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せんせー

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#思いつき超長文

いつから綺麗って感じれるようになったのでしょうか?


僕は、比較的建物が多い場所で育ったこともあり、大都会の夜景より、建物ひとつない田舎の空に感動する事が多いように思います。

一方、無作為な灯りを灯す高層ビル群や、星空のようなイルミネーションもそれはそれで綺麗だなと思います。

ただ、思うんです。
小学4年生の自分が同じように綺麗と思うのでしょうか?

田舎の大空を見て、
もしかしたら、ふーんくらいには思うかもしれません。
そんな事より早くゲームをやりたいと言い出す少年だったかもしれません。(いや、きっとそうに違いないです)

都会の夜景を見て、
もしかしたら、ほーんくらいには思うかもしれません。
そんな事より早くゲームをやりたいと言い出す少年だったかもしれません。(結局ゲームが一番好きなんです)

もうあの頃の感性は返ってきませんし、
いつ「綺麗」を実感するようになったのかも覚えていません。

それはもしかしたら、後付け、というか文化的なものなのかもしれません。
生きていく中で、「何が綺麗なものとして扱われているか」を学んで、それを通して綺麗の感覚を身につけていくのかもしれません。

この自分が感じてる綺麗は、学んだものなのか?という疑問を一旦横に置いて、自分の記憶を辿ると、何故か覚えてる事があります。

小学4年生、
夏休み、自由研究のため祖父の家で雲の描き方を教えてもらった時、部屋から見上げた白い雲と快晴の朝空。
祖母の車に乗り田舎道を走ってる時、後部座席から見上げたグラデーションのかかった夕空。

どちらも何かいいなって思いながら、ぼーっと魅入っていました。(自由研究めんどくさいなも10%くらいは思ってましたけど)

今、おや?と思いました。

綺麗が分からなくても、それらしき事を感じていたんだなと。
それは誰かから教えてもらったものではなく、理由は分からなくても確かに自分の内側から出てきたものでした。


個人的には、何を綺麗と思えるかは、後天的に勉強する事ができると思ってます。
それは、一定の理論に則り、絵を見て、風景を見て、人物を見て、言葉を見る中で感じられるものもあれば、そこから逸脱する姿に感じられるものもあると思います。

ただ、綺麗という感覚が、
説明できないけど「何となくいい」
という形で感じられることも多々あると思います。
そこには理論も理屈もなく、自分がいいと思ったからいい。しかありません。

これは、綺麗を感動に置き換えても同じ事が言えると思います。

理論も理屈もなく、ただ、感動する。
いや、それは、感動することが"できる"。
と言いたいです。

当たり前ですが、皆それぞれ、感動するポイントは違います。
ある程度同じだったりするところもありますが、やっぱり違ってくると思います。

高層ビル群が作り出す夜景に感動する人もいれば、
建築物としての高層ビルが持つ美しさに感動する人もいれば、
高層ビルの中にある汚れ一つない洗練されたトイレに感動する人もいます。(僕です)

だからこそ、他人の感性ってやつを見て、よくそんなところに感動できるなって感心するのだと思います。

そして、思うんです。

それが、才能ってものなんだろうと。
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#思いつき超長文

ゆっくり切り替わるという事

今年も後数日です。
12/31が終わる瞬間、その刹那に1/1が始まります。
一瞬の間に今年が去年になり、来年が今年になります。

この切り替わり、いつも、どうしても慌ただしさを感じてしまいます。

何というか、月の最終営業日が終わった次の日にまた数字を追い出す営業会社のような感覚に近いです。(昔営業やっていた頃は、この感覚が嫌いでした)

今月頑張ったー!
からの
はいじゃあまた今月を頑張って!

分かったからちょっと休ませてよ、、、

というような。


年末に近づけば、メディアもSNSも今年の振り返り的な発信が多くなり、否が応でも今年を振り返えるようになります。今年も色々あったなとか考えます。

でも、考えてるその時はまだ"今年"は終わってなく、気持ち的にはまだ全然"今年"です。

そして迎える12/31の23:59:59。
その1秒後に今年が去年になり、来年が今年になります。

今年終わったー

を味わう事もなく、
感慨深さもなく、
すぐに

新しい年が始まりました!!!

と、ハイテンションお祭りスタートを強制され、なんだかいきなりちょっと疲れます。
(年々お祭りについていけなくなっているのは歳のせいかもしれません)

この刹那的な切り替わりをめちゃめちゃめちゃめちゃ伸ばして、一旦、ほっとするような、来年への助走期間が数日欲しいものです。


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「ああ、ちゃんと今年も終わったかぁ」
「なんやかんや色々あったねぇ。良い年だったけどなんだか少し寂しいもんだねぇ」
「そうだねぇ。なんだか感慨深いよ」
「毎年同じこと言ってるねぇ」
「それでもねぇ、こうやって終わりをちゃんと味わえるのはとても良いことだと思うよ。だからこそ来年へ向かう準備ができるってもんよ」
「でもよう、この時期ってカレンダーで表現できないよなぁ。現実的に色んなところで問題が、、、」
「今はそんな野暮な言うやな」
「そういえばご近所の鮭松さんのところ、そろそろお子さんが産まれるらしいんだよ。どうやらこの期間中なんじゃないかって。」
「出生登録どうするんだろ、、、」

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こんな事になったら閏日よりややこしくなりそうですが、皆んながゆったり落ち着いている助走期間に産まれた子供は、ずっしりとし、かつ落ち着いて、穏やかで、達観した大人に育つ事でしょう(運動をしなくなってからの長座体前屈くらい無理のある着地)

何はともあれ、今年も自分にとってそんな慌ただしさを感じる瞬間が近づいており、それからは逃れる事はできません。

ただ、こういう切り替わるところで、見失い、零れ落ちてしまっている何か、感情のような感覚のような感性のような何か。
それがあるんじゃないかって思います。

急いで切り替わるが故に、
色々と無視したり蓋しちゃったりする何かがあると思います。

だからこそ、それを感じられる瞬間があるなら、
ちゃんと感じ取っていきたいと思います。

年末年始だけではなく、
何か大きな悲しみに支配された時
何か大きな喜びが溢れた時
それらをちゃんと味わって、少しずつ消化して、
じわりじわりと日常に戻っていけたらいいなと思ってます。(早食いは胃腸に悪いですので)

切り替えるのではなく、切り替えられるのでもなく、切り替わる。
しかもゆっくりと切り替わる。

ふと、思いました。

そんな、自然と流れるゆったりとした味わい深い時間感覚が、いつの間にか手放してしまった、ゆとりってやつなのかもしれない。と。
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