀る寺院で境内には『お岩さま縁の井戸』などがあります。田宮稲荷神社とあわせて訪れると良いかと思います。

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #東京 #田宮稲荷神社
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リピ散歩👟 甲州街道編【2日目③】

大阪桐蔭、春夏連覇はなりませんでしたね。勝った下関国際はもちろん、ベスト4の中に東北勢が2校残ったのも凄いですね。真紅の大優勝旗が初めて東北にもたらされるか注目ですね⚾️

⭐️須賀神社

国道へ戻って西へ進み四谷二丁目交差点を左折、南進すると東福院坂、さらに須賀神社へ登る朱色の階段が現れます。
実はこの階段、新海誠監督『君の名は』のラストシーンに登場した階段です。『君の名は』では新宿や四谷周辺の景色が数多く描かれており、特にラストシーンに登場する須賀神社の階段は聖地巡礼のスポットとして有名な階段です。頂上まで登って後ろを振り返ると映画さながらの景色が広がり〝瀧くんや三葉ちゃん〟の気分が味わえます笑
この日も外国人ヲタの方も含め3〜4組の方たちが写真を撮っていました🌈

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #君の名は #聖地巡礼
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前前前世

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リピ散歩👟 甲州街道編【2日目②】

夏の甲子園もいよいよ佳境に入ってきました。皆さんの地元の高校は勝ち進んでますか?リピの地元は残念ながら敗退してしまいました。敗退と言えば、甲子園の砂って今年は持ち帰ることができないみたいですね。後ほど郵送で送られてくるそうですが、自分たちがプレイした試合のものを自分たちの手で集めたいですよね。まぁコロナ対策なんでしょうが、ちょっとやり過ぎかと思うのはリピだけでしょうか?
いずれにせよ、これからも素晴らしい試合を期待しています。ガルバレ!高校球児たち⚾️

⭐️四谷見附跡

麹町四丁目交差点まで戻り改めて国道を西進します。少し歩くと四谷駅前交差点と四谷駅が現れます。往時この辺りには江戸城外堀りと四谷見附(番兵や監視人が駐屯し人や物資の往来を監視していた施設)がありました。見附付近はコの字を描くような枡形をしており、右折→左折→左折→右折をして再び国道へ戻るルートを取ります。
尚、四谷駅の建物裏には見附門の土台が、道を挟んだ駅北側には1636年に構築された石垣が残されています。

※尚、四谷見附交差点から南へ進むと迎賓館があります。今回は時間の都合上、門の外から少しだけチラ見してきましたので載せておきます。

⭐️服部半蔵の墓

四谷見附交差点から300m ほど西進し左折、更に200m ほど南進して西念寺へ立ち寄ります。
西念寺本堂右側には二代目『服部半蔵』の墓があります。服部半蔵の名は世襲制であり、徳川家康に仕えていたいたこの人物こそが『半蔵門』の由来となった服部半蔵です。服部半蔵と聞くと忍者のイメージが強いですが、実際の忍者として暗躍していたのは初代服部半蔵だけであり、二代目からは徳川家の武将として活躍したそうです。
尚、西念寺には徳川家康の長男である松平信康の供養塔・家康から拝領した槍なども伝わる徳川家に所縁のある寺院のため、門には三つ葉葵の家紋が掲げられています。

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #四谷見附 #服部半蔵
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リピ散歩👟 甲州街道編【2日目①】

さて!お盆期間中に東京へ訪れたリピ。当初の目的であるグラ友さんとのオフ会の前に肩慣らしならぬ脚慣らしへ出発〜🚶‍♂️💨
そんなわけで今回のリピ散歩は前回の終了地点である麹町四丁目交差点からのスタートです。

⭐️麹町

東京都府中市に武蔵国の国府が置かれていた時代、この辺りにには国府方(こふかた)氏が居を構えていました。国府方氏が通った道筋は国府路(こふぢ)と呼ばれ、地名の由来とされています。尚、江戸時代に入ると甲州街道沿いに麹を売る店が増えたことから麹の字が当てられ『麹町』と名付けられたそうです。

⭐️紀尾井町

甲州街道は国道を西進しますが、今回も少し寄り道をしながら進みたいと思います。麹町四丁目交差点から南へ100m ほど進むと『紀尾井町交差点』があり、ここを右折して清水坂を下りホテルニューオータニ方面へ向かいます。尚〝紀尾井〟とは、この地に徳川御三家である紀伊藩の上屋敷、同じく御三家の尾張藩の中屋敷、そして重臣である井伊藩の中屋敷があったことからその頭文字を取り名付けられたそうです。ちなみに紀尾井町交差点を左折すると『東京FM通り』という現代風の名前が付けられています(笑)

⭐️ 大久保利通終焉の地

〝文春砲〟でお馴染みの文藝春秋(笑)を横目に見ながら清水坂を300m ほど下って左折、更に200m ほど進むと右手にホテルニューオータニ、左手に参議院清水谷議員宿舎が現れます。
明治11年(1878年)5月14日、ちょうどこの辺りで『紀尾井坂の変』が起こったとされています。紀尾井坂の変とは維新三傑である『大久保利通』の暗殺事件です。犯人は石川県の『島田一郎』を中心とした士族6名。彼らは西郷隆盛の征韓論に賛同していたとされ、神風連の乱→秋月の乱→萩の乱→西南戦争など、不平士族たちが明治政府の方針に反対して各地で決起する中、島田たちは地元金沢で決起の計画をするも失敗。その後〝政府高官の暗殺〟に方針を転換をしたそうです。前年に死去している維新三傑の木戸孝允、西郷隆盛に続いての大久保利通の暗殺で、明治は新たな時代へと突入していくことになります。尚、清水谷公園内には『大久保公哀悼碑』が祀られているので、興味を持たれた方は合わせて見学するのも良いかと思います。

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #紀尾井町 #東京
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リピ散歩👟 甲州街道編⑭(最終回)

桜田門を後にし内掘通りを半蔵門方向へ向かって進んで行きます。

⭐️井伊家上屋敷跡・日本水準原点⭐️

国会前交差点を渡り『国会前庭』と呼ばれる公園へ立ち寄りました。江戸時代、ここには井伊家の上屋敷があり、少し高台に位置するため公園から桜田門がよく見えます。時の大老『井伊直弼』は桜田門までの僅か300m ほどの間に刺客に襲われたということになりますね。
また、園内には『日本水準原点』があります。日本水準原点とは、国の標高の基準を設定するため明治24年(1891年)に東京湾の平均海水面から24.5m の位置に設置された施設です。しかし、関東大震災の影響により58.6cm 沈み、更に東日本大地震の影響により2.4cm 沈んだそうす。このため、現在の国の基準値は24.39m ということになりますね。地震のエネルギーって凄いなと思いました。

⭐️隼町の一里塚⭐️

街道に戻って三宅坂を上ります。三宅坂は坂の途中に『三宅備前守(対馬守)』の藩邸があったことからこう呼ばれています。また、坂の途中には国立劇場がありますが、この辺りが日本橋から一里(約4km)進んだ場所であったとから『一里塚』が造られました。一里塚とは全国の街道に造られた〝盛土に榎等の樹木を植えたもの〟で、旅人の里程(距離)の目安となりました。三宅坂に造られた一里塚は『隼町の一里塚』と呼ばれていましたが、藩邸の前で邪魔だったのか?江戸中期には壊されていたそうです。一里塚は全国各地に塚や碑が残されているので、近くにお住まいの方は地元の一里塚を調べてみるのも良いかもしれません。

⭐️半蔵門⭐️

坂を上り半蔵門交差点を左折します。半蔵門は『服部半蔵』でお馴染み『服部正成・正就』親子がこの門を警備を行ったため名付けられたとされています(諸説あり)。半蔵門は江戸城の搦手門の役割りを果たし、有事の際には半蔵門から脱出し幕府天領である甲府へ向かうよう整備されていたそうです。

⭐️その後⭐️

甲州街道を西進し、麹町四丁目交差点で今回の街道旅はフィニッシュです。14回という長丁場となった甲州街道旅、ご声調ありがとうございました😊また機会がありましたら上げていきますのでよろしくお願いします🍀

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #日本水準原点 #半蔵門
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リピ散歩👟 甲州街道編⑬

リピ散歩も今日を含め残り2回かなぁ?最近、文字を打ち過ぎて腱鞘炎ぎみのリピです笑

⭐️上杉家藩邸跡⭐️

祝田橋交差点で日比谷公園を出て更に国道を進むと桜田門交差点の手前に『上杉家江戸藩邸跡碑』があります。関ヶ原の合戦前までは会津藩と米沢藩合わせて120万石を領する大大名だった上杉家は敗戦後に米沢藩30万石に減封され、更に15万石まで石高が下がったとされています(古地図では18万石)
尚、南側に見えるレンガ造りの建物は『法務省旧本館』だそうです。明治政府による『官庁集中計画』の一貫として明治28年(1895年)に建てられました。計画内で建てられた建物のうち現存する唯一のものだそうです。空襲により被害を受けましたが、平成7年(1995年)に復元され国の重要文化財に指定されています。

⭐️桜田門⭐️

国道を渡り桜田門を見学します。桜田門は、門そのものより『桜田門外の変』のほうが有名ですね。桜田門外の変は1860年に起こった井伊直弼の暗殺事件です。日本史の教科書に載るほど有名な事件のため説明は省きますね。
実はこの桜田門、桜田門外の変以外にもう一つ重大な事件が起こっています。昭和7年(1932年)に朝鮮独立を訴える李奉昌が昭和天皇一行を襲撃した事件で『桜田門事件』と呼ばれています。幸い李の投げた手榴弾は天皇の馬車ではない方向へ飛び、近衛兵一名が軽傷を負っただけでしたが、万が一のことがあれば桜田門外の変以上の衝撃的な事件だったと思います。
このように江戸時代から重要な場所だったからか?門の正面には警視庁がドンと構えています。警視庁の隠語が桜田門だということは以前から知っていましたが、こうして桜田門から警視庁を見るとその意味が分かりますね。

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #上杉家藩邸跡 #桜田門

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リピ散歩👟 甲州街道編⑫

こうして街道旅の投稿を続けていると、『リピは日本史か何かの先生なんですか?』と聞かれることがあります。リピは全くのパンピーです。ただの歴ヲタです笑

⭐️日比谷見附跡⭐️

馬場先門交差点へ戻り日比谷濠を南進すると日比谷公園が見えてきます。
公園に入ると直ぐ左手に『日比谷見附』の石垣が現れます。見附とは番兵や監視人が駐屯する施設で、人の往来や物資の輸送の監視を行っていました。江戸城には36ヶ所の門や見附があり、都内には現在でも赤坂見附や四谷見附などの地名が残されています。

⭐️伊達政宗終焉の地⭐️

日比谷見附の直ぐ先、右手には伊達政宗終焉の地と書かれた説明板が掲げられています。
江戸時代初期、日比谷には仙台藩の上屋敷がありました。1635年、徳川家光による『参勤交代』令が発せられた際、異を唱える他の大名達を制していち早くこれに従った政宗でありましたが、くしくも翌年(1636年)の参勤交代途中に病状が急変し、江戸に到着して1ヶ月後にこの上屋敷で逝去されています。以下、政宗辞世の句です。

『曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く』

余談ですが、伊達氏は現在の当主から先祖を遡ることができます。途中の養子縁組もなく脈脈と続く系図は大変珍しく、伊達氏以前の『中村氏』、それ以前の『藤原氏』、最後には〝乙巳の変(大化の改新)〟で活躍した『藤原(中臣)鎌足』にまで辿り着くことができます。ちなみにサンドウィッチマンの『伊達みきお』さんは政宗の直系ではなく、政宗の先祖から分かれた分家になります。ただ、途中に2回ほど養子縁組が行われており、政宗と同じ血が流れているかは詳しく調べてみないと分かりません。

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リピ散歩👟 甲州街道編⑪

街道旅は東京駅を離れ、皇居外苑を南周りして進んで行きます。テレビ等でよく観られるマラソンランナーも多かったですね〜🏃🏃‍♀️💨

⭐️和田倉橋⭐️

丸の内北口から『丸の内1st』という小池都知事が命名したような道路を西へ進むと(笑)国道の先に『和田倉橋』が見えてきます。こちらは木製の橋が復元され、和田倉橋の先にある和田倉門跡も含めて江戸時代へタイムスリップをした気分が味わえます。

和田倉の由来ですが『和田=わた=海』のことだそうです。江戸時代初期までこの辺りには『日比谷入江』が広がっており、湾沿いに蔵が立ち並んでいたことから『和田蔵』と名付けられたそうです。そう言えば『元ちとせ』さんの『ワダツミの木』も海の神様を表現した歌でしたね。ちなみに『日比谷』の語源も『日比=篊(ひび)=海苔や牡蠣を付着させるために浅瀬に刺す粗朶(そだ)』だそうで、こちらも海に関係のある地名とされています。
尚、日比谷入江は御茶ノ水駅付近にあった『神田山』を掘削した土砂で埋め立てが行われました。埋め立てに際し、日比谷入江で漁をしていた住民は八丁堀や芝へ移っていったそうです。八丁堀3丁目は昭和初期まで『日比谷町』という名が残されており、また八丁堀駅の北東には現在でも『日比谷稲荷神社』が祀られています。

⭐️楠木正成像⭐️

甲州街道は国道を南進、馬場先門交差点を右折して皇居外苑にある楠木正成像へ立ち寄りました。『楠木正成』は鎌倉幕府の討幕に貢献した教科書でお馴染みの武将ですね。正成は足利尊氏らの有力御家人たちが『建武の新政』から離れていく中、最後まで後醍醐天皇に忠誠を尽くしました。
この像は別子銅山開抗200周年を記念して当時の住友財閥から寄進されたもので、明治22年(1889年)に計画され、彫刻家『高村光雲』を中心として明治33年(1900年)に完成しました。上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と共に『東京三大銅像』とされ、現代でも皇居の守り神のようにキリリとした表情で馬に跨っています。

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リピ散歩👟 甲州街道編⑩

あちこち寄り道をしていましたが、再び呉服橋交差点に戻り東京駅方面へ向かいます。高いビルとスタイリッシュなリーマンたちにオドオドしながら石垣や説明板を眺める田舎者のリピでした笑

⭐️北町奉行所跡⭐️

呉服橋交差点の南西に鉄鋼ビルがあり、その西側にあるトラストタワーとの間を左折してビルとビルとの間を進んで行くと『北町奉行所跡』の説明板があります(古地図を見ると呉服橋門を渡った左側に北町奉行所を確認できます)
北町奉行所は1806年〜幕末までこの地に置かれ、南町奉行所と交代で職務を行っていました。有名な〝遠山の金さん(遠山景元)〟は1840〜1843年にかけここで采配を振るっていたそうです。
ちなみに景元は奉行という立場にありながら水野忠邦の【天保の改革】に反対し奉行職を罷免されています。天保の改革では寄席の閉鎖や歌舞伎役者の処罰など過度な贅沢を禁止したため江戸の町人にとって不満がたまる結果となりました。改革に反対した遠山景元が町人の英雄となったことで〝庶民のヒーロー〟遠山の金さんが生まれたそうです。尚、南町奉行所は有楽町駅付近にあったそうで、駅前広場に『南町奉行所跡碑』が建てられています。

⭐️丸の内⭐️

北町奉行所跡から東京駅構内に入り『丸の内北口』方向へ向けて西進します。この東京駅を含めた一帯は『丸の内』と呼ばれています。日本の城には本丸や二ノ丸など〝丸〟という表現を用い、外堀通りから江戸城の敷地内に入るという意味で〝丸の内〟と名付けられたそうです。
江戸時代には多くの大名屋敷が立ち並び『大名小路』と呼ばれていましたが、明治に入ると大名制度も解体され大名小路は廃れていきました。明治政府により日本軍の施設が置かれた時期もありましたが、堀に囲まれた土地のため用地が狭く、軍備拡張を目指す日本軍はより広い土地へ移転していったそうです。
その空いた土地に目を付けたのが三菱財閥二代目総帥『岩崎弥之助』です。明治23年(1890年)、弥之助は丸の内一帯を買い上げ『三菱一号館』を造ります。その後多くの企業が丸の内へと入り、更に大正時代に東京駅の開業や道路整備が進んだことで丸の内は世界有数のオフィス街へと発展していきます。近代的なビルと煉瓦造りの東京駅とのコントラストは映えますね。

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #北町奉行所跡 #丸ノ内
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リピ散歩👟 甲州街道編⑨

前回、題名を書くの忘れてました。まぁ、誰も気にする人いないでしょうけどね (。-_-。)
すでに⑨回目を迎えましたかが…もうちょっとだけ続くんじゃ(亀仙人風)

⭐️常磐橋と常盤橋門跡⭐️

日銀の西側、常磐橋へ立ち寄りました。あれ?昨日の投稿で常盤橋は越えたはずだよね?って思った方、漢字をよ〜く見ると違いが分かります。前回越えた車道のほうは〝常盤橋〟で、今回記載した歩道のほうは〝常磐橋〟なんです。2つの〝ときわばし〟を区別するために漢字を変えたようです。ちなみにこの常磐橋の先にある常盤橋御門跡には〝盤〟の文字が使われています。常盤橋門は奥州道(日光街道)に通じる重要な門として、桜田門・半蔵門・田安門・神田橋門とともに『江戸五口』と呼ばれたていたそうです。

常磐橋は明治10年(1877年)に木橋から石橋に改築され大正時代に『関東大震災』を経験しましたが、その後の保存状態も良かったため昭和3年(1928年)に国の史跡に指定されています。ただ、築年数と東日本大地震の揺れには耐えられなかったのか?橋の一部に歪みが生じたため大規模な復旧工事が行われました。工事は2021年に終了し明治時代を思わせる素晴らしい石橋が復元されています。以前、ブラタモリでも取り上げられていましたね。

尚、常盤橋門の南側に渋沢栄一像が建っていますが、これは渋沢栄一に関連する団体『渋谷青淵記念会』が1933年にこの常磐橋公園を整備したからだそうです。北区・板橋区とともに都内に残る三体のうちの一体です。

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #東京 #常磐橋
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昨日は旧街道旅投稿をお休みしたので、今日は倍の量を投稿します(うそ)

一石橋を渡り常盤橋交差点を過ぎると右手に日銀の旧館が見えてきます。

⭐️日本銀行⭐️

室町幕府の御用金匠であった後藤家の名代として、1595年に後藤庄三郎光次が江戸に下向、徳川家康の命によりこの地で小判の製造が始まりました。江戸初期は駿府・京都・佐渡・甲府などにも製造場所はあったようですが100年後の元禄期には江戸に統一されたようです。
江戸時代において金貨・銀貨・銭貨などを貨幣の基本単位とし、金貨を造幣する施設を【金座】、銀貨を造幣する施設を【銀座】と呼ぶなど、鋳造場所には〝貨幣の種類〟が名付けられていました。この日銀の場所は金貨を造幣していたので【金座】、今や高級店が立ち並ぶ【銀座】は銀貨を鋳造を行っていました。ちなみに金座・銀座・銭座以外、銅座という施設も存在しましたが、これは貨幣ではなく銅の管理や販売を目的としたものだったということです。
明治になり金座は『日本銀行』と名を変え貨幣の単位も『円』に変わりました。日銀の旧館を上空から見ると『円』という漢字に見えるのはこれを意識していたのか?いなかったのか?その答えははっきりと解明されていないそうです。

また、日銀の向かいには『日本銀行金融研究所』があり、館内には『貨幣博物館』が併設されています。日銀関連施設ということで入館する際には赤外線検査など空港並みの手荷物検査がありました。『ピンポーン!』って鳴らなくて良かったです(笑)

#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道旅 #東京 #日本銀行
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リピ散歩👟 甲州街道編⑦

甲州街道は呉服橋交差点を西へ向かいますが、交差点を右折して北に向かい、何ヵ所か寄り道をしました🤭右折して直ぐに『一石橋』があり、橋の南西詰に『迷子しらせ石標』が建っています。

①一石橋の由来
江戸時代初期、橋の北側には幕府金座御用『後藤庄三郎光次』の屋敷があり、橋の南側には呉服屋『後藤縫殿助』の屋敷がありました。各々の屋敷の間には日本橋川がありましたが、両家が資金援助をして橋が掛けたそうです。後藤家と後藤家により掛けられた橋ということで
【 五斗(後藤)+五斗(後藤)=一石 】
から一石橋と名付けられました。洒落ですね(笑

②一石橋迷子しらせ石標(1857年建立)
江戸時代後期、一石橋付近から日本橋にかけ街は大変賑わっていました。その反面迷子も多かったそうで地元の名主たちが町奉行所に申請し『迷子知らせ石』を建立したそうです。石標左側の窪みに迷子や尋人の特徴を書いた紙を貼り、その人物に心当たりがあった者はその旨を書いた紙を右側の窪みに貼ったそうです。伝言板ですね。
『満(ま)よひ子の志(し)るべ』
『たづぬる方』
『志らす類方』

③几号水準点
石標の下に【不】のようなマークが刻まれており『几号水準点』と呼ばれています。このマークは明治初期に日本の高低測量を行うために設けた〝測量点〟で、明治9年〜10年ごろイギリス式測量方を用いて測量を行いました。このマークは三脚と上に乗る台を示しており、台=机との観点から【几号】の文字が当てられたようです。
東京には166ヶ所ほど設置されたそうですが、都内に40ヶ所ほど現像しているそうです。几号を刻む石は永年保存される構造物が適しているため、神社の鳥居や石塔、江戸城の石垣などに多く刻まれています。几号水準点を示すサイトがあるので、興味のある方は調べてみて下さい。宝探しのようで面白いですよ。
ちなみに東京〜塩釜(宮城県)の測量をするために日光街道や奥州街道沿いには沢山の几号水準点があります。私自身もこの二つの街道を歩いた際に【不】マーク探しは楽しかったです。

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リピ散歩👟 甲州街道編⑥

さて、いよいよ日本橋を発ちます。北へ向かう街道は中山道と日光街道(奥州街道)、南へ向かう街道は東海道と甲州街道です。

⭐️呉服町と呉服橋⭐️

日本橋から150m ほど南へ進むと日本橋交差点があり甲州街道はここを右折します。江戸時代、日本橋交差点付近から250m ほど先の呉服橋交差点付近まで幕府御用達の呉服問屋が立ち並び『呉服町』と呼ばれていました。現在では『呉服橋』の交差点のみ往時を偲ばせる名前が残されています。

呉服橋交差点を南北に走る『外堀通り』には文字通り『江戸城の外堀り』がありました。外堀りに架かる橋は『呉服橋(地図写真の◯地点)』と呼ばれ、呉服橋を渡ると呉服橋門、門を潜ると多くの大名屋敷がありました。ここを通る街道を『大名小路』と呼んでいたそうです。
甲州街道の正規ルートは呉服橋を渡り大名小路を通過していったようですが、大名の御用達でもない限り庶民がおいそれと通過できる場所とも思えません。おそらく、ほとんどの庶民は外堀りの外側を有楽町方面に南下していったのでしょうね。
尚、外堀りは第二次世界大戦後に出た大量の瓦礫を処分するため埋められてしまったそうです。東京駅は大正3年(1914年)の開業なので、外堀り沿りに建つ東京駅を見てみたかったです。

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リピ散歩👟 甲州街道編⑤

今回が日本橋にまつわる最後の投稿です。滞在が長かった日本橋(笑)

⭐️日本橋魚市場発祥の地⭐️

日本橋北東詰には日本橋魚河岸跡碑があります。

1590年、徳川家康が江戸に転封となった際、摂津国の佃村(現大阪府西淀川区佃)から30名ほどの漁師が江戸に下向しました。彼らは江戸湾の一部を埋め立てて島を形成し、故郷の名前を取って『佃島』と名付けました。
江戸湾で獲れる魚介類を徳川家に献上するというのが彼らの目的だったようですが、江戸湾の魚介類があまりにも多く獲れるため幕府の許可を得て日本橋周辺で魚屋を始める店が増えたそうです。これをきっかけに日本橋には多くの魚店が建ち並び『日本橋魚河岸』が形成されていきました。

江戸時代はもちろん、明治維新後も日本橋魚河岸は大いに発展しました。しかし、大正12年(1923年)に起こった関東大震災で日本橋魚河岸は大打撃を受けその後築地へ移転していったそうです。少し前に築地から豊洲への移転問題で魚河岸がクローズアップされていましたが、こういった事実を踏まえてからニュースを見ると歴史の重みを感じる事のできる場所だと思います。

ちなみに徳川家に献上する以外の魚介類を彼らが保存食ように加工したものが『佃煮』です。冷蔵庫も無かった時代ですので飛ぶように売れたそうです。大阪の佃、東京の佃、そして日本橋が繋がりましたね。歴史は点と点ではなく線で覚えましょ(๑˃̵ᴗ˂̵)

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リピ散歩👟 甲州街道編④

未だに日本橋から出発しない街道旅(笑)もう少しお付き合いくださいませ🍀

⭐️日本国道路元標と東京市道路元標⭐️

日本橋の北西詰には【日本国道路元標(レプリカ)】と【東京市道路元標】が建っています。
明治6年(1873年)、政府は全国の府県に『里程元標』を設けることを定め、東京は日本橋、京都は三条大橋、大阪府と各県は本庁の要所に木標を建て各距離間を明確にすることで道路交通網の強化にあたりました。その後、明治44年(1911年)に現在の日本橋が架設された際、橋の中央部に【東京市道路元標】が設けられ、更に昭和3年(1928年)に都電の架線を懸架する目的で支柱を兼ねた道路元標に建て替えられました(現在展示されているもの)
戦後も日本橋の中央にあった東京市道路元標ですが、昭和47年(1972年)に都電が廃止され現在の場所へ移設されました。その跡に【日本国道路元標】が埋め込まれ現在に至ります(こちらは本物です)。尚、日本国道路元標の揮毫(きごう)は時の総理大臣『佐藤栄作』氏によるものです。

ちなみに大正8年(1919年)に旧道路法が制定され、3年後の大正11年(1922年)に全国に12000以上あった各市町村に対して石製の道路元標の設置が義務付けられました。実はこの道路元標、現在でも全国各地にかなりの数が残されています。材質は花崗岩(白っぽい石)が多く、高さ60cmほどの立方体で上部が丸く削られています。Googleマップ等で確認できるので地元の道路元標を調べてみるのも面白いかと思いますよ。

余談ですが、『東京 ◯◯km 』などの看板を見かけた際、◯◯はこの道路元標までの距離を示しています。地方から東京へ向かう際のご参考になればと思います😊

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リピ散歩👟 甲州街道編③

さぁ、良い子のみんな〜!今週3回目の雑学の時間ですよ〜(ウザい)笑

⭐️麒麟像と獅子像⭐️

日本橋の欄干には様々な装飾が施されており、中でも特に目を引くのが青銅製の麒麟像と獅子像だと思います。これらの像は明治44年に施工された日本橋の架け替えの際に彫刻家の『渡辺長男』氏を中心に製作されたものです。

まずは麒麟像についてです。古代中国の思想『陰陽五行説』における4つの方位を司る神獣として【玄武=北】【青龍=東】【朱雀=南】【白虎=西】が挙げられます。これらはマンガやゲームなどで何となく聞いたことがある方も多いと思いますが、更に飛躍した『五神信仰』の思想においては方位の中心にも神獣を示し、そこに麒麟(または黄龍)が置かれています。
麒麟は元々〝吉兆や繁栄を現す〟とされていることから日本の更なる発展を願い製作されたと思われます。ただ、この麒麟像の背中には世界で類を見ない翼のようなものが生えています。渡辺氏曰く〝翼のような背ビレ〟とのことで、日本の道路の始点である日本橋から世界に飛び建つという祈りも込めて製作されたそうです。1999年には国の重要文化財に指定され、最近では東野圭吾作『麒麟の翼』でも有名になった像ですね。

次に獅子像についてです。日本橋全体の設計者である『妻木頼黄』氏から〝ヨーロッパ風の盾を持つライオン像〟をイメージしてデザインを依頼されていた渡辺氏ですが、実際は奈良県手向山八幡宮の狛犬をイメージしてデザインしたようです。盾の代わりとして製作されたのが獅子像が抱えているギアのようなマークの彫刻で、このマークは東京都の紋章だそうです。獅子には〝鎮護する〟という意味があるので〝東京を護る〟という想いが込められているそうです。ちなみにこのマーク、太陽から6方向に光の差す東京をイメージしているそうですよ。

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リピ散歩👟【甲州街道編】

そんなわけで今日は久しぶりのリピ散歩に行ってきました。
今回はちょっと遠出しての甲州街道旅です🚶‍♂️💨マイナーな街道旅と違い五街道の旅は見どころも多く、ウンチクを語りたいリピは今回の旅の見どころを少しずつ語ることにしました🍀説明が長いので歴史があまり得意出ない方はサラッと流しちゃって下さいね笑

⭐️まず初めは日本橋からです⭐️

日本橋は江戸時代の五街道【 東海道、中山道、日光街道(奥州街道)、甲州街道 】のスタート地点として1603年に徳川家康により最初の日本橋が架けられました。江戸の中心に近いこと、また、ここから大いに国が発展してもらいたいという願いを込め『日本橋』と名付けられました。その後19回の掛け替え工事が行われ、現在の日本橋で20代目とされています(諸説あり)

明治時代に入ると明治18年(1885年)に国道の起点とされ、明治44年には現在の石造二連アーチ橋が掛けられました。近代日本建築の象徴としてその景観を保ってきた日本橋ですが、その後転機が訪れます。翌年に東京オリンピックを控えた昭和38年(1963年)、用地買収に困った政府により日本橋川上空に首都高速道路が建設されてしまいます。これにより日本橋は上から蓋を被せられた形になり、現在その景観は失われてしまっています。

日本橋の今後ですが『首都高速道路日本橋区間地下化事業』において日本橋周辺の首都高は日本橋川の地下を通るように工事が進められています。完成は2040年ということでまだまだ先の話ではありますが、往時の風景が蘇る日もそう遠くないですね。楽しみです。

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リピ散歩👟 〜予告編〜

リピ、日本橋から甲州街道を歩いてます。

史跡を見ながらキョロキョロ👀
『史跡を見てるんだからね!ど田舎から来た人みたいな目で俺を見ないでね🥺』

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