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めんちかつ
1. 民主主義の原理と法律への違和感
法律とは何かをGeminiに聞いてみると
「国会(国民の代表機関)の議決を経て制定される成文法の一形式」
と答えた。
だが私はこの回答に腑に落ちない、私は生まれてからこのかた国会に出席して法律を作ったり、議決にかかわったことはない。勝手に法律なんて作ってるんじゃねえよみたいな感じである。
2. 大学時代の専攻と法律の不在
私は大学時代は経営学科だったので、法律をほとんど学んだことはなかった。
必修科目でも一般教養でも法律を学んだことはほとんどない、当時旧商法が会社法になり、話題は少しあったが、経営学科の授業にはほとんど問題とされることはなかった。
今思うと高等教育機関の経営学科で最新の会社法を知らないというのが教授や講師たちも、ばれたくなかったのかもしれない。
会社法の施行は2006年5月1日である、私の在学していた1999年から2002年はまだ旧商法の時代だったので、関係ないといえば関係なかったのかもしれない。
しかし、自分たちは商法という我が国における商売の根本原則に従って教壇に立って、みずからは商売人でもないのに商売についてしったかぶりを語り、先生と呼ばれているのに、その根源である会社法の新設というのは知らんふりしておくべき事象だったのかもしれない。
3. 経営学から哲学への逃避と偏愛
少し脱線したが、法律については商法や会社法はおろか、私は大学に入って毎日四時間以上の長大な通学時間に読書を本格的に始め、哲学やおもに人文書ばかり読むようになっていた。 思うに書物を読むというのはある意味自分の考えを著者に合わせたり、批判的に読むといっても、その本から思考とか考え方を大いに影響を受けることだった。
私は西洋哲学を勉強するにつれ、西洋哲学最高学問説を言うまでもなく信じこむようになっていて、哲学、それも西洋哲学的に生きることだけが正しい生の道であり、それ以外の生き方、思想を持っている人たちはクソだとも思っていた。
揺れる電車、静かな田園風景。しかし、彼の頭の中では哲学の巨匠たちが熱い議論を交わしている。
4. 哲学不要論と現実の習慣
だが、哲学不要論があるように、哲学や思想、宗教というものは生きていても不要なものなのである。
大多数の人はその人の住んでいる場所の習慣によって生活してるし、西洋哲学者たちも習慣や、人々のもともと持っている良心にしたがって生きている人のほうが素晴らしいと考えている人もいる
私は本を大量に読んだといっても、古典ばかり読んでたわけではない 私の当時の読書は多くが西洋哲学や思想を理解するための比較文化論の勉強に費やされていた。
特に中根千恵、会田雄次の本はかなりたくさん読んだ。
そしてその流れで同じく講談社新書や中公新書、新潮選書などに多く本を出していた西尾幹二氏の著書を読むようになった。同じ右派の思想家の西部邁氏も好きで、彼が正論などのオピニオン誌に出るときは記事をたまに読んでいたが、私の読んだ彼の本は「貧困なる過剰」と「国民の道徳」だけであった。前著は本当によくできていて、ものすごく頭の良い人だなと思った。
5. 師の苦悩と進路の挫折
西部氏とは生前にお会いしたことはなかったのだが、彼の弟子をしていた巨漢の方と2000年前後に思想家の呉智英氏の主催していた以費塾で講義の後に酒を飲み、「西部先生の著作は全部口述だ。」と聞き、彼は天才だと話してたのを覚えてる。
その巨漢の彼からは酔っ払いながら、オーバードクターの苦悩についてひたすら語られていた。
いかに日本のアカデミズムで職を得るのが難しいか、博士まで進むと仕事がなくなるか、女にいかにもてないか。 雑誌の仕事も出版社の仕事も大学の仕事も全部コネで決まる。とむちゃくちゃなことも語っていた。今思えば本当にそうなのかなと思うこともあったが、おかげで私は修士に進むのをすっかりあきらめてしまった。
6. 法律と運命:公務員という選択
話は戻るが、結果的に私は若い時期の哲学の情熱も、大学四年間、往復四時間以上かけて通った経営学科、経営学やビジネスの勉強もあきらめて、地方公務員になってしまった。病気を悪くしてもう10年以上前にやめている。偶然にもプラトンの対話編、法律というのがあるが、それと同じ、法に従って仕事をする、行政マンになってしまったわけだ。当時は就職氷河期で、他人がうらやむ立場だったのに違いない。非正規や長時間労働で多くの人が苦しんでいたのに、私とすると、風俗通いするとか、酒を飲んだりとか、さんざん好き勝手をやっていた。
7. 後悔と「法」の力
自分自身に法律とか、その近代法を支えるための思想的知識があったなら、もっとまじめな、まともな人間になれたと思う。公務員試験の勉強をしていて憲法とか学ぶと、本当に素晴らしいなと思った。もしかしたら、私は公務員でも哲学者でもなく、弁護士になり、弱い人々を助ける方向に人生のかじを切りたかったと思う。今でも私が病気にならなければ何になれていたのかもわからない。宗教家を目指してたかもしれないし、ユーチューバーになっていたかもしれない。
8. 東洋の知恵と現代の現実
古代中国は法治国家に結果的になってしまったが、「人は法律によって人民を治めようとすると法律から逃れようとして不徳を犯すが、礼をもって統治すれば人々は恥を知る。」という、そういう教えがあるのは知っていた。私は大学時代に呉智英氏の論語塾に通っていた。彼が語る孔子先生の素晴らしさはわかっていたつもりである。しかし世の中は、どんなことにつけても法律でできている。あれをする、これをする、ビジネスの決まりは会社法で、人を殺したり、モノを盗んだりとかは刑法である。思うに私も法律を志せばよかったのかもしれない。しかし、私は法律そのものよりも、法律の存在、意義自体を疑う性分(しょうぶん)の人間であったし、今思うと哲学を志し、挫折し、仕事もなく友人もなく、金もなく、病気でそういう運命に陥ったのも仕方がないかなという気がするのである。
現代の法と秩序の中で、東洋の知恵「礼」が問う。技術と法律に囲まれた世界で、真の道徳と規範を瞑想する。
9. 未来の当たり前にしたいこと:国民が「法の意義を愛する」社会
今、私が過去に哲学を志し、挫折し、仕事もなく友人もなく、金もなく、病気で辿(たど)り着いた運命に諦念(ていねん)を抱くことは容易です。しかし、私の長年の「法律は誰が勝手に作っているのか」という根本的な違和感と、「弱い人々を助けたい」という情熱は、この国の未来への具体的なビジョンとして昇華できるはずです。
私が「未来の当たり前にしたいこと」は、国民全員が「法の意義を疑い、そして愛せる」社会の実現です。 これは、…これは、単に法を遵守するだけの社会ではありません。私が憲法に感じた「崇高な思想」、そして古代の「礼をもって統治すれば人々は恥を知る」という教えを、現代の法制度に融合させる挑戦です。
具体的には、立法・行政のプロセスに、市民が法律の「哲学的・倫理的妥当性」を議論する場を義務付けます。この場は単なる意見聴取ではなく、市民が「法の当事者」として、自らの良心と生活に根ざしたルールを主体的に構築するプラットフォームです。 法律が、国会で決められた「規制」ではなく、私たち一人ひとりの「共有の規範」となる未来。これこそが、私が20年後の当たり前にしたい、法の根源への疑問から出発した、新しい民主主義の形です。
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めんちかつ
🤝 私の未来の「当たり前」:多様な個人が共存する社会の到来
私の未来の当たり前にしたいことは、ひとりひとりが多様性を認め、共存できる社会が到来することです。
私は日本の伝統と、私たちが持っている価値観をとても尊重しています。しかし、明治維新から時がかなり経ち、当時の状況とそぐわず、変革のために行った当時の改革などが、かえって私たちが現代的に生きる上で足かせになっている面が多くあると考えています
⛩️ 明治の改革が生んだ「足かせ」としての家族制度
その一つが日本の家族制度です。当時は家制度を中心とした明治民法の影響の強かった家族形態が成立したと思います。具体的には戸籍制度などがその一例です。
私は戸籍制度や家制度そのものが悪かったとは思いません。しかし、当時は富国強兵政策など、西洋に対して近代化を推進するうえで、家族やそのほかの社会制度も政府の強権を支えるための、なかば原動力としてつくられ、戦後に外国と戦争するとか、欧米の植民地化から日本を守るとか、ある意味での大義名分がなくなってしまったのにも関わらず、仕組みや制度自体が法律の名前を変えて存続し、現代の日本人はそれにがんじがらめになっている、そんな感じがするのです。
⚖️ 夫婦別姓・戸籍制度への反発と「大和魂」の過剰な関連付け
たとえば、最近夫婦別姓制度とか、戸籍制度そのものに疑義を呈する方たちがいて、それに対する反発がありました。日本の多くの人たちが、夫婦別姓制度を導入したり、戸籍制度を改めると、それまで私たち日本人が大事にしていた価値観、大和魂や、武士道、あるいはおよびにおよんで天皇制度や国体にまで影響してしまうというおおげさな議論もあります。
しかしながら、これらの制度を改正することにより、日本の社会にとって良い面でのメリットはあると思います。
🚺🚹 社会的強制力としてのジェンダーと生きづらさ
まず、アジア人からも批判されているのが日本社会におけるジェンダーの強さ、これは男性は外で出て働き、女性は家庭を守るとか、そういう基本的な家族のあり方にも影響しておりますが、男性はこういう生き方をしろ、女性はこういう生き方をしろとか、少し日本のいつも手本にしている欧米とは違った社会的強制が現代日本にはあると思います。もちろんそのすべてが法律から来てるものではないけれども、教育とか、それに対するメディアの影響はとても大きいと思います。
これは推測の話ですが、もしかしたら現代の日本の大きな問題である、不登校やひきこもりの問題も、こうしたこうあらねばならない的な、ジェンダーとか、何らかの価値観の影響で、子供たちが自信を失い、外に出ることを忌避(きひ)し、引きこもったり不登校になるのかもしれません。
私は極端なジェンダー論者ではありませんが、男の子がスカートを履いても良い、男の子がサッカーよりもおままごとをしても良いとか、小さいうちから少なくとも趣味とか食べる料理とか、外見とか、あらゆること全般にわたってあれはだめ、これはだめと言われない世の中が正しいと思っています。
*例えばラーメン屋に女性が一人で食事をしに来てもいいじゃないですか。
🌟 困難を乗り越える「未来への楽観」の重要性
私は不登校や引きこもりの気質が小さい時からとてもありましたが、学校に行かなくなったり、外に出ることができなくなったりはありませんでした。それはひとえに太陽を愛していたこと、そして人間不信論者でしたが、最終的には愛だとか、友情とか、人間を愛していた、人生を愛していたからではないでしょうか。もしも小さい時に、将来大人になると病気になる、仕事もなくなる、結婚もできないだろうなどと未来の私に言われていたら、ひきこもってたかもしれないし、自殺していたかもしれません。人間にはある意味未来への楽観がなければ生きていけない、私はそう実感しています。
🌎 多様性としての外国人:アジアへの「近くて遠い」感情
さて、話を多様性の話に戻そうと思います。現代において多様性とは、なにもジェンダーだけではなく、外国人の存在があると思います。東京や京都、大阪など、観光地は外国人が押し寄せ、地方の自治体にもかなり多くの外国人たちが働きに来ています。おそらくは最近まで、外国人というと欧米人のみをさし、日本にとって韓国とか、中国とか、同じアジアの外国人というのは顔や体は似てるけれども、なんというか、近くて遠い存在でした。まだ深く差別感情を持っている方もいます。その同じ東アジア、儒教文化圏の外国人に対して持っている複雑な感情は、太平洋戦争、保守の方に言わせると大東亜戦争の傷跡が深く今の日本人にも残されているからだと思います。
🗺️ 島国根性の裏返し?日本人の「自己否定」としての海外論
日本と日本人にとって海外とか、外国というのは自ら否定する、自己否定の概念だと先日亡くなったドイツ文学者の西尾幹二先生がおっしゃってました。確かに日本人が、たとえば海外だとこういう習慣があるとか、外国だとこうだとか語るときは、私たちの手元にあるなんらかの文化や価値観を否定する時にそういう話題を使うのであり、もっといえば、自称国際人たちにとっての外国とは西洋人、白人のそれをさしているのであり、それを取り上げる人たちはどこか彼らに対してまだ劣等感がある。それは有色人種としてのプライドや誇りとか、そういうのにも関連していますし、日本という島国に生まれたからこその、いわゆる物事が世界規模で客観視できない、島国根性の裏返しとすら私は思います。
📚 比較文化論のジレンマ:西洋を「鏡」とした自己理解
私は若い時期に大量の本を読みましたが、大半が比較文化論に関する本でした。中根千恵、会田雄次、西尾幹二、中島義道らどの人たちもイギリス、古代ローマ、ドイツなどを彼らは語ります。
しかし、比較文化と言っても西洋と比べたうえでの比較を語る、今思うと彼らは自覚がないにしても西洋主義者なのかなと思います。彼らが外国のことを口に出すのに、その大半が欧米のことですし、よく観察してみると、欧米と言ってもアメリカ、カナダ、オーストラリアなどの国について語るのはとても少ない。西尾氏は反米の政治路線を語ることもありましたが、その思想は深くヨーロッパから来ているものであり、ショーペンハウアーの訳者とはいえ、彼がインド主義者だったとか、アジア主義者だったという感じは持てません。
こう語ってしまうと、これらの本を読むのはたいそう無駄なことだったのではないかとも私は思います。しかしながら、何か特定の文化や思想を語るには、それの鏡となるものが必要なのです。少なくとも比較対象があると、自分の国である日本を語る上でも説得力がある。だからこれらの人々は積極的に欧米から学び、ある時は日本の社会やシステムを批判したのだと思います。とりわけ中島氏と西尾氏の研究対象はドイツ哲学でありましたから、西洋人の考え方を理解するためにも比較文化論的な見地がおおいに必要だったと推察しています。
💡 まとめ:制度の呪縛を解き放ち、多様性を力に変える行動する哲学へ
日本が近代化のために導入し、戦後も形を変えて存続してきた家族制度や社会的価値観は、現代の日本人にとって「こうあらねばならない」という見えない強制力となり、多様な生き方を阻害する要因となっています。ジェンダーの固定化や、アジア諸国に対する複雑な感情、そして海外を自己否定の鏡として見る視線は、すべて過去の歴史的経緯と深く結びついています。
戸籍制度や夫婦別姓の議論に「国体」を結びつける過剰な反発は、現代社会に必要な制度の柔軟な変革を妨げ、ひいては不登校や引きこもりといった個人の生きづらさにつながっている可能性があります。多様性を真に実現するには、過去の制度の残滓(ざんし)から来る呪縛を冷静に見極め、伝統の尊重と現代的な個人の尊厳・平等を両立させる、具体的な社会システムの変革を恐れない「行動する哲学」が必要です。
私たちが本当に守るべきは、特定の「制度」ではなく、未来への楽観と、互いを認め合う共存の精神ではないでしょうか。
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